第5章 舞い降りたエンジェル(その5)
9時半には、哲司はアパートの自室に鍵を掛けていた。
階段を下りて外へ出る。
アパートの前もいつも見慣れた風景なのだが、昨日は、ここに奈菜の父親が乗る車があったのだ。
哲司は、その時の光景を思い出している。
父親の顔が蘇る。
連鎖的に、その父親に言われた言葉を思い出した。
「郵便受けの名前がちゃんとあった」と聞かされた。
その足で、郵便受けを見に行く。
ここにも、何度も足を運んだものだが、改めて名前の表示を意識してみた記憶はなかった。
「巽 哲司」と確かに印刷された札が入っていた。
もちろん哲司が書いたものではない。
他の郵便受けも見てみる。
確かに、全ての部屋の番号のところに名前が表示されている。
「う〜ん。なるほど。」
今頃気がつく自分にも呆れるが、そうした細かな事まで待っている間に見抜いてしまう奈菜の父親にも、別な意味で呆れるものを感じる。
「それだけ、ここの大家は管理がしっかりとしているってこと?」
父親に指摘されたことを素直に信じるつもりはないのだが、確かに、今時の単身者の集合住宅にしては、気配りはあるような気もする。
数少ない友人の中にも、ワンルームマンションや昔ながらの下宿のようなところに住んでいる奴もいるが、訪ねていっても、その人間が住んでいるのかどうか外部の人間には殆ど分らないのが現状だ。
よく、あれで、郵便物が届くものだと、改めて感心する。
「おっと、こうはしてられない。」
哲司はそう思いなおして、私鉄の駅へと道を急いだ。
角を左に曲がって、コンビニの前に差し掛かる。
まだ奈菜は勤務してはいないと分ってはいるが、自然と目線はその店内を走る。
店長や顔見知りの店員の姿はあったが、もちろん奈菜の姿はない。
そのコンビニから続く商店街を150メートルほど行くと、私鉄の駅がある。
その駅前まで行って、横断歩道の信号が変わるのを待つ。
「本当は、毎日この駅から電車に乗って、専門学校に通ってなきゃいけないんだけれど・・・。」
哲司は、ふとそんな事を思った。
そう言えば、この駅を使うのは、1月に友人宅へ行った時以来だ。
そう、帰ってくるときに、あのスノーボードを抱えていた日だ。
突然、背中をポンポンと叩かれた。
哲司が驚いて振り返る。
(つづく)