第4章 奈菜と言う名のマドンナ(その23)
普通の人間は、疑われた事が「まったく根も葉もないこと」であれば、当然にそれを否定するだろう。
ましてや、そのことが自分にとって不利な内容であれば、なおさらのことだ。
奈菜は、その冬休みの期間中に、自分が妊娠していることに気がついた。
確証があったのかどうかはわからないが、叔母さんの紹介で婦人科に行った。
その時の対応は誰からも聞いてはいないが、多分、その時点で妊娠の事実が明確になったのだろう。
これは、父親からの情報だ。
それが直接の理由なのかどうか分らないが、まだ続けると思われていたバイトを突然に辞めてしまった。
これは、店長からの情報である。
いずれにしても、その時点で、奈菜本人から「私、妊娠しました。相手は誰それです」という言葉は一切ないらしい。
婦人科の診察を受けた、バイトを何の理由説明も無く突然に辞めた。
こうした状況証拠から、父親も店長もそしてあの喫茶店のマスターも、奈菜が妊娠したらしいという結論になったようだ。
さて、そうなれば、奈菜を取り巻く大人たちは、当然に「誰が相手だ?」と「その子をどうする?」と訊くだろう。
どこの大人も、それは一緒だろうと思う。
そのひとつの答えが「てっちゃん」である。
これとて、奈菜が明確に「相手は巽哲司という男」だと言ったものではないようだ。
婦人科を紹介してくれた叔母さんが気を利かせたつもりで「好きな人はいるの?」という問い方をしたところ、この「てっちゃん」という名前が出たようだ。
叔母さんが意図的に嘘をつくのでない限り、この名前を奈菜が口にしたことは間違いがなさそうだ。
だとすれば、奈菜がその名前を口にした意図がまったく分らない。
確かに、叔母さんは「妊娠の相手は誰なの?」とは聞いてはいない。
同じ女性として、そこまで直接的に訊けなかったという。
でも、だからと言って、まだ手も握ったこともない哲司のことを指して、「てっちゃん」と言うだろうかという疑問がある。
このことは、奈菜の父親にも話をしたが、やはりどうしてもその呼び名に納得できないのだ。
自分のことでは無いような気がする。
だが、問題はそこから先にある。
そうした情報があるから、大人たち、とりわけ父親は「そうなのか?」と確認を迫る筈だし、現に、父親はそれを奈菜に問い質したという。
そこで、本来ならば、根も葉もないことなのだから、「いいえ、それは違います」とさえ言ってくれれば、今日のような混乱には至らなかったのだ。
それを・・・・・・・。
(つづく)