第三話 カノジョと秘密
すみません。めちゃ遅れました。すみません。
「起きて、起きてってば。お兄ちゃん、朝だよ!」
布団を被った紅の体を激しく揺さぶるコウ。時刻は午前六時半である。
秋という季節の所為か、やはり朝は布団から離れにくいものであった。微かな温かみを一瞬でも手放さぬよう今も尚コウに反攻中である。それに対しコウはかれこれ十分近くも紅を揺さぶり続けている。途中で疲れて止めると思っていた紅は、ここまで粘ったコウを褒めてやりたいとも思った。いい加減コウも本気で怒り始めたので、紅は白旗を上げて、布団から出る決意をした。
昨日の創立記念日に対し、今日は通常授業がある。通常授業といっても、三年生が授業で行うことは、自らの受ける大学の赤本演習だけであった。すなわち受験校の赤本を何十回とやり直した紅にとって、授業は暇そのものであった。
今、紅達が力を入れているのは、語山第一高等学校文化祭である。(ちなみに紅達とは、紅と紅のクラスメート達を指す。)もちろん大切なのは受験の方であるが、三年生にとって最後の文化祭であるので、東京の大学を志望して、猛勉強中の紅でも、文化祭は成功させようと意気込んでいた。
昨日結局、家に到着したのは夜遅くであった。さすがのコウも疲れていて、紅はすぐベッドの上に寝かせてやった。コウが眠った後も、紅は一人起きていた。正確には、これからの生活の事を考えて、眠れなかったのである。紅は坂田の家族として育った語山で暮らしている子ども達の中では最年長であったが、それでもまだ高校生である。いくら受験勉強が完璧に近いものであっても、決して暇なわけではなかった。
しかしコウを引き受けたことに関しては、まだ後悔はしていなかった。紅は後悔をしたくなかったのである。コウという存在が自分にどのような影響を及ぼし、どのような人生に変えてしまうかは、勿論予想などできない。しかしたとえどんなことがあろうとも、コウを守ることを坂田に約束したのだ。
押し付けられたのではない。自分自身で決めたことだ。
それがどのような結果を生むとしても、紅は後悔などするつもりは毛頭ない。
それが紅の決意であり、目標であった。
話は現在の午前六時四十分まで戻る。
トーストの焼ける音に釣られて、コウはオーブントースターの前まで来た。
手を近付けようとするコウを見て、熱いから危ないぞ。と声をかける紅。
周りが見れば、本物の家族のようである。とても数時間の同居とは思えない。
そもそもコウには記憶が無いと言ったが、それは一部分に過ぎないのだ。だから日常的な生活には支障をきたさない。コウが失ったのは自分の歩んできた人生の記憶のみである。
しかしコウは自分の記憶に関して、一切紅に伝えようとはしなかった。
自分が何者であるかも分からないはずなのに。
おそらく紅に余計な心配をかけないためのコウの精一杯の配慮であろう。
紅はそんなコウを見ていると、胸が苦しくなった。(胸が苦しくなるというのは、コウに対しての恋愛感情ではなく、哀れみによる心の痛みである。)
だからどうあっても、コウを愛し、フォローしてやるのが紅の所存だ。
紅は二人分のトーストにイチジクのジャムを塗った。このジャムは坂田の所有する語山農園に栽培されていたイチジクを用いた、無農薬がウリのジャムだ。コウの健康上においても、このジャムは良いと思われる。いつもなら紅は一枚のトーストで朝を済ませるのだが、
コウが物足りないような顔で紅を見つめていたので、冷蔵庫にあった卵を一個使い、目玉焼きを作ることにした。
紅は中学生のときに坂田から家庭料理を習っていた。決して料理人と呼ばれるような上達は無かったが、生活をしていく上で必要最低限の家庭料理はマスターした。しかしまさかこんな場面で必要になるとは、夢にも思わなかったであろう。
そもそも紅はまだ高校生であるから、当たり前ながら仕事はしていない。そして語山村にアルバイトのできるようなところは無いに等しい。紅が住んでいるのは語山村極西部に位置する小さなアパートである。アパートであったが、実際使われているのは二部屋で、
(二部屋のうち一つは紅の仮住居で、もう一つは管理人室)紅の部屋代、電気代、ガス代、
その他全ての料金を坂田が支払っている。流石に高校生だからという理由で教会を追い出され、このアパートを貸し出された。教会の方が語山第一高等学校に近く便利であった為、
紅は教会の方が有難かったのだが、自分のことは自分でやれ。という坂田の指令には、従わざるを得なかったのだった。
坂田は語山村にはとても似合わない富豪である。そのことからか、紅は坂田をただの牧師ではないと認識するようになった。勿論親しいからと言って、紅は坂田の全てを知っている訳ではない。寧ろ知らないことの方が多いはずだ。坂田と紅はお互いに深いところまでは関わらないようにしていた。二人が初めて出会ったときからである。
時刻は七時を迎えたところである。
歯磨きを終え、急いで身支度をする紅。コウはそんな紅をじっと眺めていた。
「俺を見ていて楽しいか、コウちゃん?」
紅はコウに、ネクタイを締めながら問いてみた。
「高校って楽しいのかなって思って。」
思いがけないコウの解に紅は驚いた。そして今度はコウの問いに答えてみせた。
「まぁまぁ、な。」
曖昧な答えだが、今はこの解が一番正しいと、紅は自分に言い聞かせた。
紅は玄関で革靴を履いた。
「いいかコウちゃん。勝手に出歩いては駄目、誰が訪れても出ない、絵は描かない、この三つ約束できるか?」
「うん。」
コウは小さく頷いた。やけに素直だ。
紅は少しの間、疑いの目でコウを見ていたが、出発時間が来たので家を出ることにした。
「じゃあ、行ってきます。」
紅はドアノブに手をかけた。
「お兄ちゃん、何時ごろに帰ってくるの?」
「出来るだけ急いで帰ってくるよ。」
急いでいた為か、紅はコウの質問に対し、粗末に答えてしまった。
後に後悔することになるとは紅は少しも知らない。
紅は、語山村極西部に位置する西ノ山駅に到着した。紅はいつもこの駅から語山第一高等学校に向かっている。見渡すと、どうやら先客がいるようだ。その先客は紅の見知った人間だった。
金城蒔良、語山第一高等学校三年生。性別は女性。
肩まである髪は美しいブロンドで彩られており、桃色のリボンを髪飾りとしている。
容姿は完璧と言えるほど優れていて、肉体は美しい曲線美を描いている。その姿はテレビで見かけるような女優と対等に戦える程である。
何故これほどまでの美人がこの荒廃した村に君臨したのか。それだけでも紅にとっては充分な疑問であったが、紅には更なる大きな疑問があった。
「あっ…」
蒔良は紅の存在に気付き、紅のところまで走ってきた。
「お早う、紅!」
蒔良は紅の右腕に飛びつき、抱き締めた。
柔らかい二つの膨らみが当たっている所為か、紅はポーカーフェイスを保つことが出来なかった。
「蒔良、朝からそんなにくっ付くなよ。」
紅の心臓の鼓動は激しくなるばかりだ。
「いいじゃない。私達は付き合っているんだから。」
「別に俺とお前は付き合っている訳では…」
「紅は私に告白してくれたよ。今年の夏に。」
「覚えがないな。」
蒔良の目に涙が浮かんだ。このままでは大泣きされてしまいそうである。
紅はあせって弁解した。
「付き合っている ようないないような。」
「本当、紅ってば冷たいんだから。」
紅に対する愚痴を述べながらも、蒔良の顔に笑顔が見られた。
紅はひとまず安堵した。
そもそも紅は蒔良の主張が理解出来ないでいる。確かに蒔良とは同じクラスで、親しい友人であるが、付き合うという段階まで行った覚えはない。勿論、告白した覚えもない。
だから紅は蒔良の主張が一方的についた嘘だと信じている。今蒔良の傍にいる理由は、蒔良が精神的孤立をしない為である。逆に言えば、紅は蒔良の傍にいてやることしか出来なかったのだった。
午前七時半 電車が到着した。
紅と蒔良は電車に乗り込んだ。相変わらず、静かな空間である。現在の乗客は紅と蒔良の二人だけだ。紅は、乗客がたったのこれだけで、良く経営が成り立つな。と考えていた。
どうやら蒔良もそんな感じだ。
静かな時間が続いた。カップルであるというのに、意外にも会話が弾まない。
そして午前七時四十分、語山駅に到着した。
それからもやはり会話は進まなかった。
しかしこれが紅の日常というものである。
蒔良は元気で明るい性格ではあったが、本来の内なる性格は逆だった。彼女は内気だったのだ。紅と出会う前までは。
紅は最近、時間の経過の早さをその身で感じていた。秋という季節の所為ではない。これは彼自身の感じ方によるものだ。例えば、紅のクラスメートである男子生徒、白岩勝美は違っていた。三時間目終了後の休み時間に彼は、まだ三時間かよ。と叫び嘆いていた。それとは逆に紅は、もう三時間か。と考えていた。この二人にはこれといった時間の差異はない。(強いて言うなら、登校時間の差異であるが。)これは感じ方の違いであると提唱できる。
つまり何が言いたいのかというと、今現在の時刻は午後五時で、放課後という時間の中に紅は存在して、しかし紅はそれを理解できていないのだ。
クラスの皆は文化祭の準備の為に、木材調達や家庭科室で、本番に備えての調理法確認を行っている。(ちなみに紅のクラスは文化祭で屋台をやることになっている。)
しかし紅だけは何故か教室に残って、ただ茫然と空を眺めていた。特に何をすることもなく、ただ茫然と。
そして紅は、ふとコウの事を思い出した。
急いでいたとはいえ、コウの質問に対して雑な答えを返してしまったことを後悔していた。
彼はコウに下手な嘘はつきたくないと心に決めていた。
「今日は帰ろう。」
一人教室でそう呟くと、紅は荷物を持って教室を出た。
紅が教室を出ると、そこで最も出会いたくない人物に出くわしてしまった。
彼と恋人関係であることを主張する、金城蒔良である。
蒔良はその手に、宣伝用のチラシを二百枚ほど持っていた。語山第一高等学校の文化祭など、どうせ数えられる人数しかやって来ない。だからその量は要らないだろう。と紅は思ったが、あえて口には出さなかった。
「紅、帰るの?」
「あぁ、今日は忙しくてな。」
紅はコウの事をどう伝えたらいいか分からず、曖昧な答えを返してしまった。
「そんなにあの娘が心配なんだ。」
「えっ?」
蒔良の言葉は紅の耳には届かなかった。蒔良の小声の所為である。
「えっと、蒔良。今何て…うわっ!」
突然床に押し倒された紅。動揺が彼の心に生まれた。
「ま、蒔良!?」
思わず紅の声も震えていた。
「紅、好き。」
紅の耳元で静かに呟く蒔良。耳にかかる温かい息と、まるで誘惑しているかのような
ブロンドから発せられる甘い蜜の香り。紅は彼自身の心臓の鼓動が絶頂を迎えていることに気付いた。
すると蒔良はポロシャツのボタンを二つ外し、胸の膨らみを強調させた。いよいよ紅は訳が分からなくなり混乱し始めた。すでに紅は正常な判断が出来なくなっている。
近付く唇に紅は応じてしまった。
紅は鈍感な男ではなかったから、蒔良の気持ちもちゃんと知っていた。だから今、蒔良と接吻してはならないと分かっている。接吻という行為が二人の為にはならないことも分かっている。
紅は自分が弱い人間だと知っていた。
だから残り数センチのところで自我を取り戻すことができた。
接吻を失敗へと導くことが出来たのだった。
紅は鞄を持って立ち上がり、教室を出た。座りこんで、頬を膨らませている蒔良は放っておいて。
「ちょっと待って、紅!」
蒔良が紅を引き留めた。正直止まるのは嫌だったが、蒔良を完全に放置していくのは流石に可哀想だと思って、立ち止まった。
「これ持って行って!」
渡されたのは十字架のネックレス。十字架の中心には堂々と宝石が埋め込まれている。
そのアクセサリーは確かに十字架ではあったが、坂田の教会などで見るキリストの十字架とは少し違っていた。こちらの方が全体的に丸みを帯びている。
「これが必要になる時が必ず来るから、ね。」
紅は蒔良の言うことが理解できなかったが、とりあえず蒔良の笑顔を信じて、受け取ることにした。
現在の時刻は午後五時十分。語山駅に電車が到着するのは午後五時半。
学校を後にした紅は、まだ時間はある。と考え、ゆっくりとした足取りで駅に向かった。
道の途中で紅はポケットに入れたネックレスを取り出し、眺めた。
この十字架は一体何なのだろう。
蒔良の言う、必要になる時とは何なんだ。
紅はネックレスを握り締め、そう心の中で思った。
突然、瞬間、刹那。
紅に、コウと初めて出会ったときの感覚が蘇った。紅しか居なかった空間に誰かが現れた。
そう、紅の目の前に。
身長は百九十センチを超える長身で、茶色の髪をしている。白のスーツを着こなした男性。
左手に未使用の煙草、右手はズボンのポケットに突っ込んでいる。
とても冷たい目をしている。その目からは人間を感じることが出来ない。
「えっと、」
紅は混乱してしまった。語山にはとても似合わないブルジョワな人種が現れた為である。
男は口を開いた。
「そこの少年、一つ聞きたいことがあるんだが。」
そこの少年とは紅の事である。
「群青色の髪をした少女を知らないか?」
紅は激しく動揺した。恐らく男の求めている少女はコウである。
こんなにも早く見つかるとは。いや、ありえない。あまりにも早すぎる。
「知りません。」
紅は目の前に立つ男に恐怖していた。
何故か震えが止まらない。
「そうか。悪かったな。もし見つけたら、ここまで連絡をくれ。」
男は名刺を差し出した。
名前「マゼンタ」。ガド教信仰会 幹部。
その肩書きだけで紅は危ない人物だと認識することが出来た。
コウが危険だ。
紅は男が去った後、急いで家まで帰った。
電話の着信音
「もしもし。」
「あ、その声はマゼンタね。ひさしぶり。」
「お前とは友である訳では無い。よって、君のその旧友に会ったかのような口のきき方はやめたまえ。」
「で、何か用でも?」
「今日、ダヴィンチを匿っている寿紅と会ってきた。なに、大丈夫だ。手は一切出していない。今日はほんの挨拶だ。」
「ふうん。良かったわね。手を出さなくて。」
「どういう意味だ。」
「もし貴方が手を出していたら、今頃私が貴方を殺しているわよ。」
「それは恐ろしいな。」
「私はガド神なんて元から興味ない。私が尽くすのは紅だけ。だから私は紅に手を出すものには容赦しない。」
「そうか。まぁ、好きにすると良い。お前はもう此方の人間ではないからな。ではもう切るぞ。」
「さようなら。マゼンタ。」
「去らばだ。金城。」
電話は切れた。通話時間一分三十秒。
次はちゃんと投稿するぞぉ。おーーー!!