前編:ある朝、俺は少女の鎖を断ち切った
※物語上、軽度の裸体描写が含まれますが、性的描写は一切ありません。
【これは、ある少女が「自由」を知るまでの物語──】
深い森の奥、青年アッシュは偶然出会ったネコ耳の少女を救い出す。
その首には、外すことができないとされる黒い首輪が巻かれていた。
「自由に生きてほしい」──その願いを胸に、アッシュは禁断の術を試みる。
ある日の朝、宿屋の一室にて・・・
冒険者──彼の名はアッシュ。
年齢は二十代に見える。均整の取れた体つきに、知性を感じさせる瞳。
ギルドでは真面目で、依頼は確実にこなし、ここぞという時には驚くほどの力を発揮する。その実力と、誰にでも分け隔てなく接する誠実さから、「頼れる好青年」として知られており、特にギルドの受付嬢たちからの評判は非常に良い。そんな彼が、今、心地よい朝の光の中で目を覚ました。
窓を開け爽やかな風が来て、いっそう気分爽快になってくる。
ベッドには、ネコ耳族のリテア(♀)はすやすやと寝ている。
アッシュはリテアの顔をそっと触れた。
リテアは「ううん」と寝返りを打った際、毛布が落ちた。そう衣類も着ていないあられもない一糸まとわぬ裸体の姿。
アッシュは思わず視線を逸らした。それは単に彼女が裸だったからではない。
昨夜──あの首輪を外す禁断の術を施した際、リテアの体に起こった激しい反応が、アッシュの脳裏に鮮烈にフラッシュバックしたのだ。
まるで悪夢に苛まれるような、激しい痙攣。触れた肌から伝わる、尋常ではない異常な熱。それは決して情熱や快楽などではなく、闇の術士が警告していた、禁断の術が術を受ける者にもたらす、予想だにしない副作用の現れだったのだろう。
(...激しかったな...)
アッシュは、昨夜、藁にもすがる思いで試みた「試み」を思い返す。
奴隷の首輪を外すための、体への大きな負担を伴うと噂される、禁断に近い術...。あの闇の術士は「これには、手を出してはいけない」と警告していた。
術士の言っていた「術の副作用は、術を受ける者の『本質』に触れる」という言葉の意味するところはまだ分からない。だが、昨夜リテアの体に現れたあの反応は、紛れもなく術の代償だった。
(この少女と、出会ったのは...)
夕べの情景と、ベッドにいるリテアの存在、そして、数日前の出来事がアッシュの脳裏に蘇る。
数日前の出来事:ワイバーンの森で
それは、あの朝の数日前のことだった。
アッシュは、静まり返った山間の深い森にいた。ギルドからの依頼で、貴重なハイポーションの素材となる「月見草」を探し求め、ようやく目的の品を数本、手に入れることができたところだった。
この森の奥深くは、強力な魔獣が出没するため人も滅多に立ち入らない。だからこそ、そんな場所にひっそりと月見草は自生しているのだ。背負ったリュックに収まった素材の重みが、達成感を物語っている。後は街に戻ってギルドに報告すればいい。
「ふう...終わったな」
そう呟いた時だった。
遠く、風に乗って、か細い、しかし切羽詰まったような悲鳴が聞こえてきた。
「...?」
アッシュは首を傾げ、改めて周囲の気配を探る。
ここは人も滅多に入らない、森の奥深く。魔獣は出るが、人間の悲鳴が響くような場所ではないはずだ。
ただ事ではない、と直感したアッシュは、手にしていた剣を握り直し、改めて気を引き締めた。
(なんだろ? ただの動物の声じゃない...人間の、それも尋常じゃない悲鳴だ...)
声がした方向へと、慎重に足を進める。体内の魔力を静かに巡らせながら、周囲の気配を探る。木々を縫い、茂みをかき分けながら進むうちに、悲鳴は徐々に大きく、そして複数になっているのが分かった。
やがて、視界が開けた先に、信じられない光景が広がっていた。
一台の大きな馬車が横倒しになり、周囲には数人の人影が散らばっている。彼らは、既に地面に倒れ伏し、動かない。
血の匂いと、何かに引き裂かれたような痕跡が、惨状を物語っていた。ワイバーンによるものだ。
そして、その上空には──
「っ! ワイバーンだと!?」
巨大な翼膜を持つ影が、鋭い爪と牙を振り回し、生き残った者がいないか地上を窺っていた。
下級のワイバーンとはいえ、その戦闘力は桁違いだ。並の冒険者パーティーでも苦戦する相手だろう。
(くそっ、なんでこんなところに...!俺一人じゃ、まともに相手をするのは...!)
状況の絶望感に、一瞬、思考が固まる。逃げている人々はいない。皆、動かない。だが、どこかに隠れている者がいるかもしれない。助けられるのは...?
その時、アッシュの視界の端に、さらに小さな影が映った。
横倒しになった馬車の陰で、身を縮めて震えている、小さなシルエット。そして、それを発見したワイバーンが、恐ろしい頭を向け、獲物めがけて降下しようとしているのが見えた。
「いやぁぁぁ!」
小さな影から絞り出された、か細い、それでいて魂の叫びのような悲鳴。
その声を聞いた瞬間、アッシュの理性が吹っ飛んだ。考えるよりも早く、体は動いていた。
「させるかッ!!」
木々の陰から飛び出し、ワイバーンの注意を引くために、大声を上げながら駆け出した。右手に帯剣している剣を構えつつ、左手に攻撃魔法の詠唱を開始する。
狙いは、小さな影ではなく、ワイバーン自身!剣で注意を引きつつ、魔法で確実な干渉を加える。
ワイバーンは一瞬、小さな影からアッシュへと視線を移した。その隙に、アッシュは地面を蹴り、加速する。詠唱を終えた左手から放たれたのは、風の刃。狙うはワイバーンの翼膜!
(倒すんじゃない...!)
風の刃はワイバーンの翼膜を浅く裂き、不快な痛覚を与えた。ワイバーンはその干渉に体勢を崩し、不快な咆哮を上げた。剣を振りかざすのではなく、ワイバーンの突進をいなすように、ぎりぎりのところでその体を避け、剣の腹で体当たり気味に側面を押しやったのは、確実な回避行動を優先したからだ。
「グアァッ!」
ワイバーンはすぐに体勢を立て直し、怒りの形相でアッシュへ向き直った。黒曜石のような瞳には、殺意の炎が燃え盛っている。巨大な爪と牙が、次の攻撃のために振り上げられた。
アッシュは剣を構え、体内に魔力を集中させ、迫りくるワイバーンを迎え撃つ体勢をとる。
その時、ワイバーンの背後、森の茂みから、もう一人の人影が飛び出した。長い黒髪に、額から突き出すような小さな角。鬼人族の女性だ。そして、彼女の手には見慣れた杖が握られていた。
(...ルイ!?)
ギルドでよく知られた顔。そして、かつてアッシュが組んでいたパーティーの、ランク一つ上の先輩魔法使い。
なぜ彼女がここに? 月見草の依頼は複数出ていたが...。
ルイはアッシュと一瞬、アイコンタクトを交わした。その鬼人族特有の鋭い瞳の奥に、状況判断の早さと、そして何か言いたげな色が宿っているように見えた。しかし、言葉は無い。ワイバーンが迫るこの状況で、余計な会話は無用だ。
「ッ!」
ルイが短い呪文を紡ぎ、地面に魔法陣が展開される。ワイバーンの足元に強力な重力魔法が発動し、わずかに動きを鈍らせた。その隙を突き、アッシュは横に跳んでワイバーンの爪撃を避ける。
ワイバーンは動きを封じられた怒りからか、再び咆哮を上げ、今度は魔法使いであるルイに狙いを定めた。
(よし!)
目標は討伐ではない。
この場から「どうにか生き延びること」。そして、もし生存者がいるなら、連れて逃げる。
ルイがワイバーンを引きつけている間に、アッシュは倒れた馬車の陰にいた「小さな影」の元へ素早く駆け寄った。
「おい!大丈夫か!?」
馬車の車輪の影で、少女が身を縮めて震えていた。
汚れた服、ぼさぼさの髪、そして怯えきったネコ耳。リテアだ。彼女はアッシュを見上げ、恐怖と混乱の混じった瞳を向けた。周囲の惨状とワイバーンの恐怖に、完全に凍り付いている。
「い...いやぁ...」
声にならない、か細い声。体は硬直し、動けないようだ。
「行くぞ!ここにいたら危ない!」
アッシュはリテアの腕を掴み、無理やりにでも立たせようとする。リテアは震えながらも、アッシュの手に縋りついた。その小さな体は、まるで鳥の雛のように軽い。
(仕方ない...。それに、こんな状態では...)
アッシュはリテアを腕からそっと下ろし、しゃがみこんだ。
「よし、おんぶするぞ。しっかり掴まってろ」
有無を言わせず、リテアを背中に乗せる。
予想以上に軽く、改めて彼女が幼い少女であることを実感する。小さな腕がアッシュの首に回され、細い指先が服を掴んだ。まだ震えは止まらないが、少なくともアッシュの背中から離れようとはしない。
アッシュがリテアを背負い、森の中へ走り出したその時、ワイバーンと対峙していたルイの視線が彼らの姿を捉えた。背中にしがみつく小さなネコ耳の少女。
そして、彼女の乱れた髪の間から見えた、細い首筋に嵌められた、見慣れない黒い金属──奴隷の首輪。
ルイの鋭い鬼人族の瞳が、それを捉えた瞬間、彼女の心臓が嫌な音を立てた。
(...あれは...! あの馬車が運んでいた『商品』だ! しかも、あの種の首輪...!)
ルイの心の中で、何かがざわめいた。単なる生存者ではない。
あの馬車が運んでいた『商品』。それを、あのアッシュが連れて行く...。その事実に、彼女の顔に複雑な色が浮かんだ。
おんぶした瞬間、アッシュはリテアから微かに漂う、普段あまり嗅ぎ慣れない匂いと、首筋に当たる《《何かの硬い感触》》に気づいた。強い匂いではないが、どこか埃っぽく、不衛生さを感じさせるものだ。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
(まずは落ち着かせて、汚れを落としてやらなきゃな...)
アッシュの頭の中には、近くの川でリテアの顔や手を洗わせ、少しでも落ち着かせてやりたいという思いがあった。
目的地は無いが、とにかくこの深い森から抜け出し、人の気配のある場所へ向かうこと、そしてその過程で彼女を少しでも楽にしてやることを考えた。
その時、ワイバーンが再びルイを振り払い、こちらへ向き直った。ルイは冷静に次の魔法を準備している。その表情は普段通りだが、額の角が微かに震えているのは、相当な集中と負担がかかっている証拠だ。
「くそっ!まだ来るか!ルイ、逃げるぞ!」
「分かってる!」
ルイが強力な風魔法でワイバーンの視界を撹乱する。その連携の間に、アッシュはリテアを抱きかかえるようにして、一目散に森の奥へと走り出した。
背後から聞こえるのは、ワイバーンの怒りの咆哮と、ルイの放つ魔法の炸裂音、そして破壊される木々の音だ。
(ルイ...!無事でいてくれ!)
腕の中のリテアは、小さく震えながらアッシュの服にしがみついている。
ワイバーンの強烈な殺気と、逃走の焦り、そして腕の中の小さな命、さらに背後で戦う仲間の気配。全てがアッシュの心を締め付けた。
ルイがどれだけ時間を稼いでくれているか分からない。一歩でも早く、この危険な場所から離れなければならない。
ルイがワイバーンを引きつけている隙に、アッシュは全速力で森を駆け抜ける。後ろを振り向く余裕はない。
聞こえるのは、ワイバーンの咆哮と、木々が破壊される音、そして自分自身の激しい息切れだけだ。
どれほど走っただろうか。肺が張り裂けそうになり、足が棒になった頃、ようやくワイバーンの咆哮が、少しずつ遠ざかっていった。
ルイが上手く誘導してくれたか、あるいはワイバーンが追跡を諦めたか...。
息も絶え絶えに、アッシュは安全な距離まで逃げおおせたと判断し、木にもたれて座り込んだ。荒い息を整える。腕の中にいたリテアは、未だに震えが止まらない様子で、アッシュの胸に顔を埋めていた。
森の静寂が戻り、張り詰めていた時間がようやく終わる。
アッシュは、生き延びた安堵と共に、腕の中の少女を見下ろす。彼女は、ワイバーンの襲撃によって、全てを奪われたのだ。
馬車に乗っていた人々の中で、たった一人、奇跡的に生き残った、小さなネコ耳の少女。
こうして、アッシュは絶望の淵から少女リテアを救い出し、そしてかつての仲間であるルイとの、予期せぬ再会と別れを経験したのだった。
アッシュは、川岸まで歩き、近くの岩に腰を下ろした。長い時間の移動で体は疲労していたが、ここまで来られたことに安堵した。
「さあ、きれいに洗おうか。ほら脱いで」
アッシュはそう言いながら、リテアに服を脱ぐように促した。
リテアはアッシュの言葉に、大きく目を見開いてびっくりした様子だった。
しかし、次の瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、身についた習慣のような、抗いがたい諦めと従順さだった。誰かに命じられれば、それに逆らうなど考えたこともない、というような。
リテアは震える手で、少しずつ汚れた服に手をかけ始めた。
アッシュは、リテアのその反応を見て、胸が締め付けられる思いがした。彼女が置かれていたであろう、過酷な境遇が、その従順さからありありと伝わってくる。
リテアが服を脱ぎ終え、その細い体が露わになった時、アッシュは彼女の細い首元に、微かに残る、何かの痕跡のようなものと、何かの金属製らしいものが付いているのを見た。
それは、以前おんぶした際に感じた、硬い感触と、あの独特の匂いの記憶と結びついた。あの馬車に乗っていた人々と共に、彼女が何か特殊な、あるいは束縛されるような状況にあったことは間違いないだろう。
(ああ、そうか...。この子は...あの時、何か特別なものをつけられて、運ばれていたのか...。この従順さは...)
リテアの謝罪の理由も、馬車に一人だけ残されていた理由も、そして彼女の怯えの深さも、全てがその「特別なもの」と、彼女が置かれていたであろう境遇に由来するのだろうと、アッシュは推測した。
アッシュは、目の前の小さなネコ耳族の少女が背負っている、あまりにも重い現実に直面した。
──意識は、再び朝の宿屋の一室へと戻る。
(ああ、そうか...。この子は...あの時、奴隷の首輪をつけられて運ばれていたのか...)
森の川辺で、彼女の首元に付いていた奴隷の首輪を見た時の衝撃が、アッシュの脳裏に鮮明に蘇る。
あの時、リテアが背負っていた重い現実、そして自分自身がその現実にどう向き合うべきか、必死に考えた数日間のことが駆け巡った。
どうすればあの付いていた奴隷の首輪を外せるのか。通常の手段では決して外せない、魔法か技術が施されているはずだ。解除の魔法? 特殊な鍵? 様々な方法が頭を巡ったが、どれも容易ではないものばかりだった。
(ルイは、無事だった...。ギルドで顔を見た時は、本当にホッとした...)
(あれから...色々なことがあったな...。ルイの安否を確認し、ギルドへの報告、リテアの保護...。そして、この宿で一晩を過ごし──そして、あの術を試みた夜)
ふと、アッシュはリテアの細い首筋に目をやった。彼女が寝返りを打った際に露わになった首元に、彼の視線が釘付けになった。
奴隷の印である、あの黒い金属の首輪が、跡形もなく消え失せている。
それは、紛れもない事実だった。彼がずっと気にかけ、どう外すべきか悩み、そして昨夜、危険を承知で試みた「術」の対象が、そこにはもう無いのだ。
(...まさか...!)
──首輪は消えた。だがそれは、まだ始まりにすぎない。
少女リテアが本当の「自由」に出会うまでの旅が、ここから始まる。