第4章 奈菜と言う名のマドンナ(その43)
母親から言われたとおりに、その書類が入った封筒は父親の机の上に持っていってある。
だが、父親は、帰ってくると自分の書斎に行くこともなく、いつも真っ先にリビングにやってくる。
そして、そこで上着やズボンを脱いで着物に着替えるのだ。
その着替えの手伝いを、毎日のように母がしていた。
父親が脱いだ上着やズボンは、着替えが終ったあと、母親がハンガーにキチンと掛けてから、書斎に持っていく。
そんな事をするのだったら、最初から書斎に行って着替えをすればいいのに、と哲司はいつも思っていた。
もちろん、口にしたりは出来ないのだが。
そんな行程を踏む父親だったから、その書類が入った封筒を書斎の机の上に持って行っておけと言う母親の言葉にも疑問はあった。
どうして書斎なんかに持っていく?
どっちにしろ、その話題はリビングでの食事の時に出されるのだろうから、そのリビングに置いておくほうが理屈にかなっているのではないのか?
そうは思ったものの、学校との交渉を引き受けてきた母親が言うのだから、それを拒否することは出来なかった。
言われるままに従った。
いよいよ父親が帰宅した。
時計を見ると、まさに定刻どおりだ。3分と狂わない。
哲司は、自室のドアに耳を付けるようにして、両親の会話を聞こうとしていた。
リビングでの会話であれば、余程意識をして小声で話さない限りは、その内容は殆ど聞き取れるのだ。
ところが、その日に限っては、父親は玄関から自分の書斎に直行したようだった。
「あれ?」
哲司は、一向にリビングに現れない父親の行動に、いつもとは違う何かを感じ取っていた。
5分ほどして、リビングで父親の声がした。
着替えるから手伝うようにと母親に指示している。
「あっ!・・・・既にあの書類に目を通してきたんだ。」
哲司は、そう直感した。
「さて、だとすればだ、着替えが終ってから食卓に座るだろ。
そこで、いつものように銚子1本だけの晩酌が始まる。
それからだな・・・・、俺が呼ばれるのは。」
哲司は、ドア越しに父親の気配を伺いながら、その時にはどういう顔をして出て行こうかと思案する。
(つづく)