第4章 奈菜と言う名のマドンナ(その49)
トースターに熱が篭って行く間に、母親はその書類にざっと目を通した。
恐らくは、昨夜のうちに、父親が書いた下書きは見せられていたに違いない。
だから、その読み方も素早かった。
「ああ、・・・これで良いと思うわ。」
父親でないにせよ、その一言が出たことは哲司には嬉しかった。
これで、朝飯を食ったら、素直な気持で学校に行けると思った。
「だったら、次はね・・・。」
母親の言葉はそれだけでは終らなかった。
「ええっ!・・・・まだ、何かやるの?」
哲司は口を尖がらせて抵抗する。
もうこれでいいんじゃないのか、と思う。
「この鉛筆書きの部分は消しゴムでちゃんと消して。」
「そこまで、必要なの?このままじゃ駄目?」
まるで子供の言い草だ。
今だったらそのように思えるのだが、当時はどうして消せと言われるのかが納得できなかったのだ。
「あんた、何を馬鹿なことを言っているの? このままで提出したら、先生に笑われるよ。一体、誰のために、お父さんやお母さんが苦労してると思ってるの!」
母親は、それまでのにこやかな顔を一変させて、強い調子で言い放った。
眉間が細かく震えている。
「わかったよ。消しゃあいいんでしょう!」
哲司も売り言葉に買い言葉である。
そう言って、また自分の部屋に戻った。
そして、ドアが壊れるほどに、叩き付ける様にして閉める。
だが、哲司の抵抗もそこまでで止まる。
机の上で、少し柔らかめの消しゴムを取り出してきて、それで父親が書いた下書きの文字をひとつひとつ消していく。
一気に殴り倒すようにして消すことも考えたが、それをして、万一にでもこの紙が破れてしまっては元も子もない。
何より、これだけのことを、もう一度書き直すことになるだろう。
それだけは何としてでも避けたかった。
もう同じ思いを、二度と感じたくは無かったのだ。
「パンが焼けたわよ。早くしないと、学校、遅れるわよ。」
明るい声に戻った母親の声がリビングから響いてくる。
(つづく)