後編:自由の果てに、私という選択を。
※物語上、軽度の裸体描写が含まれますが、性的描写は一切ありません。
【自由になる──それは、誰にも頼らず、自分の意思で生きるということ】
闇の術士が語る「術の副作用は本質に触れる」という言葉。
アッシュは危険を承知で、リテアの首輪を外す禁断の術を選んだ。
そして翌朝──少女は目覚め、自らの過去と向き合いはじめる。
単なる好奇心だけではない。リテアを助けると決めた以上、その「面倒なこと」が何なのか、知っておく必要があった。
闇の術士の警告と、ルイの警告が重なり、アッシュの心に一層の疑問と覚悟が募る。
アッシュは一歩踏み出し、術士の目の前に立った。
「...なあ」
その声には、ただ情報を求めるだけではない、ある種の切迫感が込められていた。
「...『手を出したらどうなる』? 具体的に、何を意味するんだ?」
術士は、一瞬沈黙した。その顔には、蝋燭の光が影を落とし、表情は読み取れない。部屋の空気が、さらに重くなったように感じられた。
やがて、術士はゆっくりと口を開いた。その声は、先ほどよりもさらに枯れて、そして、どこか遠い響きを持っていた。
「...術の副作用は、術を受ける者の『本質』に触れる」
短い、しかし含みのある言葉だった。
「...それに、『持ち主』は、首輪が外れたことを察知する。そして...『持ち主』は、手に入れたものを、容易く諦めたりはしない」
それ以上の説明はなかった。術士は再び沈黙し、アッシュから視線を外した。
アッシュは、術士から受け取ったお札と手順の書かれた羊皮紙を握りしめた。
術の副作用が「本質」に触れる? そして、「持ち主」が察知する? 具体的な破滅や呪いの言葉は無かったが、その曖昧さがかえって恐ろしい。
だが、リテアのためという、強い、抑えきれない思いが、彼の心を占めていた。多くの知り合いがいる中で、なぜたった一人のこの少女のためにそこまでするのか...その理由は、彼自身にも、言葉にできるほど単純なものではなかったが。
彼は術士に礼を言い、闇の地下室を後にした。街の喧騒に戻っても、彼の頭の中は、禁断の術のこと、リテアのこと、ルイの警告、そして術士の「本質」「持ち主」という言葉でいっぱいだった。
(やるしかない...)
リテアを救うために。彼女に「自由」を与えるために。たとえそれが、どれほど危険な行為だったとしても──。
<回想終わり>
アッシュはそう繰り返すと、リテアの小さな手をそっと取った。
「あの首輪は...君をモノとして扱うためのものだった。君の自由を奪い、誰かの『所有物』だと示すための印だ」
彼の言葉に、リテアは肩を震わせた。自分の境遇を、改めて突きつけられたのだ。
「僕は...君を救い出した時、二度と君が誰かの『商品』として扱われることがあってはならないと思った。だから、危険を承知で、あの首輪を外す方法を探したんだ」
アッシュは、ルイから警告されたこと、闇の術士に会ったこと、術の危険性について、リテアに分かりやすい言葉を選んで説明した。禁断の術であること、体に負担がかかること、そして「持ち主」が首輪の消失を察知する可能性についても。
「だから、ゆうべ、術を試みたんだ。君が眠っている間に...」
アッシュは、術を施した際の、リテアの激しい反応について語るべきか迷った。
あの「激しさ」が術の副作用であることは、彼の中で確信に変わっていたが、リテアに余計な恐怖心を与えたくはなかった。
リテアは、アッシュの説明を、ただ静かに聞いていた。その琥珀色の瞳に、様々な感情が揺れているのが見て取れた。
恐怖、混乱、そして...理解。自分が置かれていた境遇の過酷さ、そして目の前のこの男性が、どれほどの危険を冒して自分を助けてくれたのか。
アッシュが説明を終えると、再び沈黙が訪れた。部屋に差し込む朝の光だけが、静かに二人を照らしている。
やがて、アッシュは意を決したように、リテアの瞳をまっすぐに見つめて告げた。
「お前は、もう誰のものでもない」
その言葉は、先ほどの術の説明よりも、リテアの心に深く響いたようだった。
「もう、誰の指示も受けなくていい。自分の考えで、自由に、生きていいんだ」
「自分自身のものだ」
その言葉は、リテアが生まれてから一度も聞いたことのない、全く新しい概念だった。彼女の脳裏に、過去の主人の命令、見知らぬ人々からの指図、そしてそれに抗うことなど考えもしなかった日々の記憶が駆け巡る。
そして、今、目の前のアッシュが告げた、あまりにも眩しい「自由」という言葉。
リテアの目に、みるみるうちに涙が溢れてきた。ぽろぽろと頬を伝い、止まらない。声を出して泣くわけではないが、彼女の小さな体は激しく震え始めた。
「う...うぅ...」
彼女は、言葉を失っていた。これまで生きてきた世界の枠組みが、一夜にして音を立てて崩れ去ったのだ。
奴隷として生きることしか知らなかった自分に、「自由」が与えられた。それは、あまりにも重く、あまりにも未知の現実だった。
アッシュは、泣き崩れるリテアをそっと抱き寄せた。彼女の震えが、彼の腕の中に伝わってくる。
その後の朝食の時間。
「何を食べたい?」
アッシュは、リテアに優しく尋ねた。宿の朝食メニューを見せる。パン、スープ、オムレツ、サラダ、フルーツ...様々な選択肢があった。
しかし、リテアは、まるで石になったかのように固まってしまった。アッシュの顔とメニューを交互に見るが、何も言えない。
「どうした? 好きなものを選べばいいんだぞ?」
「...好きな...もの...?」
リテアの琥珀色の瞳が、混乱の色を深める。「好き」という概念、自分で何かを「選ぶ」という行為そのものが、彼女には理解できなかった。
奴隷は、与えられたものを食べ、命じられた服を着て、指示された場所へ行く。自分の「好き」や「選びたい」という感情を持つことさえ、許されなかったのだから。
「あの...ご、ご主人様が...決めて...ください...」
絞り出すように言われたその言葉に、アッシュは再び胸を締め付けられた。
物理的な首輪は外れても、長年の奴隷生活が彼女の心に刻みつけた鎖は、そう簡単には外れないのだと痛感した。
この少女は、「ご主人様」の指示なくして、自分自身で何も決められないでいる。自由になったばかりの彼女に、いきなり「選べ」と言うのは、あまりにも酷だったかもしれない。
「...そうか。分かった。じゃあ、今日はまずパンとスープにしようか」
アッシュはメニューを閉じ、優しくそう決めた。リテアはこくりと頷き、少しだけ安心したような表情になった。
だが、その瞳の奥には、まだ深い混乱と、これからどうなるのかという不安が宿っている。彼女にとって「自由」は、希望であると同時に、あまりにも重く、未知の領域なのだ。この朝食の一幕は、その「自由の重さ」の始まりを象徴していた。
(これから、どうやって教えていけばいいんだ...自分自身の足で立つことを)
アッシュは、リテアの小さな手を見つめながら、静かに決意を新たにした。
朝食を終え、テーブルの上を片付けた後も、二人の間に重たい沈黙が流れていた。
リテアは、小さな手で自分の首元をそっと撫でている。そこにあるはずだった硬い感触がないことに、まだ戸惑っているようだった。
アッシュは、そんなリテアの様子を静かに見守っていた。無理に話させるつもりはない。彼女が話したいと思った時に、聞いてやればいい。
やがて、リテアが小さな声で呟いた。
「...あの...どうして...助けてくれたのですか...?」
アッシュは、リテアの問いかけに穏やかに答えた。
「どうしてって...君が危なかったからだよ。それに...僕には、君を見捨てるなんて、できなかった」
「でも...私は...」
リテアは言葉を詰まらせた。アッシュは、彼女が何を言いたいのか分かっていた。奴隷である自分に、価値があるのか。助けられるに値する存在なのか。
「君は君だよ。誰のものでもない、君自身だ。そして、誰かに見捨てられていい存在なんて、いない」
アッシュはそう言い切った。リテアは、アッシュの言葉に、琥珀色の瞳をわずかに見開いた。まだ完全に理解できたわけではないだろうが、彼の真剣な眼差しは、彼女の心に何かを伝えたようだった。
しばらくの沈黙の後、リテアが意を決したように、俯きながら語り始めた。絞り出すような、か細い声だったが、そこには、アッシュに自分のことを知ってほしいという、小さな願いが込められているように感じられた。
「...あの...私には...あまり、昔の記憶がありません...」
リテアはそう切り出した。アッシュは静かに耳を傾ける。
「でも...一つだけ...とても、とても怖いことだけ...覚えています...」
リテアの声が、微かに震え始めた。
アッシュは、彼女の手をそっと握ってやった。リテアの小さな手が、ピクリと反応する。
「...小さい頃...パパと...ママが...」
言葉が途切れ途切れになり、リテアの瞳に涙が浮かび始めた。
「...血が...たくさん...」
リテアは、顔を歪め、小さな声でうめいた。
アッシュは、ギュッとリテアの手を握り返した。辛い記憶を思い出させてしまっている。だが、彼女が語りたいと決めたのなら、聞いてやるのが彼の役目だ。
「...知らない...人たちが...怖くて...パパとママを...」
リテアは、その時の情景を語ろうとするが、言葉にならないようだ。震えと涙が止まらない。アッシュは、何も言わず、ただリテアの小さな手が落ち着くまで、優しく握り続けた。
やがて、リテアの震えが少し収まると、彼女は涙を拭い、再び語り始めた。声はまだ震えているが、少しだけ力がこもっていた。
「...私...一人になってしまって...泣きながら...歩いていました...どこへ行けばいいのか...分からなくて...」
森の中を、小さなネコ耳族の少女が一人、泣きながらさまよっていた情景が、アッシュの脳裏に浮かんだ。ワイバーン襲撃で彼女を見つけた時と同じような、絶望的な孤独。
「...それで...道で...見慣れない...人に...会いました...」
リテアはそう言い、アッシュの顔を見た。その「見慣れない人」が、何を意味するのか、アッシュにはすぐに分かった。
「...その人は...親切にしてくれて...でも...後で...分かりました...その人は...」
リテアは言葉を詰まらせ、小さな手をギュッと握りしめた。
「...奴隷...商人...だったのです...」
そこで、リテアが奴隷となった、直接的な理由が明らかになった。
アッシュは、闇の術士から術を教わる際に「奴隷の首輪」という言葉を聞いていたが、リテア自身の口から「奴隷商人」という言葉を聞き、改めて彼女が置かれていた境遇の過酷さを実感した。
「...それから...色々な...ご主人様のところへ...行きました...」
リテアは、自分が幾度となく売買され、様々な人間の元を転々としたことを語った。
それぞれの場所で、どのような扱いを受けてきたのかは、多くを語らずとも、彼女の従順さや、自分で選択することへの戸惑いから、アッシュには想像できた。
「...最後の...ご主人様は...私を...他の人とは...違うと...言いました...」
リテアの声が、少しだけ変化した。恐怖だけでなく、戸惑いや、そしてわずかな誇りのようなものも混じっているように聞こえた。
「...私は...特別な...存在だと...そして...『鍵』だと...」
「鍵」...その言葉に、アッシュの表情が変わった。
闇の術士が「術を受ける者の『本質』に触れる」と言っていた言葉が、アッシュの頭の中で響いた。「鍵」という言葉が、リテアの「特別」さと結びつき、彼女の内に秘められた力に関わるものであることを示唆している。
「...何の...鍵なのかは...教えて...くれませんでした...でも...あの...黒い首輪を...くれました...」
リテアはそう言い、再び自分の首元に触れた。かつてそこにあったはずの「特別なもの」──奴隷の首輪。
「...その...首輪が...私を...『鍵』として...縛って...いたのです...」
リテアは、全てを語り終え、深く息を吐いた。その小さな体は、まだ微かに震えている。両親の死、奴隷となった経緯、そして自身の「特別」さと首輪の意味。全てを語り終えたことで、彼女の心は張り詰めていた糸が緩んだように、脆くなっていた。
アッシュは、リテアの語る過去に、静かに耳を傾けていた。彼女の言葉の一つ一つが、彼の胸に重く響く。幼い頃、両親を失い、一人になり、奴隷商人に捕まり、モノとして扱われ、そして自身の「特別」さを「鍵」として利用され、首輪で縛られていた...。想像を絶するような過酷な過去だ。
「...そうか...辛かったな...」
アッシュは、それだけを、心から絞り出すように言った。それ以上の言葉は出てこなかった。
慰めの言葉も、同情の言葉も、今のリテアには届かないように感じられた。ただ、彼女の痛みに寄り添うことしかできない。
リテアは、アッシュの言葉に、静かに顔を上げた。琥珀色の瞳が、アッシュを真っ直ぐに見つめる。その瞳には、まだ悲しみや混乱が残っていたが、アッシュに全てを語り終えたことで、わずかに、解放されたような色も宿っているように見えた。
「...でも...もう...大丈夫...です...」
リテアは、震える声で、しかし確かな意志を持って言った。
「...アッシュさんが...助けてくれたから...」
その言葉は、アッシュにとって、何よりも救いだった。彼の危険を冒した行為が、無駄ではなかったのだと実感した。
アッシュは、リテアの小さな手を再び取り、優しく握った。
「ああ...もう大丈夫だ。辛いことは全部、過去のことだ。これからは、君自身の時間を、君自身の人生を生きるんだ」
リテアは、アッシュの言葉に、ゆっくりと頷いた。まだ「自由」の意味を完全に理解しているわけではない。だが、彼女の心の中に、新しい一歩を踏み出すための、かすかな光が灯ったように見えた。
アッシュとリテアの、過去と現在、そして未来に向けた会話が、静かに続いていく。この宿屋の一室から、彼女たちの新たな旅が始まろうとしていた。
奴隷、術のこと...この全てが繋がった、数日前の出来事を思い出していた。
<完>
アッシュとリテアの物語はひとまずの区切りを迎えます。
自由を手にしたリテアが、これからどんな道を歩んでいくのか。そして、その傍らでアッシュが何を思い、どう見守っていくのか。彼らの未来は、読者の皆さんの温かい想像に委ねたいと思います。
この物語を最後まで見届けてくださり、心からの感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。