Earth(5月30日〜6月2日)
高校二年生になってから二ヶ月が過ぎ、慌ただしかった僕たちの日常はまた無の日常へと戻りつつあった。
教室を見回すと、自分の机に腰を掛ける水間結月。その側に立っている火ノ川流和、そこから斜め前の他人の席に座る木根宙斗。
最近の僕にとって、これは見慣れた光景に過ぎない。
「やっと今日が終わったー」
鳴り響く放課後のチャイムと共に、結月はあくびをしながら背筋を伸ばしていた。
何ともゆったりと始まる放課後という日常。
下校の時間が来ようと、僕たちがすぐに帰宅することはない。
昔から僕は人が多いのが嫌いな性格だ。だから人混みの時間を避けるようにして、いつもしばらくは人が減っていく教室でのんびりと過ごしてから帰ることにしている。
今日だってそのうちの一日に過ぎない。下校時間のチャイムが響く中、僕は自分の席に座ったままただ時が過ぎるのを待っていた。
そして教室に残る生徒の数が半分ほどになってきた頃だった。
「ねぇあの席って誰の席?」
結月が自分の斜め前辺りにある席を指差しながら聞いた。
きっと結月は自分以外の三人へ向けて聞いていたのだろうけど、僕はその質問に答える気がなかった。その理由は簡単で、僕は単純にその席が誰なのかを知らなかったからだ。
そして三人の中で一番最初に口を開いたのは意外にも宙斗だった。
「あぁあの席は確か……」
僕たちは宙斗に視線を集中させる。だがしばらく待とうと、その続きは一向に出ては来ない。
宙斗の見切り発車な行動は日常茶飯事のことだ。
ただ本人だけは諦めという言葉を知らず、馬鹿っぽく口をぽかんと開いたまま動じることはなかった。
そんな宙斗の様子を見て、火ノ川はため息を吐き口を開く。
「一年の頃から一度も登校したことがないって噂になってる子の席でしょ?
さすがに私も名前までは知らないけど」
宙斗とは反対に物知りの火ノ川。勉強面で言えばクラスの中でも中の下くらいだが、僕たちの中では一番の物知りであることに違いはない。
きっと僕たちと連んでいなければ、クラスでも上位を狙える成績だったのではないかと未だに思うことがある。
「ってことは不登校か」
やっと馬鹿丸出しの口を閉じた宙斗。
「でもそれなら何でまだ席があるの?
出席日数的にも、もう退学になってもおかしくないんじゃない?」
ずっと傍観しているだけだった僕も、それには結月と同じことを思った。
「そうかもね。けど私もそこまでは分からないから」
火ノ川の言葉を最後に、この会話は何事もなく終わりそうな雰囲気だった。
気付けば教室に残っていたのは僕たちを含めた数人にまで減っていた。
そろそろ帰ろうと思い腰を上げようとした時、他にも僕たちの話を聞いていた人が一人いた。
「その席は、金垣雫星って子の席だ」
僕たちの担任である内海先生。こうやって話に入って来たのは、多分僕たちみたいな取り柄のない生徒が不登校のクラスメイトに興味を持ってくれたことが嬉しかったからだろう。
だからこそ僕たちは誰一人、この状況に驚くことはなかった。
「どうして一度も学校に来たことがないのに、その子の席が私たちのクラスにあるんですか?」
結月の質問は内海先生へと移る。
「確かに出席日数だけを見れば、そうも言いたくなるかもな。
けど他のところを見てみれば、この前のテストだってお前たちよりも遥かにその子の点数の方が上だった。
成績順で言えば、退学に近いのはお前たちの方だぞ」
内海先生の言葉に三人は分かりやすく落ち込んでいた。
「そんな、私たちの成績の方が低いって……」
結月はそう言うが、僕は当たり前だと思った。
僕たちの成績はいつだって下から数えたほうが早い。一夜漬けの僕たちに比べ、もしその不登校の子が少しでも勉強という時間に日々を費やしているのなら、僕たちは完全に負けてしまうだろう。
ただ僕たちにとっては初めて自分たちの成績と向き合うことになった瞬間だった。
少し離れて傍観しているだけだった僕はともかく、僕以外の三人は揃いも揃って青褪めた顔をしていた。
そんな日から二日ほどが経って、僕たちの元には数日前にクラス全員が受けた健康診断の結果が返されていた。
「ねぇ今日はどこ行く?」
それが昼過ぎだったということもあり、僕以外の三人は既に放課後モードに入っていた。
僕たち四人は揃いも揃って全員が帰宅部だ。なのでいつも学校が終われば僕たちの中では寄り道をして帰ることが日課になっている。
もちろん今日も、結月は僕が暇人だろうと当たり前のように聞いてくる。
ただ僕にだって一年のうちの数回くらいは寄り道ができない事情もある。
「ごめん、今日は行けそうにないや」
それは決して三人に対しての嫌悪感などという理由ではない。けどいつもなら二つ返事しかしたことがない僕が、初めて誘いを断った。
三人の視線は一気に僕へと集まり、その誰もが驚きの表情でしかなかった。
「どうして?」
何か勘違いをしているのか、結月は不安そうに僕に理由を聞いてくる。
このまま勘違いされていては困る。
僕は言いたくない気持ちをグッと堪え、健康診断の結果用紙を三人に見せながら一息吐いた後に言った。
「さっき返ってきた健康診断の結果、引っかかった」
普通の人ならあまり引っかかることはない学校内での健康診断。それに引っかかってしまった僕を見て、三人は何とも言えない表情を浮かべていた。
ただその中でも唯一ありがたかったのは、三人の理解が早かったこと。
「なら今日は病院に行くってことね」
火ノ川は僕を見てあっさりと言う。
「うん。先延ばしにしていても面倒なだけだから」
だからそれに続けて僕も気怠げにそう言えることができた。
放課後になると、三人は僕より先に帰る用意を済ませていた。
「それじゃあね」「じゃあな」
僕の理由に結月も宙斗も安心したような笑顔で手を振っていた。
「また明日」
僕もそんな三人に手を振り返し見送った後、急いで帰る用意を進める。
三人から少し後れを取り、用意を済ませた僕は教室を出ようとする。
ホームルームが終わっても尚、未だ教卓で作業をしていた内海先生とすれ違った時、僕は内海先生に話しかけられた。
「地崎、今日病院に行くんだろ?」
まるで見計らっていたかのようなタイミング。その上どこか少し笑顔で話しかけてきた担任を僕は不気味に思ってしまった。
「はい。まぁ……」
もしかしたら健康診断に引っかかった僕を小馬鹿にしているのかもしれない。
色々な先生への疑念が浮かぶ中、僕は素っ気ない返事をしてしまった。
けどそんな僕を見ても内海先生の表情が変わることはなかった。
「ならこれ。一緒に届けてくれないか?」
内海先生から渡されたのは、今日の授業で配布されたプリント類や手紙だった。
「何ですか?これ」
僕は受け取りはしたものの、その時点では全ての現状を掴めてはいなかった。
「ほら、この前話してただろ?そこの席の子」
内海先生はその席に視線を向ける。それでも僕にはすぐに理解ができなかった。
確かに話していたのは数日前のことだったかもしれない。
でも僕には全く興味のない、偶然同じクラスになっただけのただのクラスメイト。更にはその子が不登校ともなれば、興味を示す事柄が僕にとって何一つない。
それでもぼんやりと思い出してきた時、僕は全てを悟った。
つまりはその席の子にこれを届けてほしいということだろう。
だがまだ理解できないことがある。どうして僕なのか。
「僕は病院に行くんですよ?」
病院に行くというだけでも億劫なのに、これ以上面倒ごとを増やさないでほしいというのが正直な気持ちだった。
ただ先生からの僕への強い眼差しは変わらない。
「だから頼むんだ」
僕の頭上にはハテナの文字が浮かぶ。
「部屋は301号室な」
昔から断るのが苦手な上、担任に頼まれたんだ。
断るにも断れず、僕は半強制的に届けに行かざるを得なくなった。