魔王と自動車
それでも時は過ぎていく。
どんなに困難な道のりだろうと、立ち止まる訳にはいかない。前に進むだけが、足を動かすことだけが、悲しみを乗り越える術だから。
それがこの狂った世界を、生きるということだから。
我らの領土は拡大していった。
歩き方を覚え、走り方を覚え、狙うことを覚え、狩ることを覚えていった。
喜ばしいことに、その頃には次兄も片言の会話が出来るようになっていた。
『あにうえ……』
『ついてくるのだ、我が弟よ』
吾輩、魔界で魔王をしていた頃は、兄弟などはおらなかった、云わば一人っ子。
あの頃はそれで良いと思っていた、兄弟など存在すれば、家督を巡っての争いに発展する故にな。
現に修羅界では、その手の泥沼の争いが、日常茶飯事に繰り広げられていれ。
だがこうして一緒にいると、弟というのもよいものだ。吾輩を慕って、見よう見まねで付いてくる。
だから決めた、この弟を我が弟子にしてやろうと。
領土を拡大すると、この世界の有り様も分かるようになってくる。
この近辺に邸宅はさほどなかった。寒村と化した集落、いわゆるド田舎というやつだ。
山々や田園風景だけが広がり、長閑だけが取り柄の場所。
それでも驚いたのは、道路という自動車の道があることだ。
『この道路ってのはね、あの山の先まで続いているんだよ。先も見えない果てしない道。その先になにがあるかなんて、あたしらは知らない。だけど自動車が走って危険だから、渡る時には注意するんだよ』
母君が言った。
確かにおぞましい光景だ。様々な種類の自動車が、地響きを発ててバンバン走っている。
その音がうるさくてやけに耳障りだ。
『なんという騒音でしょう。しかもこの鼻をつく異臭』
『慣れればどうってことないさ』
それより堪らないのが、その吐き出す臭気だ。
母君はさほど気にしない様子だが、吾輩には臭くて堪らぬ。
おそらくだが、あれは毒であろう。未熟な者が魔法を詠唱すると、その副産物として僅かながらの毒を生成する。
母君はその事実を理解しないだけだ。
哀れなのは人間だ。
これでは我らが制裁を加えなくても、自ら滅んでしまうであろう。少しずつ身体が蝕れて、苦しみの中に絶命するであろう。
『やはり人間というのは、愚かな生き物ですな。こんな自らの首を絞めるような、危険な行為をするとは』
『……だから、危険なのはあたしらなの』
『……?』
一方の次兄はキョトンとした様子で、その会話を訊いている。なにを言われているのか、さっぱり要領を得ない。流石は小動物といった有り様だ。
『とにかくここを渡った先に、絶好の狩場があるから、あんたらはあたしから離れないで、注意して素早く付いてくるんだよ』
母君の表情が引き締まる。
その視線が捉えるのは、道路を挟んで反対側の田園地帯。
少し前まで吾輩達は、母君に首筋をくわえられて移動していた。
しかしここまで身体が大きくなった今は、それも不可能。自力で移動するしか術はない。
吾輩、細心の注意と共に道路を横断し始めたのだ。
母君の的確な判断のおかげで、今のところ自動車の姿は見えない。
それでもドクンドクンと鼓動が高鳴る。毒の臭いで鼻がもげそうだ。
反対側に渡りきると同時に、後方を一台の自動車が、凄まじい勢いで走り去って行った。
正直冷や汗ものだ、あんな乗り物にぶつかって死んでは、魔界の魔王としての沽券にかかわる。
『ちょっとあんた、そんな所でなにをしてるの!』
突然母君が叫んだ。
それに呼応して吾輩後方を振り返る。そして愕然となった。
『……ははぎみ、あにうえ……』
なんと次兄が道路の真ん中で立ち往生している。
びくびくと落ち着かない様子だ。置かれた状況が分からず、テンパってしまったのだ。