魔王とネズミと少女
全てを土砂降りの雨が覆い尽くしていた。
まるで冬に逆戻りしたような寒い日だった。
天涯孤独の身となった吾輩は、獲物を捕らえようと必死に狩りをした。
しかし成果はなし。堪らぬ寒さと空腹に苛まれていた。
『あれは?』
少し離れた倉庫の陰、一匹のネズミがチョロチョロと動いた。
しめた! 雨の降りしきる中庭を飛び出した。
雨は容赦なく身体を打ち付けるが、今は気になどしてられない。なんとしても食料を獲るのが先決だから。
ネズミの方もそれに気付いたらしく、裏山に向かって逃げ出す。
こうして雨中の追走劇が始まったのだ。
敵は丸々と太ってかなり美味しそうだ。倉庫に蓄えてある穀物でも食べていたのだろう。
ここは是が非でも討伐したいところ。
しかし現実は厳しいものだ。
所詮こちらは空腹の身。そもそも魔王の頃はネズミなど追いかけたこともなかった。
体力に限界を感じ、獲物との差が広がっていく。
……こんなことなら、ちゃんと母君から狩りの仕方を教わっておくべきだった。
既にネズミの姿は、雨で白ばむ光景に消えておったのだ。
ザーザーと雨は降り続く。
空腹の上に体力も限界。吾輩自慢の黒い毛艶も、雨でグシャグシャ。
こんな虚しさを感じるなら、ネズミなど追いかけねばよかった。
惨めだ、実に惨めだ。魔王と崇められ、恐れられていた吾輩が、こんな思いをするとは。
……せめて母君や兄弟達が健在であったなら……
仕方ない、ねぐらに戻って寝るとしようか。
そう思って、項垂れたまま歩き続けた。
「にゃんこちゃん!」
不意に黄色い声が耳に響いた。
中庭の中央で黄色い傘をかざした少女がしゃがみこんでいた。
『貴様は』
流石にたじろいだ、迂闊にも相手の間合いに、足を踏み入れてしまったらしい。
流石にこうして顔を見合わせると大きい、まるで巨人兵を見ている感覚に陥る。
「フギャ!」
しかも不覚にも、首筋を掴み取られてしまった。
「にゃんこちゃん、めんこい」
顔を近付けて、不敵な笑みを見せる少女。
……なにを考えているか想像もつかない、不気味な笑みだ。
『人間なんて悪魔みたいな存在だよ』母君の台詞が頭を過る。
寒さと空腹、去来する絶望で、ガクガクと震えた。
「にゃんこちゃん、お腹空いてんだばい」
しかし突然、少女が吾輩を解放した。
なにを思ったのか、邸宅内に戻って行った。
……吾輩は助かったのか? あの少女はなにがしたかったのだ?
そう思うが、全ては虚しいだけ。人間の毒牙にはかからなかったが、いずれ空腹で野垂れ死ぬのが、運命なのだから。
突然吾輩の顔に、なにかがぶつかった。
「にゃんこちゃん、エサだばい」
それは少女の仕業だった。
ぶつけたのはひと欠けのパン。しかも食べ掛けとは、無礼にも程がある。
……しかし芳しい香り、パンなど久々だ。
吾輩いつの間にかそれをガツガツと食しておった。
その様子を少女はしゃがみこんで見つめておる。
つくづく無礼な奴だ。吾輩の食事風景を覗き込むとは……
「愛実、どごさいんだい? 食事だよ」
邸宅から声が響いた。それは吾輩の天敵である老婆の声。
それで我に帰った。
空腹で現実逃避したようだ。この少女、少なくともあの老婆の血族。毒でも盛られているのでは?
「にゃんこちゃんは隠れてんだよ」
しかしそれは取り越し苦労だったようだ。
少女は嬉しそうに言い放ち、邸内に姿を消して行った。
どうして少女が、このような行為をしたのかは判らない。
だけど少しだけ元気が出たのは事実。ほんの僅かだが、生きる勇気が湧いていたのだ__