魔王と大地の聖霊
麗らかな日だった。
遠くの山から、鳥のさえずりが響いている。木々の蕾が膨らみ、命が芽生える匂いを感じていた。
それを見ていると、ふと思う。母君が言っていた桜というのは、いつ頃咲くのだろうと。
吾輩立派なネコとして育っていた。
狩りも出来るし、自動車の避け方も学んだ。
あのしつこい老婆をも簡単にかわすようになっていた。
こうなれば次は魔法の練習だ。この肉球も少しだけ操れるようになったし。
……あの少女には悪いが、吾輩は人間に怨みを持っているのだ。
魔王として暗黒世界を創り出し、必ずこの世界を統一してやる。
「捕めだぞ、このネコっ子!」
老婆の声が響いた。
「フギャ!」
なんと吾輩捕まってしまった。あろうことか獣を捕らえるような網で、罠にかかったのだ。
『まさか、道具を使うとは!』
必死に暴れるが、その度に網が手足に絡み付く。完全に逃げる手立てをなくしていた。
脳裏に浮かぶのは、死の文字だ。コップに頭を突っ込まれて、水をかけられて死んでしまうのだ。
折角ここまで生きてきたのに、もうすぐ暖かい春が訪れるというのに……
「最後まで"ゴセやげる"ネコだね。そんな爪たでで」
眼前では老婆が、眼をギョロギョロさせて笑っている 。
こうなれば吾輩が出来る術はただひとつ。
魔法を詠唱して、このピンチを切り抜けることのみだ。
『この世の聖霊王よ! 願わくば我が願いを訊きたまえ。我が力となり、目の前の全てを蹴散らすのだ!』
口元を大きく開いて、左右の掌に願いを籠めて詠唱したのだ。
……実際には「フギャー!」としか言えていないが、とにかく詠唱したのだ。
「さぁ、成仏しな」
老婆のしわくちゃな手が吾輩に伸びる。
そしてピタリと止まった。
「……地震?」
おもむろに辺りを見回す。
地面がカタカタと揺れだしていた。
「やっぱ地震だよ、でっかいよ!」
その表情が恐怖に歪む。
やはり人間など愚かな存在だ。これは地震などという代物ではない。
吾輩が唱えた詠唱の結果である。吾輩の魔法が成功したのだ。
大地を司る聖霊は"ノーム"。彼奴が、我が声に反応した結果である。
その威力は想像を越えたものであった。最初カタカタと小刻みであったそれは、いつしか巨大なものとなり、地面を大きく揺らしだす。
「愛実!」
それには老婆も、まともに立っていられぬ状況だ。
網を放し、恐怖に尻もちを突き、地面を這いずるように逃げ出す。
『愚か者め、吾輩を怒らすからそうなるのだ』
我輩は鼻高々だった。
なんという威力。ネコの身に生まれ堕ちても、ここまでの魔法を唱えられるとは、流石は魔王といった具合か。
この威力を持ってすれば、神々との戦も有利に進められるであろう。
奴等の青ざめる顔が眼に浮かぶわ。
しかし想像を越えた威力。心なしか、先程より威力も増しているようだ。
ネコとして、これ程の魔法を使えるのは頼もしいが、ネコに堕ちた我が身からすれば、少しばかり恐怖を感じる。
このままでは吾輩とて、ただでは済まぬだろう。
『大地を司る聖霊王ノームよ、我は満足した。契約を打ち切り、速やかに立ち去るがよい』
感謝するがいい人間よ。あの少女の為に、これぐらいで勘弁してやろう。
こうして吾輩は、網から脱出を図る。死の恐怖から逃れたのだ。