第5章 舞い降りたエンジェル(その10)
女性の鞄に座るところを明け渡した哲司は、仕方なく立ったままで携帯電話を取り出す。
暇つぶしにいつもやるゲームをしようと考えたのだ。
その電話機は、工業高校時代の同級生が勤めている携帯電話販売店で買ったものだ。
少し古い型だったが、千円でいいと言うものだから、飛びついた。
友達はありがたいものだと思った。
「内緒だから、誰にも言うな」と口止めをされていた。
その時、その同級生が、無料で幾つかのゲームをダウンロードしてくれていた。
暇を持て余している哲司の現状を知っていたかのようだ。
いまだに、そのゲームで遊んでいる。
そのゲームの3回目をやり始めた時、乗るべき急行電車がホームに入ってきた。
哲司は携帯電話を閉じて、あの女性がいる筈のベンチの方向を見た。
「ん?」
ベンチに、その女性の姿がない。
慌てて周囲を見渡す。
だが、見当たらない。
電車が停車位置で停まる。
ドアが開く。
哲司と同じように、その乗車位置で並んでいた乗客たちが次々と電車に乗り込んでいく。
哲司も、預かった鞄を手に持ったものの、肝心のその女性が一緒でなければ電車に乗り込むことも出来ない。
次々に追い越されていく。
仕舞いには「邪魔だなぁ」という声までが聞こえる。
それでも、哲司はその場を動くことができない。
「このまま乗ってしまう訳にも行かないし・・・。」
哲司は正直言って困惑した。
親切心で順番待ちと荷物の預かりを提案したものの、それがいざ乗ろうという時になって、まさかこのような状況になろうとは・・・。
この急行電車は、ここで3分ほど停車する。
乗り降りが多いのと、他線からの乗り継ぎなども考慮しているようだ。
だから、乗り降りが終ったからといって、直ぐにドアが閉められるということはない。
だが、それでも、後2分ぐらいしかない。
ポツンとホームに取り残されたように見える哲司だが、それでも目ではあちこち必死で女性の姿を追い求めている。
その時だ。
女性用トイレから、その女性が駆け出すようにして出てくるのが見えた。
「こっちです!・・・急いでください。」
哲司は女性に向かって大声で叫んだ。
(つづく)