第4章 奈菜と言う名のマドンナ(その44)
「ところで、哲司は?」
リビングで、父親がそう訊いている。
相手は当然母親である。
「つい、さっきまでここにいたんですけれどねぇ。
その書類を貰ってきたぐらいですから、少しは勉強を、とでも思ったんじゃないですか?」
母親の明るい声が聞こえる。
いつもより高揚したような声だ。
しかも、父親に対して偽りを言っている。
哲司が自室に引き上げたのはもう30分ぐらい前のことだ。
それを「ついさっきまでここに・・・・」と言い、さらには「少しは勉強を・・・」と勝手なことまで付け加えている。
そりゃ無いだろう。
哲司は、珍しく、母親にも怒りを感じた。
日頃は、あまり母親には敵意を覚えない哲司である。
確かに細かな事にいちいち口を出してくる母親なのだが、執拗さがないから、哲司も「ああ、また言ってる」程度でかわすことが出来ていた。
その点が父親と決定的に違うのだ。
一方の父親は、母親と比べると殆ど口も出さない。
小学校の4年生ぐらいまでは手も出たことがあったが、それ以降は口も手も出なくなった。
それはそれで良かったのだが、その反動からか、どうしても譲れない事になると、執拗さが極端に増大する。
よく「女の腐ったような」という表現がなされる男がいるが、まさに哲司の父親のためにあるような言葉だと思うこともあった。
「いよいよ、オヤジが俺を呼ぶんだな?」
哲司は、そう覚悟をした。
今の状況からすれば、決して笑って話せる状況ではないことだけははっきりしている。
「ようやく、その気になったか?」
そんな皮肉めいた言葉が飛んでくるだろうと想像する。
哲司はわざと頭の髪を掻き揚げるようにして、折角整えたお気に入りの髪形を崩す行動に出る。
その方が、本音でオヤジと向き合えるのではないか、という錯覚がある。
だが、それから3分経っても、5分経っても、父親からの呼び出しは無かった。
その代わりと言っては変なのだが、いつもよりややご機嫌な父親の酔った声が響いてくるだけである。
(つづく)