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Mars(6月18日)

 電話から数時間が経った正午過ぎ、僕は雫星の病室の前にいた。

 だけど昨日の電話からどんなテンションで病室に入ればいいのかが分からず、扉の前で立ち止まったまま動けなくなってしまっていた。

 そしてその場で色々と思案した末、僕は雫星の真似をしてみようと考える。

「おはよう!」

 きっといつもの雫星なら、それを喜んでくれたはずだったから。

 けど今日の雫星は、僕からすればいつもの雫星とは違っていた。

「おはよう。」

 多分それは意図的というわけではない。だが今日の雫星は反対に、いつもの僕のようなテンションで迎え入れてくれていた。

 普段は自分がしていることなのにも関わらず、そのことを一人物寂しく思ってしまった僕は、そんな気持ちを表に出さないよう、お見舞いの品として持ってきた飲み物やお菓子を黙々と机に広げていく。

 それを一緒に雫星も手伝ってくれる中で、僕はここに足を運ぶのが二回目だったことに気づいた。

「何か最初の日のことを思い出すね。」

 どこか気まずく感じていたのは僕だけだったのかもしれない。それでもその気まずさは初対面の時の感覚と似ていた。

「そういえばあの時、どうして僕に余命の事を話そうと思ったの?」

 雫星はその質問に一瞬手を止めたようにも見えたが、またすぐに動き出した手と共に言う。

「分からない。でも今は後悔してる。」

「えっどうして?」

 意外な答えに次は僕の手が止まってしまう。

「もうすぐ死ぬ私のために陽が何かしたって、それは全部消えてなくなっちゃう事だから。」

 雫星は淡々と視点を机に向けながら、昨日の電話でも話していた内容を再度口に出していた。

 昨日の僕はその話に言葉を返すことが出来なかったが、もう一度止めていた手を動かし今日は言う。

「それが無意味って言いたいのなら、いつかはみんな死ぬわけであって、死ぬことによって全てが無に帰すわけでは無いと思うよ。」

「けど陽は違うでしょ?ちゃんとあの人たちからは必要とされていて、私はそうじゃない。」

 雫星の言うあの人たちとは、結月たち三人のことを意味しているのだろうか。

 昨日の短時間、更にはあんな揉め事にまで発展してしまった中で、三人のうち誰か一人の名前を知ることでさえも困難だったのであろうから仕方がない。

 そして雫星は言った。

「陽に初めて会った日、余命のことなんて言わなければ良かったって思ってる。」

 もし雫星があと残りわずかの命でなければ、その考え方も変わっていたのだろうか。

 けれどその事実さえなければ、こうして僕が話している今もなかったのではと一方的に考えてもしまう。

 でもだとするならと、僕は正直に打ち明けたくなった。

「こんなことを言っていいのかは分からないけど、今日まで僕は雫星が死ぬことを一度も実感したことはないよ。」

 実感したことはないだけで、それがきっかけで動いていたということは伝えられなかった。

 それでも一度切り出してしまった話を続けるように僕は言う。

「だからと言って別に嘘を吐いているなんて思ったこともないけれど、知識が無い僕には雫星の病のことは分からないし、詳しく聞こうとも思ってはいない。

ただこんな僕だから思ってしまうのは、雫星と一緒に過ごしている時間は当たり前にありそうな普通の時間に感じてしまうってこと。

それはこれからもずっと変わらずに、一年後の今でも続いていそうな気がしてしまう」

 そう打ち明けた時、雫星の表情からは驚きと動揺が感じ取れた。

「つまり私は、陽から見たら全然特別じゃないってこと……?」

「うん、ごめん。でもそうだね。」

「迷惑……じゃないの?」

 雫星はそれを恐る恐る聞いているようだった。

 確かにそういう迷惑なら、もう既に十分と言えるほど掛けられているのかもしれない。

 けどそれは決して雫星だけの話ではなく、他の三人だって皆同じことだ。

「生きている上で、誰かに迷惑を掛けずに器用に生きれる人なんていないと思う。

だから切り捨てられないことを否定して振り返るよりも、肯定して笑っている方が合理的なのかなって」

 そう言っている今の自分も、思い返せば内海先生の思う壺で、その流される結果に沿っていただけなのかもしれない。

 だけど最初に病院で言ったこと。それがいくら僕らしくなかった発言だったとしても、それはしっかりと僕の口から発していたもので、その一つ一つが今に繋がり、そこまでの全てを先生が読んで動いていたとは思えない。

 雫星から秘密という名の余命を打ち明けられなかった、もしくはあの日に僕が行かないという選択をした方が、雫星の言うようなもっと良い道を歩めていたのかもしれない。

 しかしそれとは違う道筋を歩んでしまった今の僕にはそんな人生を知る由もない上、そうなってしまえばそれはただの架空の話に過ぎなくなる。

 ただ仮に現実的な話だったとしても、自分の歩んできた道を後悔、将又誰かから否定されるのは真平御免だった。

 つまりある程度は今生の時も納得のできるような道筋には出来ている、それを世の人は運命というありきたりな呼称で例えるのかもしれない。だが本当に最初から決まっていたその導きがあったとして、それでも僕が今を楽しいと思えるのなら、そのきっかけは何だっていいと思えてしまうところもある。

 だけど雫星はこんな僕みたいな人間に人生で出会うことがなかったのか、初めてのことに色々と戸惑い考えているようにも見えた。

 その間に僕は椅子に腰を掛け、絶対に話さなけらばならなかった本題に入ることにする。

「昨日のことなんだけどさ……

結月のこと、勘違いしないで欲しいんだ。」

「勘違いって?」

「いや、結月が何であんな事を言ったのかは分からないけど。

だけど本当はもっと優しいっていうか、そんな事は絶対に言わない人であることは確かなんだ。」

「それには昨日の電話で話したように、そうさせてしまったことには申し訳ないって思ってる……」

「いや、そうじゃなくて……」

「うん、分かってる。

けど全然大丈夫だよ、私傷ついてないから。」

 そう言った雫星は、下を向きながらも小さな笑みを浮かべていた。

「それにね、嬉しくも思ったんだ……」

「嬉しい……?」

「陽は私の死が実感できないって言ってたけど、それは私もなんだ。

でもまたこれも陽と同じで、それが嘘じゃないってことも痛いほどに分かってる。」

 その言葉から始まり、雫星は表情を変えないままゆっくりと話し出す。

「私があと余命一年って告げられた時、両親も一緒にいたんだ。

その両親が人目を憚らずに泣いてたのを見て、これは受け入れなきゃいけないことなんだって分かった。

だけど想像する度、それはすごく怖いことで。

当たり前だけど、私はその死を一ミリも望んではいなかった。

それで考えてしまったの。私の死は私自身も望んではいないし、涙を流した両親も含めて誰も得をしないことなんだって。

誰もが嫌なことを、どうして私は辿っていかなきゃいけないんだろうって。

だから死んだらいいのにって言われた時、ちょっと安心したの。

誰かが自分の死を喜んでくれる。それが私の死ぬ意味になって、そのために私は死ねるような気がしたの。」

「それでも僕の知っている結月なら、そんなことは本心で望んでいるわけではないと思うよ。」

「そうだとしてもそれは分からないし、昨日のあの言葉は私の中では嬉しい言葉だったって信じてる。」

 これは雫星にしか分からない感情だと思った。

 結月には僕から知らせなきゃいけないことが山程ある。これは結月にとっては何も良くない結果でしかない。

 きっと僕が思うに、雫星は僕に初めて会った時からこの瞬間までずっと、抱え切れないほどの死という恐怖に満ちていたんだ。

 あまり自分の意見をはっきりと言わない雫星が、秘密と言いながら僕に余命を打ち明けた理由。雫星は分からないと言っていたが、死という恐怖と闘う雫星にとって、自分の存在を多くの人が知らないうちに無かったかのように消されていくのを無意識のうちに避けたかったのではないかと思う。

 それは僕という世の中から見れば、地味で存在感の薄いたった一人の存在にでさえも、お礼の代わりと言って打ち明けたくなるほどに。

 それが結果的に良かったのか悪かったのかは分からないが、その秘密のおかげで僕たちは一日だけの仲という関係ではなくなった。

 もし雫星に死という課せられたものがなければ、僕たちはもっと違う形で出会い、出会うこともなかっただろう。

 でも僕たちはこの形でしか出会えなかった。そして今日までにあった事実は変わらない。それから今の僕には固く決意しているものがある。

 それなら僕は、雫星からもう一度だけチャンスが欲しかった。

「もし結月が心を開いた時、それを受け入れてくれる……?」

 その質問に、雫星は少し笑顔を大きくしながら言った。

「もちろん」

 僕からすれば、これは今日の質問の中で最も大切な内容だった。

 それを昨日の声だけという偽りではなく、完全にいつもの雫星に思える姿で答えてくれた。

 どれだけ雫星の気持ちが分からなくても、雫星が心優しく、結月もそれに準ずる人だということは明白であり、そんな雫星は結月とも分かり合える存在になれると信じている。

 だから僕は雫星の最後のその言葉で、ちゃんと結月たちに話さなければいけないと向き合う覚悟を決められた。

 ただ向き合えたとして、その先でいつかは雫星の余命というものを実感する日が来るのだろうか。

 その死をちゃんと悲しみ、涙する日は来るのだろうか。

 それでもその未来を知りたいと思った。

 いずれは僕たちにも来るべき未来であり、その真実というものをただ知りたいと思ってしまった。

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