Earth(6月2日)
病院での再検査を終え、特に問題はないと診断された。
多少安心できたのも束の間、僕は鞄の中に入っていたプリント類を見て、内海先生から頼まれた用事を思い出してしまう。
そしてふと思う。そういえば住所などではなく号室を言われたのにはどういう意図があったのだろうか。普通に考えればおかしな話だ。
とは言え、今更それを聞く術はなくなっていたため、とりあえず教えられた号室へと向かうことしかできなかった。
301号室。そこは個室だった。そしてその部屋には内海先生が言っていたであろう僕の微かな記憶に残っていた名前が貼られていた。
病室の扉は無防備にも開いている。きっと宙斗であれば何も考えずにズカズカと部屋の中へと入っていくだろう。けど僕にはそんな勇気はない。
なので僕は僕らしく、すぐには中に入らず部屋の様子を覗いてみることにした。
僕は開いていた扉からゆっくりと顔を出す。そこで見えてきたのは、不登校と噂のその人が、ベットの上で僕たちの嫌いな勉強に勤しんでいる姿だった。
僕の気配に気付く様子は全くない。きっと声を掛けなきゃ埒が明かないのだろうと思った。
「あの……」
昔からの人見知りによる弊害なのか、少し小声になった僕の一声では気づいてもらえず、無視をされたような感覚に陥り急に恥ずかしくなった。
たった一声で心が折れ、すぐに声を掛けることを諦めてしまう。
けど次にその恥ずかしさは僕にこの部屋へと踏み込む勇気をくれ、気づけば足早にその人へと直接プリント類を手渡しすることができていた。
「えっ?」
さすがにその人も、静かに目の中へと入り込んできたプリントたちには気づいてくれたみたいだった。
だがせっかく届けに来てあげたにも拘わらず、向けられたのは不審者を見るかのような目。このまま何も言わずに部屋を去るには僕の琴線に触れるものがあった。
「多分、同じクラスの地崎です。
担任の先生から頼まれたので届けに来ました。」
不審者扱いされたことに少し腹が立っていたため、自然と無愛想な言い方になった。
「あっありがとうございます……」
ただ意外にも最初に受けた印象とは違い、その人の反応は大人しめだった。
もしかすると、この人も人見知りだったのだろうか……?
僕とその人、まるで同じような人と相対しているかのようだ。
それと同時に、僕にはどうしても気になってしまうことがあった。でもそれをすぐに聞く勇気さえも僕にはない。
少し膠着状態になって、先に口を開いたのはその人だった。
「私は雫星っていいます。
先生から何か聞いて来てくれたんですか?」
なぜか僕とは違って下の名前を名乗った雫星。
「いや、何も」
「そうですか……」
僕が正直に答えると、どこか雫星はしょんぼりとしたような気がした。
それがどういう意味なのか。僕には理解ができず、また雫星との間に沈黙が出来てしまう。
けどこのまま部屋を出るのも何か違う気がしたので、僕はまた雫星から話し出すのを待っていた。
しばらくすると、この沈黙の間で色々と考えたのであろう雫星はさっきまでとは顔色を変えて話し出す。
「これも何かの縁かもしれないので、お礼に私の秘密を教えてあげます。」
やはり雫星も人見知りなのか少し恥ずかしげな笑顔でそう言いつつも、自分で言い出したことなのにどこか教えることを少し躊躇っているようにも見えた。
そして何となく、今から雫星が言おうとしていることは僕が聞きたくても聞けなかったことな気がした。だから僕は雫星の気が変わらないうちに聞き返す。
「教えるって……何を?」
僕の言葉にもう引き返せないと覚悟を決めたのか、笑顔はそのままに雫星は言った。
「私の余命はあと一年なんだって。それだけの話なんだけど……」
雫星は驚くほどあっさりとそう言った。
正直こういう話は初対面でも重く言うものだと思っていた。大体は想像していたはずの僕も、まさか余命宣告までされているとは思っていなかったくらいだ。
当人であるはずの雫星があまりにも大したことがなさそうに言うので、普段はあまり感情を表に出さない僕も思わず顔に出るほど驚いてしまった。
内海先生は敢えて号室を伝えたくらいなのだから知っていたのだろう。それでも僕を含めたクラス全員が雫星のことをただの不登校だと思っていたんだ。
「言ったのは僕が初めて?」
「同い年では初めてかな。
もちろん私の身の回りの人は全員が知ってることだけど。」
どうして今僕に打ち明けようと思ったのかは分からない。でもそれを聞いた僕も申し訳ないが悲しいとは一切思えはしなかった。
それはいつの日か街中ですれ違った人が、例え今日亡くなっていたことを知ったとしても僕が涙を一滴も流せないのと同じ理由だ。
けどそれは僕の立場だからであって、雫星は違うはず。
「死ぬこと……怖くないの?」
僕の立場なら誰もが疑問に思うことだ。それでも雫星の表情は変わらない。
「うん、もう怖くないよ。
地崎さんには分からない世界かもしれないけど、ずっと閉じこもってばっかりの生活で、早く終わればいいのにって思ってる」
どこか距離を感じる呼び方に動揺を隠せない僕。そして雫星は儚くもあっさりとした様子でそれ言った。
そんな雫星を見て、僕は一つ疑問に思うことがあった。
「ならどうして勉強なんかしていたの?」
それは雫星にとって唐突な質問だったのか、これまでには見せなかった核心を突かれたような顔になった。
だけどそれも一瞬の話で、すぐに雫星の表情は戻る。
「確かに、意味ないよね……。
昔から勉強は好きで、いつかまた学校に行けるようになるかなって勉強だけはしてきた。
けど退院したと思ったら、安静でいるためほとんど外には出られない暮らしで。
その後も病室と家を行ったり来たりの生活がただ繰り返されるだけ。
それでも諦めてこなかったのに、とうとう余命宣告までされちゃったから……」
明るくも、まるで全てが終わってしまったかのように話す雫星を僕はまた疑問に思った。
「別に学校なんていつでも来たらいいんじゃない?
雫星の席だって、まだ僕たちのクラスにはある訳だし……」
僕は自分でもらしくないことを言っている自覚があった。
普段の僕ならどうせ自分には関係ない話だと、右から左に聞き流してしまうだろう。
でも不思議な話で、雫星がそう言って欲しいと願っているような気もした。そしてそれを証明するかのように、明らかに雫星は少し嬉しそうな顔をしていた。
なのにどうしてなのか、また何事もなかったように雫星の顔は戻ってしまう。
「それだって意味ないよ。
地崎さんとは違って、私はもうすぐ死ぬんだし。今更何をしたって変わらないことだから……」
雫星は確かに嬉しそうな顔をした。なのにそんな雫星の気持ちを理解ができなかった。
雫星が死ぬ。一度聞けばそんなことは僕にだって分かる。
「でもまだ一年あるんでしょ?一年もあれば楽しいも辛いも作り出せる。
どうせなら、楽しい一年が最後の方が良いと思うんだけど。」
分かってはいても、初対面である雫星が近い未来で死を迎えるということを実感はしていなかったのかもしれない。
それならやりたいことをしてから後悔なく死ぬべきだと。実感できていたのは一年という期間だけで、雫星が言った“意味がない”その言葉の意味さえ深く理解はしていなかった。
今思えば余命宣告された人に対しての言い方としては失礼だったかもしれないが、幸いにも僕の言葉に雫星が傷ついているという感じはない。それどころか雫星は何か吹っ切れた様子で言う。
「なら地崎さんが案内してくれる?」
「えっ何で僕が?」
「私は人生でほぼ学校に行ったことがないから。もし迷子にでもなって帰れなくなったらきっと困るでしょ?」
そう言って雫星は何かを書き出した。
「はい、これ」
「何これ?」
「病院の番号。私携帯持ってないんだ。
それだけ言ってくれたんだもん。絶対に案内してよね」
どこか強引な気もしたが、内海先生の時同様僕は断ることが苦手だ。
急に一変した雫星の行動に、ついさっきまでは諦めていたくせにと僕は呆れつつも引き受けるしかなかった。そして呆れた序でに聞いてみる。
「ずっと気になってたんだけど、どうして僕のことを地崎さんって呼ぶの?」
雫星はどういう意味かと首を傾げながら僕を見る。
「僕は雫星って呼んで、雫星は僕のことをさん付けで。
なんか一方的に距離を感じるんだけど。」
これから案内して欲しいという割には、雫星の方から作られている距離感に嫌悪感を抱いていた。
だがそんな僕からの愚痴に、雫星は純粋に驚いているようだった。
「だって地崎さんが名前は地崎としか言わなかったから……」
確かにそう言われてしまえば、教えていなかった僕にも一部の責任はあるかもしれない。
ただ聞いてくれもせず、さん付けで呼び続けられるのもどこか僕の癪に触る。
「僕の名前は陽!だから」
雫星がちゃんと次回からそう呼んでくれるのかは分からない。
僕は多少の恥ずかしさとギクシャクしたような気持ちで言い残すだけして病室を出た。