第3章 やって来たパパ(その28)
「じゃあ、シェフになりたかったんですか?」
哲司が立ち上がるようにして訊いた。
思いも寄らぬ展開に、場所も考えずに口から出たものだ。
父親は、その哲司の質問が聞こえているのに、ただニコニコしながら、鉄板の温度などを確認している。
事前に奈菜の父親であることを知らされていなければ、その格好や雰囲気からして、誰も客の1人がステーキを焼いているなどとは思えない。
哲司は、楽しそうに、そして生き生きと作業をする奈菜の父親を見て、先ほどの質問は明らかに愚問だったことを思い知る。
「そうだったんですか、シェフにねぇ。・・・・・・・」
確かに、今の現状から考えれば、その夢は達成できていないことになる。
先ほど貰った名刺にもあったとおり、奈菜の父親は現在は銀行マンなのだ。
副支店長という肩書きがどの程度のレベルなのか分る筈も無い哲司だが、少なくとも、大学時代に「なりたい」と思っていたシェフへの道は、どこかで外れてしまったのだろう。
「銀行マンにも多士済々、いろんな特技を持った人達がいますが、私のように調理師の資格を取っているっていう人は聞いたことがありません。」
父親は、野菜を鉄板の上に運びながら、そう付け加えた。
「ええっ!・・・調理師の免状をお持ちなんですか?
だったら、どうして?・・・・・・」
哲司は、もう父親の手元を感心しながら見ている場合ではないと思う。
「どうして、銀行なんかに入ったのか?ですか?」
「・・・・・・・」
「それは、よく訪ねられましたね。
採用試験のときにも・・・。」
「・・・・・・・」
「どうして、当行を受けようと思ったのですか?と問われました。」
「どのように答えられたんです?」
「忘れちゃいました。
でも、その場で言った言葉は嘘でしたけれど。」
「入社試験で、嘘を言われたんですか?」
「本当のことを言っていたら、今ごろは、本職としてこのような鉄板の前に立っていたかもしれません。」
父親は、てきぱきと料理の手順を進めている。
「う〜ん、言われている意味が分りません。
シェフになりたかったのに、どうして銀行を選ばれたんです?
しかも、ちゃんと資格まで取られたのに・・・・。」
哲司としては、どうしても納得できないことである。
「とりあえず・・・・・って、所ですかね。」
父親は、少し言葉に迷ったようだったが、ポツリとそう言った。
「・・・・・・意外ですね。お父さんから、“とりあえず”って言葉をお聞きするなんて。」
哲司は、本音でそのように思った。
(つづく)