魔王と生母
その日は空から白いものが舞い降りていた。
雪だ、大粒の雪が降っていたのだ。
『吾輩お腹が空いたのだ』
吾輩母君の懐に潜り込んで、乳房をまさぐる。
『偉そうなことばかり言うけど、まだまだ子供だね』
うんざりそうに吐き捨てる母君。
それでもまんざらではない表情だ。吾輩を子供と感じて、愛情をもって接している。
最近、その乳の出は少なかった。
この凍てつくような真冬の寒さだ、捕らえる獲物の量は、皆無と言って等しい。
吾輩が生まれた当初より、その体力は減少しているようだ。肉付きも悪いし毛艶もよくない。
『母君は空腹なのか?』
『大丈夫さ。あたしはノラだよ、生まれてからずっとノラネコ。こんなの普通さ』
母君は言って吾輩を毛繕いする。
勿論やせ我慢だろう、吾輩を心配させまいとする優しさが含まれている。
邸宅からは、いい匂いが漂ってくる。窓からうっすらと漏れる明かり、響く少女の笑い声。
それが楽しそうな団欒のひとコマを連想させる。
あの老婆は恐ろしいが、一緒にいた少女は優しいように思えた。
数日前、あの老婆に追い掛けられたのだが、少女が『ばーちゃん、ダメだばい』と止めてくれたからだ。
それにたまに『ほれ、食わっし』と食べ物を渡されたこともある。勿論吾輩、そんな御慈悲を受ける筈もなかったが、あの時の食べ物は実に美味そうであった。
『なぁ、母君。あの人間に命令して、食料を持ってこさせましょうか?』
そう感じて吾輩は言った。
『なにを言ってるの、この子は!』
思いもしない怒号が響いた。
『人間なんてあてにならない。あたしら他の生き物は、人間のせいで苦労してるんだから。人間ってのは悪魔みたいな存在なんだよ』
普段の母君とは違った切実な表情だ。
生まれてからずっと、煮え湯を飲まされてきたのだろう。散々虐げられて、多くの子供達を奪われてきたのだろう。
……悪魔みたい、というのは流石に戸惑うが……
『とにかくもう少しの我慢だよ。春になれば暖かくなる。暖かくなれば、カエルなんかの小動物も動き出す。それに桜も咲くからね』
『……桜? それは美味なのですか?』
『桜は食べられないよ。だけど優しいのさ、全てが薄紅色に染まって、心まで鮮やか。あれを見れば、どうしてあたし達が、寒い季節を生き抜いたのか、その意味が分かるのさ。全ては春の訪れを味わう為なんだよ。桜は命の縮図なのさ』
『それは興味深い話でありますな。桜か、魔界にはそのようなものはなかったな』
『まだそんなこと言って』
『母君には信じて貰えぬだろうが、吾輩は魔王なのだ』
『馬鹿だね、 あんたはネコなんだよ。正真正銘あたしの子供さ』
こうして吾輩は、母君の懐で眠りについたのだ。
いつの間にか雪はやんでいた。
代わって天空を支配するのは雄大な満月だった。それはそれは、えもいえぬ美しいお月様。月明かりは辺りを幽玄に照らして、全てをキラキラと輝かせる。
人間の恐ろしさはともかく、この人間界の素晴らしさだけは実感していた。
……翌朝吾輩が目にしたのは、凍り付いて冷たくなった母君の姿だった……
吾輩は魔王である。全ての邪悪の、頂点に君臨する存在。
母親などというのは、今生に吾輩が生まれる為の、その為だけの存在にしか過ぎない。
吾輩が生まれれば、その意味を成さぬも同然。所詮この世に生を受けた全ては、一個の生命体に過ぎないのだから。
だけど、心にぽっかりと穴が明いたようだった。
支配とか暗黒世界とか、戦争とか呪文とか、その全てがどうだっていいように思えた。
そんな吾輩の思いも知らず、太陽だけが眩しかった。ポカポカとした陽気が、昨日の寒さまで忘れさせてくれる。
『神の大馬鹿野郎!』
吾輩全ての感情を洗いざらいぶちまけた。
多分人間が訊けば「ニャーー!」としか聞こえないだろう。
それでも良かった。
吾輩全ての世界に、思いの丈をぶちまけたのだから__