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第4話 天ぷら地獄(高温油)

アルデバラン号の厨房史に残る出来事。あの事件の話でございます。何事でしょう。

宇宙船《アルデバラン号》の厨房史には、はっきりした“前”と“後”がある。

天ぷら事件の前と、天ぷら事件の後だ。

後にわかったことだが、

宇宙でいちばん怖い液体は、ロケット燃料ではない。

揚げ油である。


その日、料理長マキはまだ若干、無重力を甘く見ていた。

「揚げ物は人気があるからね。今日は天ぷらだよ」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


リョウ(若手)が歓声を上げ、ゴロウ(補給係)が胸を張った。

「エビ、イカ、かき揚げ材料!全部あります!割引で!」

ユイ(衛生担当)は小さく言った。

「高温油を、宇宙で…」


当時の厨房は“手順”が整備されていない。

油も、鍋も、気合も、だいたい地球仕様だった。

そして油は、すでに温度が上がっていた。

鍋の中で、油が静かに揺れている。

泡も立たない“静けさ”がむしろ怖い。


ユイが温度計を見て、顔色を変えた。

「……危険温度です。あの油、浮いたら終わります」

リョウが軽く言いかけて、喉で止めた。

「終わるって、どうなる」


ユイは淡々と答えた。

「釜茹での刑並みです」


リョウはエビを持ったまま固まった。

衣をつけたエビの軽さが、逆に不安を煽る。

ミサキが天ぷらを揚げ始めている。

ゴロウは気楽に言った。

「でも、すぐ揚げれば――」

ユイが睨む。

「揚げる前に重力が止まったら、油が“空中にいる”状態になります」


その瞬間、船内放送。

『重力制御システム、定期再起動。三、二、一――』

挿絵(By みてみん)


「え?」

ユイの声が一番小さかった。

小さい声ほど、現実は大きい。


ふわり。床が消えた。

まず、衣のボウルが浮いた。

次に、揚げたてのエビが浮いた。

イカが浮いた。

かき揚げ用の玉ねぎと人参が、ばらばらの星座みたいに上がっていく。


そして最後に、鍋の油が――

油だけが、遅れて“意志”を持ったみたいに盛り上がった。

熱で粘り気を増した油が、鍋の中で球体になりたがり、

ぷるん、と意思を持った心臓のように脈動する。

その動きが、やけに生々しい。

しかも、あれは高温だ。熱いではない。凶器だ。


リョウが息を呑む。

「……あれ、触れたら……」

ユイが低い声で言う。

「触れたら終わりです。しかも、火傷だけじゃなく“貼り付く”」

挿絵(By みてみん)


高温油の恐怖は、温度そのものではない。

皮膚に張り付いて、熱を“渡し続ける”ことだ。

無重力でそれが空中に漂うなら――避けようがない。


「全員、油から離れて!」ユイが叫ぶ。

マキも即座に言った。

「動くな、急に動くな!気流で油が散る!」


だがゴロウがやらかした。

浮いたエビをトングで捕まえようとして、反動で自分が回転し、

肘が鍋に当たり、鍋の取っ手が油に――

油の表面が“ぷちっ”と破れた。


次の瞬間、厨房は高温油の微粒子で満たされた。

小さな油滴が無数に分裂し、ふわふわ漂い始める。

照明に反射してキラキラしている。

見た目だけはロマンチック。実態は“熱い弾”の群れだ。


リョウは本能で後退し、壁を蹴って逃げた。

しかし逃げるほど、自分の動きが気流を作り、油滴が寄ってくる気がする。

「うわっ、こっち来る!」

「寄ってません、あなたが行ってます!」

「どっちでも嫌だ!」

ユイはシャッターを閉め、空調を切った。

「気流を止める!熱い油は“移動”させない!」

挿絵(By みてみん)


ゴロウは透明カバーを頭に被り、震え声で言った。

「これ、効きますか……?」

ユイが即答する。

「効きませんが、気休めにはなります。今は安心が必要です」


皆がラップやビニールを手にして身を守ろうとしている。

エビもイカも、衣の玉も、すべてが浮いている。

そしてその間を、高温の油滴がゆっくり漂う。

まるで熱い蜂の群れだ。刺されないようにじっとするしかない。


リョウが涙目で呟く。

「宇宙で一番怖いの、真空じゃない……油だ……」

ユイが頷く。

「その理解は遅いですが正しいです」

そして、ユイが本題を突いた。

「もっと怖いのは、重力が戻る瞬間です」


全員の顔色が変わった。

いま漂っている油滴は、重力復旧と同時に一斉に落ちる。

体に落ちれば火傷で貼り付く。

床に落ちれば滑る。

水に落ちれば跳ねる。

油は高温。落ちてくるのは“雨”ではない。“灼熱の狂気”だ。


放送が鳴る。

『復旧まで、残り三十秒』

三十秒。短い。短すぎる。

挿絵(By みてみん)


パニックが厨房を満たした。

「床に落ちる!滑る!」

「いや、それより体に落ちたら!」

「水に落ちたら跳ねる!」

「どこに逃げればいい!」

「逃げ先ない!」


マキが叫んだ。

「落ちる場所を作る!吸わせろ!受け止めろ!」

ユイが即座に補足する。

「吸着シート!雑巾!紙!“油を吸う”!」

ゴロウがキッチンペーパーと雑巾を投げ、

リョウが壁に貼り付け、

ユイが床に広げ、

マキがシンクの周囲を囲う。


全員が必死に“高温油の落下先”を作る。間に合うかどうかは運だ。


『重力制御、復旧します。三、二、一――』


全員が息を止めた。


ずん。

重力が戻った瞬間、世界が落ちた。

油滴が一斉に雨になる。

ペーパーが吸う。

吸いきれない油が床に散り、光る。

水場の油が形を崩して跳ね――


「熱っ!熱っ!」

「動くな!滑る!」

「近づくな!貼り付く!」

「誰か、火を!」

「火は止めてる!止めててこれ!」


リョウが一歩踏み出して滑り、シンクにしがみつく。

ゴロウはカバーを被ったまま尻もちをつき、カバーの中に油の匂いが充満する。

ユイは無言で二枚目の雑巾を投げ、三枚目を取りに走り――

走れず、滑って転びそうになって踏ん張る。

マキは鍋の前で立ち尽くし、床に落ちたエビを見つめた。

衣は剥げ、油は散り、”出せる”天ぷらはまだ存在していない。

挿絵(By みてみん)


食堂から通信が入る。

『天ぷら、いつ出ます?』

厨房の全員が同時に叫んだ。

「出ません!!」


マキは深く息を吐き、油の光る床を見渡して、静かに言った。

「いい。宇宙での揚げ物は――

熱い油を吸い取る方法を用意してから、“落とす先”まで用意して、

ようやく始まる料理よ」


それが《アルデバラン号》厨房の“前”と“後”を分けた日だった。


(つづく)

煮えたぎる油が宙に浮く。想像するだに恐ろしい出来事でございました。お後がよろしいようで。

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