第4章 奈菜と言う名のマドンナ(その10)
それまでは、レジで精算しているほんの僅かな時間での会話だけだった。
「今日は天気がいいねぇ。」
「何時から何時までがバイトなの?」
「何してる子?」
「あ、そうなんだ。高校生か。」
「進学するの?それとも就職?」
「兄弟はいるの?」
「恋人はいるの?」
そんな断片的な言葉しか伝えられていない。
しかも、それを聞いた奈菜も、「うん」とか「そうね」とか、そんな反応しか見せない。
道で出会った近所の人に挨拶をしているようなレベルでしかない。
名前にしてもそうだった。
奈菜の苗字が「田崎」であることは、制服につけている名札で分った。
だが、肝心の下の名前がなかなか分らない。
いくら例の「釣銭事件」で顔見知りになったと言っても、ただそれだけのことだと思っていた哲司は、その名前がなかなか聞き出せない。
そこに、たまたまだが、店長が奈菜を呼んだのだ。
「ナナちゃん」と。
これは、店長だから、雇い主だからというのではなくて、今から思えば、やはり親戚、つまり叔父と姪に当たる関係があったからなのだろう。
そうでなければ、そんな親しげな呼び方はしない。
それを哲司は聞き逃さなかった。
確か、週刊誌を立ち読みしていたときだった。
で、いつものとおりカップ麺を買ってレジに行く。
その時に、「君、ナナって名前なの?」と確認をしてみた。
拒否をされたら、「さっき、店長がそう読んでたから」と逃げようと思っていた。
ところが、奈菜は意外に軽く答えた。
「はい、でも数字のナナではないですよ」と。
しかも、
「奈良の奈に、菜の花の菜です。それでななと読むんです。」
と文字の説明までしてくれた。
そうだ、それに、最後にこう付け加えてもいた。
「あまり好きな名前じゃないんですけれど。」
その時の一部始終が、まるでコンビニの監視カメラの映像を再現したかのように鮮明に浮かんできた。
そうだった!
そうして教えてくれたのに、即座に「奈菜」の字が頭に浮かばなかったことを思い出す。
店を出て表に出から、『奈菜』の字に思い当たった。
「そうか、田崎奈菜か・・・・。あんな子が彼女だったらどんなにいいだろう。」
そう実感したのをはっきりと思い出す。
どうやら、先に傾斜したのは、俺の方だったかもしれない。
哲司は、ボールペンを握ったまま、自分の頭をコンコンと突っついた。
「スノボーのことは、この後のことだものな。」
順序が逆転しているのかもしれない、哲司は改めてそう思った。
(つづく)