第3章 やって来たパパ(その39)
「ああ、そう言えば・・・。」
そんな名前だったような気がしてくる哲司である。
電話で珈琲を注文した際に、その最後で彼女が名前を名乗ったような気がするのだが、その名前が「前園」だったかどうかは定かではない。
それでも、奈菜の父親にそうして言われると、そうだったような気になってくるものである。
「彼女ねぇ、君と同い年ですよ。確か。」
父親は、まるで自分の部下のことを紹介する時のような言い方をする。
「ああ、そうなんですか。」
哲司は気の無い返事をする。
事実、彼女には興味は無かった。
どちらかと言えば美人に属するだろう。
仕事も、確実にこなすタイプのようである。
それでも、それ以上の関心は抱かなかった。
それどころではないだろう、と改めて思う。
「良くご存知なんですね。」
哲司は、多少の皮肉を込めて、そう言った。
奈菜の父親は、それには直接答えないで、ステーキに最後のナイフを入れている。
8割がた食べ終わったところである。
哲司は、半分ぐらいまでに減った珈琲をゆっくりと飲みたかった。
午前中は、あの喫茶店で、同じように珈琲を飲んだ。
話の途中で、マスターがまた新しいものを入れてくれた。
つごう、2杯飲んだことになる。
だが、今になって、その時の味が分らない。
飲んだときには、それなりに旨いと思ったのだが、今、ここでステーキの後の珈琲を口にすると、そのときの味はどこかへ消えてしまっている。
人間の味覚とはいい加減なものだと哲司は思う。
幾ら「これは旨い、他では食べられない」と思っても、他で、またまた旨いものを口にすると同じことを思ってしまう。
結局は、「味は記憶したり、記録したりはできない」ものなのだろう。
それと同じことが、人間そのものへの印象にも起こるような気がする。
店長やマスターから話を聞いた時には、奈菜が可哀想だと思った。
父親に理解されていない辛さがあるように感じたのだ。
だから、普通なら断ってしまう奈菜との付き合いを、積極的ではないものの承認した。
どこかで、正義の味方ってな感覚があったのかもしれない。
だが、午後から、この父親と1対1で話してみてから、どうやら哲司の思い描いていた父親ではないような気がしてきたのも、また事実である。
(つづく)