Saturn(2月24日)
「今日の授業はこれで終わりだ」
そう言って教室を出ようとする内海先生とは、最近あまり話していないような気がする。
前までは雫星のことをよく聞いてきたものだが、僕から話しかけることは相変わらずない。
決して気まずいわけではないが、こうも視線までが合わなくなると、そのちょっとした雰囲気の違いに違和感を覚えてはいた。
今日もバイトが終わり、家に帰ってすぐに夜ご飯が用意されていた。
僕はいつも通り黙々と食べ進めていたが、向かいに座る母の様子が何かを言いたげなように感じた。
「何?」
僕が聞くと、母はソワソワとしていた行動をぴたりと止め、食べかけていた箸を置く。
「陽。大学なら浪人していいよ」
想像もしていなかった内容に、僕は驚いてしまう。
「どうして急に?」
母が僕に大学までストレートで進学することを望んでいたのは知っている。
だからこそ意外でもあるその言葉に思わず僕も食べていた箸が止まるが、その様子に母は微笑を浮かべて言った。
「この前ね、先生が家に来たの。
陽は再来年、このままだと大学に行けないかもしれないけどそれを許して欲しいって頭を下げられた。
最初は何のことか分からなくて、先生からたくさんお話を聞いた。
それで最近の陽のことを思い出して、思い当たることがいっぱいあったの」
「それは……」
内海先生からどこまで聞いたのか、僕が母に雫星のことを伝えたことはこれまで一度もなかった。けれど母は雫星のことを含め、これまでの経緯を既に知っているようだった。
「大学より、大事なことを見つけたんでしょ?」
母は僕に初めて質問をした。内海先生だけでなく、僕の口からもちゃんと聞いておきたかったのだろう。
だから僕はその質問に胸を張って言えた。
「うん」
すると母の笑顔は安心したように大きくなった。
「ならそれを優先しなきゃね。
私も今になって思うんだ。大学も青春もそんなものは幾つになってからでも取り戻せるもので、唯一取り戻せないのは今あるこの時間だけ。
その限られた時間を自分が何に使うべきが陽の中で分かっているなら、敢えて違う道を勧めることもないのかなって。
それにそう思えた一番の理由はね、私なんかよりも結月ちゃんのお母さんの方がよっぽど手強かったと思うから」
「結月のところが?」
そう聞くと母は一度頷いた。
「私が陽にストレートで進学して欲しいって思ったのも、結月ちゃんのお母さんからの影響が大きかったの。
結月ちゃんがまだ幼い頃からストレート進学させたいってよく言ってたからね。
お母さん自身が留年経験あるから、そんな思いをさせたくないんだって話してた。
けど結月ちゃんのお母さんから連絡が来てね、子供の自由にさせようと思うって。
それで私が断れる理由なんてないもんね」
「そうだったんだ……」
「先生、すごく頑張ったんだと思うよ」
普段は楽観的に見えることが多かった内海先生が、一体何を考えていたのかは分からない。
けど一生徒である僕たちのために奮闘していたのは確かなのかもしれない。
「これは陽たちの人生なんだから、陽たちが選べばいいよ。
でもその代わり、自分で選んだ責任は持ってもらわないとね」
「うん。」
教師という立場から怒られたあの日を思い返すと、内海先生にとってもこれは望んでいた形ではなかったのだろう。
けれどその日から内海先生はどんな気持ちで僕たちのことを見て、覚悟を決めてくれていたのか。ふと思い出した時、内海先生のあの時の吹っ切れたような顔の意味を、今の僕には少しだけ理解できているような気がした。




