第5章 舞い降りたエンジェル(その9)
それに、大きな旅行鞄を提げている。
「赤ちゃん連れだと大変ですねぇ。」
哲司は、余り深くは考えずにそう言った。
まだ春先だというのに、その女性の額には汗のようなものが光っていた。
「あっ、そうだ。
よろしければ、僕が順番を取っておきますから、あちらのベンチで休まれたら?」
哲司の精一杯の心遣いである。
「はい、有難うございます。
では、非常に厚かましいようですが、そのようにお願い出来ますでしょうか?」
「わかりました。ちゃんと順番は取っておきますから。」
それから、その女性は哲司が言うとおりに、ホームの中ほどに設置されているベンチへと向かおうとする。
赤ん坊を片手で抱いて、空いた片手で鞄を提げる。
「・・・もし、良かったら、その鞄もお預りしましょうか?」
哲司もこの言葉を口にするかどうかは迷った。
下手をすれば、その鞄を狙ってそう言っていると勘違いをされる場合もあるからだ。
それほどに、世知辛い世の中になってはいる。
「・・・・・・・・。」
そう言われた女性もさすがに少し考えている。
互いにここで今初めて顔を会わせた人間同士なのだ。
どこの誰かも一切知らない。
信用できるのか、そうでないのかも、一種の勘に頼る以外に術はない。
哲司も、女性が迷う理由が分っているだけに、どちらでも構わないと考えている。
「では・・・・、お願いできますか?」
女性は鞄を哲司に預ける気になったようだ。
「はい。では、・・・。」
哲司は、女性の鞄を自分が座るために敷いていたスーパーのチラシの上に置く。
「貴重品があるようでしたら、持って行ってくださいね。」
哲司は、そう言葉を付け加える。
「いえ、この子のものばかりですから。」
女性は、そう言って恥ずかしそうに笑った。
その笑顔が何とも美しい。
哲司に軽く会釈をしてから、女性はベンチへと歩いて行った。
その後姿が、どこかしら奈菜の後姿と似ているように思える哲司だった。
(つづく)