薄闇で
極寒地での苦行の日々の中、ふと寒さが和らいだ短い夏の夜にアキは夢を見た。
薄闇の中をぐるぐる歩いている夢だ。
闇は遠く深く、限りが無い。
上だと思われる方を向いても、星一つ無かった。
そうか。俺はとうとう死んだのだ。
アキはそう思って、薄闇の中を歩き続けた。
そうしていると、道の先に誰かが彼と同じように彷徨っていた。
細い輪郭だったので、女だと判った彼は「母親だろうか」と思い、そして止めた。
お母ちゃんがこんな処に居る筈が無い。
とても罪の無い方だったから。
優しくふくふくと微笑む白い顔が、自分の行きつく先にある筈など無い。
それでも彼は彼女に追いついて、声を掛けた。女は喪服姿をしていた。
いよいよ「ああ、これはお迎えだ」とアキは思った。
しかし、女は彼の声掛けに反応せず、只うろうろ、うろうろとしているのだった。
彼は喪服女からそっと離れ、「いよいよ気味が悪い」と首筋の毛を立てながらまた歩き出した。そうする他、無かった。
しばらくすると、薄闇の先に、ほわりと明るい小さな家があった。
洋風だ、と彼は警戒した。
屋根も外壁も、ぐにゃりといびつで、闇に静かに浮いている。
窓から色とりどりの色彩が光り零れ落ちている様は、自分には似つかわしくない夢の様だ。
小さな家の明かりの漏れている窓をコッソリ覗くと、色とりどりのランプが目に入った。
床に無造作に置かれているものもあれば、棚にきちんと並べられているものもある。天井から吊るされているランプは、何故だか微かに揺れていて、揺れる陰影が覗いた部屋の中をまるで息づいている様に見せている。
どうやら無人の様子だった。
アキはザッとランプだらけの部屋を見渡して、隅の角に置かれた作業台の上に置かれた物を見つけると、息を飲んだ。
作業台の上には、小皿におにぎりが二つ、ちょんちょんと並んでいた。
アキは堪らずダッと駆け出し、家の中へ飛び込んだ。
駆け込み、サッとおにぎりを掴むと、アキは夢中でがっついた。
のりも具も無かったけれど、暖かくて柔らかいふっくらした米は、とても美味しくて喉をするする滑って行った。、息を荒くし、涙を零しながら貪った。
サッともう一つ手に持って、アキが入り口のドアへ向かう前に、ドアは不器用な音を立てて勝手に開いた。
「!」
ドアを開けて、入って来たのは十を少し過ぎたあたりの小柄な男の子だった。
彼は侵入者のアキを見ても、さして驚いた様子もなく落ち着いていて、どこか薄暗い微笑みを漏らした。
アキは家の奥へ走る。床に置いてあるたくさんのランプがアキの邪魔をする様に足に突っかかってガシャガシャ音を立てて倒れた。
「待てよ。何もしねぇから」
静かな落ち着いた声に、アキは心を許さない。
ランプを蹴散らして家の奥へ入ろうとし、ギョッと立ち止った。
入り口にいた筈の男の子が、アキの目の前に立っていた。
「お前なぁ、ランプ壊すなよ」
男の子はそう言って、アキの足に倒されたランプをひょいひょいと立て直して回った。
「ひっ……!」
「大丈夫。何もしねぇよ」
「……っ!……っ!!」
「待ってたよ」
「魔性なのか!?」
「この世のありとあらゆるものが、魔性だよ。お前は知ってるハズだけど?」
アキは唾を飲み込み、男の子をまじまじと見た。
見返して来る玉虫色の瞳は、吸い込まれそうなのに、全てを遮断している様に見えた。
「ここは、どこだ!? 地獄か?」
ふん、と男の子は鼻で笑って、手でぐるりとランプだらけの室内を指した。
「見て分かんだろ?」
アキは曖昧に頷いた。
目の前の異質な男の子が、今にも醜悪な化け物になるのではと警戒し、取りあえず話を合わせようと思ったのだ。
それに、現実にこだわっていると、余計に付け入られそうな、そんな気がした。
男の子は作業台にとんと座り、がちゃがちゃと何か作り始めた。
「俺は死んだのだろうか?」
「いや。生きてるよ」
「……外に喪服の女がいた」
「あんたの知り合いだろ」
「俺の? あんな女知らない」
「あ、そ? これから会うのかも」
「い、いや、もうそこで会ったんだ」
へぇ、そう。と男の子は興味がなさそうに呟いて、作業に没頭し始めた。
男の子はどうやらランプを作り始めている様子だった。
アキは好奇心の強い方だったので、しばらく男の子の手の動きを眺めた。
男の子が、作りかけのランプを目の高さまで上げて何やら点検する際に、ようやくアキの存在を思い出したかの様に彼を見た。
「そこ座れよ。握り飯もさぁ、いつまで持ってんの? 喰っちまえ」
「いいのか」
「うん。おれのじゃねーし」
「誰かのだったのか?」
彼の家族の為のものだったのだろうか、白米のおにぎりなんて、きっと家族に食べさせたかっただろうに。アキはそう思って申し訳なくなり、皿におにぎりを置いた。
そして、今更謝った。逃げる事が叶わないなら、そうする他ない。
「悪かった。しばらくまともに食べていなかったんだ……許してちょうだい」
「それ、お前のだ」
「え?」
「お前はコメが好きなんだな」
「あ、ああ……もう久しく食べてない」
だろうね、と男の子は言い、また作業へ目を落とす。
「仲間も、食べてない。喜ぶだろうなぁ」
皿に返したおにぎりを、アキは眺める。
でも、一個ばかしではきっと争いの種になるだろう。
アキの周りには、仲間を売るやつらも、それを上手に操る敵もいる。
虱だらけの仲間達が、毎日虱の様にプチプチ潰れて死んで逝く。
首だけに虱が集ったら最後だ。そう言えば、自分にその傾向が見え始めていた……。
やはり、死んだのだ。そして、異国の冷たい雪の中へ放られるんだろう……。
帰りたかったなぁ……。お母ちゃんは元気だろうか?
居た堪れなくて、悲しくて、アキはぽつぽつと独り言を呟く。
男の子は、聞き流しているのか、作業に没頭して聴こえていないのか、特に相槌などをうったりせずに、もくもくとランプを作り続けている。
「一思いに殺して欲しかった」
アキが思わずそうぼやくと、男の子は初めて顔を上げた。
特に感情の無い、のっぺりした表情だった。
「おれがしてやろうか?」
「人を殺すのは酷く苦痛だよ」
「そうか。やったみたいだな」
「……やったのさ」
アキは丸椅子の上で足を抱え込み、身体を丸めた。
「……女の子を……」
「なぜ。生きる為か」
「ち……違う……。う……うぅ……し、死以上、を、あ、味わわせ、う・う……ない為……」
アキは『あの時』泣かなかった。
なのに、今なんの関係も無いこの不思議な男の子に告白をすると、涙が溢れて止まらないのだった。
「カ、カズちゃん、カズちゃん……カズちゃん……」
アキはもやしみたいな体つきだったし、力も弱ければ、頭もそれ程良くはなかった。
そんな自分に、寄せられた小さな初々しい好意。
それを自分で手折る事になるとは思いもしなかった。
今でも手に感触がある。
細くて、暖かい、小さなカズちゃんの首。
とくとくと、微かに脈打っていた。
うずくまってしばらく咽び泣いていると、とん、と音がした。
目の前に真新しいランプが置かれている。
「……ランプ?」
「みりゃわかんだろ」
アキは鼻を啜って、ランプをしげしげと見た。
灯は灯っていない。
ステンドグラスの覆いには、稲穂の上を飛ぶ大きな鳥。
「美しいね」
「ありがと」
「何て名の鳥だろうか」
「オウムだよ。喋るんだ」
「オウムか」
ランプに触れようとすると、手で制された。
「買うか?」
「……いや、買えない文無しだ」
アキはサッと手を引っ込めて、ランプから目を逸らせた。
「金は要らないんだ」
「じゃあどうやって買うね?」
「欲しいか」
「対して要らない」
男の子は自分の作品を要らないと言われて、ちょっと不機嫌になった。
「心から後悔を消せても?」
アキは首を傾げた。
「どういう事かしら?」
「このランプは、後悔を消せるんだ」
「へぇ……不思議な事を言うなぁ」
「ここを不思議と思ったろ? おれの事も」
アキは頷いた。
奇妙な所だ。だからこそ、ランプで後悔が消せるなどと囁かれるのだろう。
「本当に消せるなら、消してしまいたいよ」
「じゃあ、買いなよ。代金は『宣言』だ」
「『宣言』?」
男の子は頷いた。
「この先何が何でも生き抜くと、おれに宣言しろ」
「……俺は死んで……」
「ない」
ずい、と男の子がアキの傍へランプを押した。
「どうする?」
そんな宣言、アキは厭だった。
だって、現実はとても辛いから。
でも。
否。
でも。
……否……本当に消せるのか。
「なぁ、戻ったら、何がしたい?」
「え」
「生きて戻ったら」
「生きて戻る……出来るだろうか」
魔性めいたこの男の子に、答えが分かるのではないか、と期待して聞いてみたが、男の子の返事は素っ気なかった。
「知らない。でも、死んだら出来ない」
「……お母ちゃんが元気か知りたいなぁ」
「それだけか」
押しの強い追及に、アキは言葉を引き出される。
「美味い物いっぱい食べたい」
「もっと望め」
アキは何故だか恐ろしくなって首を振った。
「罰が当たる……」
「バカか。当たるもんか」
アキは少し自棄ッパチの気分で、
「歌ったり、踊ったりして面白おかしく自由に生きたい! 知り合う人全部を、大事に大事にして優しくしてやる」
いいね、と男の子が笑った。
アキは言っている内に、今言った事全てを叶えたい気持ちが高まって、頬を上気させていた。
「じゃあ、『宣言』しろ。『この先……』」
「この先、何が何でも生き抜いて、帰る」
男の子がニッ、と唇を上げた。
ランプを指差して、「おまえのだ」と言うと、おもむろにアキの手を取り、ランプへかざした。
ランプに灯が灯る。
仄かな光に、アキは目を細めた。
「これがお前の『後悔の灯』」
「……」
「吹き消せば、後悔は消せる」
「……ありがとう」
「消さないのか」
男の子は片方だけ頬杖をついて、アキを眺めた。
「たくさんの人がここへ来るのか?」
「そうだよ」
「ランプを買っていく?」
「ああ」
「皆消すかい?」
「……まちまちだ」
アキはランプの取っ手に指を引っかけると、ありがとうと呟いて、灯を消さずに立ち上がった。
「消さないの」
「ああ。暗い道はおそがい(怖い)から」
「そっか」
「ここから、俺へ帰れるんだろうか?」
アキがふと不安を口に出すと、男の子は頷いた。
「真っ直ぐだ」