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Lamplight  作者: 梨鳥 
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夜伽の晩

 夜伽の番(と言っても、夜通し起きている、という程固いものではありません)を申し出た私は、大叔母さんと一緒に眠る祖父の傍で、うどんをすすりながら、彼の思い出話をポツリポツリと和やかにして、時折二人で点けっ放しのテレビをボンヤリと眺めていました。

 白い布の下で、祖父はシンと眠っています。

 私は、彼との思い出を辿りながら、どっしりしたちゃぶローテーブルに肘を突き、うとうとしていました。

 そろそろ寝る? と大叔母さんが聞いて、布団を敷く為ちゃぶ台を部屋の脇に寄せ始め、私も彼女のきびきびした動きに巻き込まれる様に、飲みさしのグラスやスイカの乗った皿を片づけました。

 片づけながら、大叔母さんは次々話しをします。

 元々、オールドミスで手乗り文鳥を相方に暮らしている方なので、たまの話し相手は嬉しいのでしょう。お喋りの上手な方なので、私は苦も無く彼女の話に耳を傾けます。


「アキちゃんはね、私は止めたんだけどね、ふらりと満州へ行ってしまったの。極楽浄土という言葉にのぼせたんだって周りは言うけれど、違うわ。あの頃は皆が貧しかった。アキちゃん、次男だったし、口減らしのつもりで行ったのよ。素直でなんでもいう事を聞く人だったから、きっと誰かが自己犠牲の気持ちを煽って誘ったの。

 ……アキちゃんは大抵の事は大らかに身を任せるけれど、彼なりの線があると言うか……その線は他の人よりも柔軟だけど、とても強いの。そうと決めたら、絶対に引かない人だった。……どこか……自由な、縛られない心を持っていた」


 私は、大叔母さんの世代の口から飛び出す「満州」の二文字で「ああ、戦争の話が始まる」と身構えました。

 とてもじゃないけれど、良い話ではありませんから。

 私は、しくしく悲しむ心に、更に悲惨な話を聞いて心を掻き乱したく無かったのです。

 祖父から、戦争中に日本を離れていた話は聞いていました。

 中学生の夏休み前に、先生が「身近なお年寄りから戦争の話を聞いて来るように」と宿題を出されたので、私は祖父からその話を既に聞いていたのです。

 私は歴史に熱心な関心が無かったですし、戦争は遠い昔のおとぎ話、もしくは対岸の火事で、恥ずかしい事に未だに事の起こりの詳しい因果関係や間にあった事全て、そして終息後のあれやこれやを知っているかと聞かれたら、すみません、存じ上げませんと身を小さくしなくてはなりません。

 そんな私は、イモしか食べられなかったり、防空壕に入ったり、疎開したり、と言った話を聞かされるのだろう、と想像していました。

 可笑しなくらい、武器を持って戦う祖父を想像出来ませんでした。そして又、そういう怖い話は伏せられるだろう、と何故かどこかで安心している狡い自分もいました。

 しかし、祖父は予想のどれとも全く違う話をしました。

 長い長い始まりと終わりの話でも、その間に起こった地獄の様な日々の事でも無く、戦争により彼の身に起こった、惨めな、たった一晩の話でした。

 祖父から語られた話に、私は震え上がりました。たった一晩の、話にです。

 そして、その一晩に起こった事柄は、毎日彼の周りで起きていたと聞いて、ゾッとしました。あまりにも、自分が生きている世界とかけ離れていて、祖父を遠くに感じました。


 そう、私が祖父の顔に陰りを見つけ始めたのは、その頃からでした。

 私は、彼の暗みの原因を、実のところ知っていたのです。


 大叔母さんの話は続きます。親戚の幾人かは、このお喋り好きな大叔母さんを嫌煙しますが、私はこんなにお喋りが上手な方を知りません。

 欠けない記憶を精密に流れる様に話します。

 話は長く、脇へ逸れ、更に逸れるですが、いざ芯を突き立てる際に「逸れ」は見事な伏線だったのだとハッとさせられる、そんな小説みたいな話し方をするので、私は彼女の話がいくら脇へ逸れても辛抱強く聞きます。彼女に任せておけば、話の核心が一番効果的に心に届けられると、私は信頼しているのでした。

 しかし、今夜、この話は、彼女にとって難題だったようです。

 そして私は何となく、彼女は自分も死ぬ準備をしているんだ、と思いました。


「女の子をね、殺したと言うの」

「え」

「こう、手で首を絞めて」

「……」


 嗚呼、と私は心で鳴きました。

 知りたく無かったのに、という気持ちと、伏せてくれた祖父への感謝が入り乱れました。


「そうしなければ、その女の子はもっと酷い目にあったからなの。ある程度はアキちゃんから聞いたり、何処かで聞いて、どんな事が起きていたか知ってるでしょう?……その……分かるわよね?」


 大叔母さんは、敷いた布団のシーツを手でぎゅっぎゅと伸ばしながら、庇う様に言いました。

 私は無言で頷きました。

 祖父を雇い可愛がってくれた家の「奥様」がどんな目に遭ったかは、背筋を凍らせながら聞いたので。

 でも、女の子の存在は、知りませんでした。


「アキちゃん多分、私だけに話したのよ。私達、仲が良かったから。他の親類には、怖くて言えなかったんでしょう。私、その話を聞いて、悲しくて、悲しくて……」


 嗚呼、大叔母さん。そして貴女は、次世代わたしにそれを課そうとしている。


 私はチラリと横たわる祖父を見ました。

 祖父は、ただただ静かに、悲しく恐ろしい記憶を蓄積したまま横たわっています。


 ◆  ◆  ◆  ◆ 


 夜。

 大叔母さんは、胸の錘を私に分け与え、少しだけ安堵した様にすーすーと寝息を立て始めました。

 私も一旦眠りにつきましたが、どうも深遠に辿り着けずに目を開けました。

 大叔母さんはクーラーが嫌いなので、扇風機を回し窓を開けて寝る事にしたのですが、ふと扇風機の羽が止まり、私は暑さに起き上がりました。


 チリン、チリンと風鈴がなっています。


 網戸の向こうは、傍に立つ電灯の明かりで無機質に明るく、祖父の家の、続き間十四畳の畳み敷き居間にもそっと冷たく青い光を注いでいます。そんな中、祖父は電気式蝋燭の、ご丁寧に火が揺らめく趣を凝らした淡い光を、白い布に映していました。

 慣れ親しんだこの居間で、彼の最後の寝場所だけが、異質で、おぼろで、違和感をひしひしと投げかけて来ます。

 もういない人が、横たわっているのですよ、と私に理解させる。

 私は「わかってる」と強気に思い、白い台の上に横たわる彼の傍へにじり寄ると、彼の耳元に顔を寄せ、彼がよく唄ってくれた民謡を口ずさむ。

 私は、その民謡の名前すら知らないし、出だしの所しか覚えていないけれど、歌詞を小さな声で掠れ掠れ呟くと(ええ、あんな声高に唄えませんよ。難しいんですから)自分の事ではないか、と少し微笑んだ。


 〽

 オイヤ 私ゃ この地の荒浜育ち

 声の悪いは親譲りだよ

 節の悪いは師匠無き故に

 一つ唄いましょう 憚りながら……


 おじいちゃん……。

 暖かい皺しわの手に引かれて、小さなペットショップに立ち寄った時、大きなオウムに二人で一目ぼれしたんだよね。

 私達が足しげく通ったから、あのオウムは民謡を覚えたんだったね?

 あのオウムは長生きだったねぇ。

 私が大人になってから随分して、「オウムの奴、死におった」っておじいちゃん電話して来たんだよね。

 自分からかけて来たクセに、その後ずっと無言だったから困っちゃった。

 私はちょうど会社の飲み会か何かで、自分の時間を謳歌していた。

 だから、「もう切るね」って言った。


 おじいちゃんは「はい」と言って、「寂しいナァ」と呟いた。


 ねぇ、おじいちゃん。私も、寂しいです。

 でも、おじいちゃん、私はあの時確かに冷たかったけれど、今の貴方ほどじゃないよ。

 なんて。……はぁ、ごめんなさい。寂しいです。


 おじいちゃん、貴方は痛みを持って行くのですか?

 私に何かできる事は無かったですか?

 後生ですから、こんな顔で逝かないでください。



 こんな、今更に。


満州へ赴いた方々の理由と言うのは、人によりたくさんありすぎて、「こう」というのはなさそうです。とにかく皆、大きな渦に飲まれていたのでしょう。



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