「果報」は寝て待て
「新規オーダー、日替わり定食一つ!」
威勢のいい声が店内に響く。
俺は鍋を持つ手を止めずに、顔だけ上げた。
「また日替わりか。美樹さん、まだオーダー残ってる?」
「あと二組あるよー。ひろくん、まだまだ頑張らないとだぞー」
にやにやしながら声をかけてくるのは、美樹さん――叶美樹。
実家の定食屋で唯一の大学生アルバイトだ。
仕事はできるのに、忙しい時間帯でも平気でこうやってちょっかいを出してくる。
別に嫌じゃない。けど、少し調子が狂う。
俺の両親が経営する定食屋「いずみ家」は、
大阪府堺市、堺東駅前の堺銀座商店街にある。
市役所職員、近所の年配客、学校帰りの学生。
昼どきになると、立場も年齢も違う人たちで一気に席が埋まる。
ランチタイムは、毎日が小さな戦争だ。
「にしても、今日は多くないか……」
予想以上の混雑に、鍋を振る手を少しだけ早める。
「こんなんでへばってちゃ、俺の代わりは務まらんぞ」
小言を飛ばしてきたのは、父であり店主の泉谷しげるだ。
元々は厨房を一手に引き受けていたが、仕込み中に腰を痛めてからは、
長時間の調理が難しくなってしまった。
今は俺が、その代わりをしている。
「自分でも、痛いくらいわかってるよ」
そう返すと、父さんは鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。
「いらっしゃいませ!」
美樹さんの声が弾む。
視線の先には、大きなリュックを背負った学生が二人立っていた。
「部活かな……すごい荷物だな」
そう思った瞬間、なぜか目を逸らしていた。
ああいう荷物を、俺は一度も背負ったことがない。
「お前、二番卓の生姜焼き、出したか?」
父さんの視線を感じて振り返ると、ちょうど目が合った。
「……あ、やべ」
日替わり定食に気を取られて、完全に忘れていた。
父さんのため息が背中に刺さる。
俺は慌てて別の鍋を火にかけた。
昼の戦いは、まだ終わらない。
*
「あぁ〜……疲れた」
ランチタイムが終わり、俺は客席の椅子に勢いよく座り込んだ。
「ひろくん、おつかれさま」
差し出されたグラスを受け取り、冷えたお茶を一気に飲み干す。
暑い厨房を出たあとの一杯は、何よりもうまい。
もはや裏メニューだ。
閑散とした店内に、俺の喉を鳴らす音だけが響いていた。
「今日は本当に忙しかったね」
「母さんもいなかったし、余計にね」
「そういえば、おばさんどこ行ってたの?」
美樹さんが向かいの席に座り、じっとこちらを見てくる。
「さあ。いい知らせ持って帰るから、楽しみにしてて、とは言ってたけど」
そう答えながら、俺は視線を逸らした。
なぜか胸の奥が落ち着かない。
嬉しい話のはずなのに、素直にそう思えなかった。
「なにそれ」
美樹さんは相変わらず、にやにやしている。
カチャリ、と店の扉が開く音がした。
「噂をすれば、じゃない?」
美樹さんが立ち上がる。
「ただいまー!」
店内に響く、やたらと大きな母さんの声。
どこからそんな音量が出るのか、不思議になる。
「おばさん、どこ行ってたんですか。今日すごく忙しかったんですよ」
ぼやきつつも、美樹さんは母さんの荷物を受け取る。
「ごめんね、美樹ちゃん。でも今日は、とっっっても大事な用事だったの。」
溜めがすごいな。
しかし、母さんの言葉になぜか緊張している。俺にとって大事な用事なのか...
「それで、その用事ってなに?」
俺は椅子に座り直した。
「ひろふみに朗報があるの。あれ、お父さんは?」
母さんはきょろきょろと辺りを見回す。
「奥で休んでるよ」
定食屋の裏がそのまま俺たちの家だ。基本的に休憩中は家に戻っている。
営業が終われば、暖簾をしまって数歩で生活に戻る。
「もう……大事な話があるって言ったのに」
そう言ってから、母さんは俺の正面に立った。
いつもの少し抜けた表情じゃない。
その真剣さに、自然と背筋が伸びる。
母さんは一度、大きく息を吸い、
机に手をついた。
「ひろふみ、よく聞きなさい」
そして、はっきりと言った。
「あんた、学校に行きなさい」




