電子世界の歌姫 番外編1 仁科笑の事件簿
グレーを基調にした、何も置かれていない2DKのマンションの一室。洗面台の鏡と向かい合った少女が一人。
平均をわずかに下回る程度の身長と、ウェーブをかけた亜麻色のセミロングの髪。その下の顔がどこか子供っぽいのは、化粧をしていないからだろう。
童顔を助長する大きなたれ目を真剣に向けさせるのは、鏡の中の自分の胸元。今時珍しいディスプレイに表示された立体映像ではなく、本物のフレアスカートのダークスーツ。それを纏った胸元は、女性的なふくらみのまま生地が張り不自然に襟が乱れている。
『よくお似合いですよ』
クラシックのピアノ曲を流し続ける部屋中に置かれたスピーカーのひとつから、当然少女とは別の中性的な声が発せられた。
「ええ。知っています」
当然と答え、少女は悩んだ末にスーツの前を開けて、コートを掴んで回れ右をする。
『ご出発ですね。車を待機させておきます』
「お願いします」
部屋中のスピーカーが一斉に息を止め、少女より後ろの明かりが後を追うように消えていく。玄関の前まで来ると、コートを羽織るとこれまた珍しいビジネスバックを手に取った。
『笑さま。御髪が』
「わかっています」
スピーカーの声に言われるまで完全に失念していたであろう、自分の髪の毛をコートの襟から引き出した。
ドアノブに手をかけ、回して開けた。誰も通らないコンクリート打ちっ放しの廊下は殺風景で、まるで監獄のようだった。
「ジュ・トゥ・ヴ。幻想を起動してください」
その殺風景を一度、目を細めて睨んだ少女は襟元に付けたマイクに向かって独り言をつぶやく。
『かしこまりました、我が主人さま』
イヤホンから聴こえた、彼女専用の人工知能、ジュ・トゥ・ヴが指示通り彼女の脳内にある人工頭脳を覚醒させた。
十秒間ほど、頭の中を雷が駆け巡るような衝撃とわずかな痛みが駆け抜け、そして彼女の見ていた世界が一挙に変化した。
殺風景だったコンクリート打ちっ放しの廊下が、瞬く間にヨーロッパの宮殿の廊下のように華やかになっていた。薄暗かったはずがしっかり影少なく照らし出されている。
彼女の視界にいくつも通知画面が表示される。宙に浮いたA4サイズのそれは、彼女自身の現在の健康状態を通知するものから、夜中の内に来ていたメールの着信履歴、今朝のニュースなど、あらゆる情報が乱雑に積み重なる。それを横から伸びてきた仮想現実の腕が払って退ける。
「おはようございます、笑さま」
先ほどからスピーカーからしか聞こえていなかった、彼女専属のサイバーエージェントであるジュ・トゥ・ヴの声が直接耳から聞こえる。
ナナフシを連想させる細長い四肢が冗談のように白い三つ揃えを着込んだ姿、ジョルジュ・メリエスの月面を象った仮面をつけた人物。それが彼女のエージェントの仮想現実の中での形だ。
「おはようございます」
少女はそんな自分の秘書に目もくれず、カバンから鍵を取り出して、自宅にしっかりと施錠する。
ジュ・トゥ・ヴは右目に突き刺さった砲弾をスポンと抜きとり、それを巻物のように伸ばして中をしげしげと確認する。
「全室施錠確認。あと五秒で現在フロアにエレベーターが到着いたします」
「わかりました」
踵を返して廊下を歩く。人工頭脳が見せる幻想が、真っ赤な毛足の長い絨毯を踏みしめる。現実には存在しないはずのそれを、足の裏は柔らかいものを踏んだと認識する。
彼女が到着する少し前に来ていたエレベーターが、ドアを開けて待機している。それに乗り込む。本来なら存在しない停止階の指示ボタンをジュ・トゥ・ヴがマジックで書き込み一階を押すふりをする。
「いちいち、小芝居を打たなくてもいいでしょう」
歪んだボタンの絵を、ハンカチで拭って消す自分の人工知能をため息と共に見つめる。
もちろんその落書きも、今見えているジュ・トゥ・ヴの姿も、彼女が今乗るロココ調のエレベーターの箱の内装も、すべては彼女の脳内にある人工頭脳【BCC】の見せる幻想にすぎない。それでも彼女のエージェントは仮面の笑みを崩さず、肩を揺らして笑う。
「人生とは、小さな悲劇と、大きな喜劇の積み重なりである。byわたくし」
ぱんと音を立ててハンカチをたたみ、胸ポケットに押し込むエージェントに、彼女は逆に肩をすくめて嘆息した。
「AIに人生を語られるとは。ついに人類は滅びの時が来たようですね」
「嘆きは幸福から目をそらさせてしまいますよ?」
「ええ。知っています」
チンと音を立てて加速度をなくしたエレベーターはドアを開けた。
絢爛豪華なエントランスホールを抜け出て、マンションの外へ。
春の肌寒さがまだ厳しい。コートの襟を寄せ、マンションの前に止められた完全自動運転のタクシーに少し急いで乗り込む。
存在しない運転席に乗り込んだエージェントが、白い手袋をキュッと引き締め、ハンドルを握る。このハンドルも存在しないが、彼女のエージェントが書き上げた落書きだ。
「いよいよですね。笑さま」
「なぜあなたが緊張しているのですか?」
体をポリゴン映像に変形させたジュ・トゥ・ヴ。それは緊張などを示すモーションだ。
「主人さまの初出勤ですよ? 緊張しないはずがありません。まるで手塩にかけた娘が、初めて婿さまのご実家にご訪問するかのような気持ちです」
車両とハンドルの動きがちぐはぐになっているが、本人は気にする素振りがない。
そんな事をペラペラとしゃべる自分のエージェントに肩をすくめて、流れる車窓を眺めた。
20世紀からは想像もできないほど整頓され清潔感を増した街並みは、そこかしこに空中に電光掲示板型の立体映像を浮かべ、新商品や新しい映画の広告を表示させている。それらもすべて人工頭脳【BCC】の見せる幻想だ。
人類は約二十年前から、脳内に人工頭脳、バイオコンピュータを埋め込み始めた。今や日本人のほぼ全てがそうしている。
それによって日本人は飛躍的に未来的な生活を手に入れた。その実先ほど彼女が見たコンクリート打ちっ放しの世界を隠している。
ほぼ全ての日本人は、現実を見る事はできない。脳内にある人工頭脳の電源は切ることができないため、一度見始めた幻想を止める手段はない。
この国は何もかもを、この幻想を生み出す脳内のコンピュータに一任させていた。
「そろそろ到着しますよ」
ジュ・トゥ・ヴの声で、物思いから抜けた彼女はゆっくりと止まった車から降りた。
目前には高層ビル。しかし上から半分は壁面に空を映し出し、実際の威圧的な建物を隠している。入り口には国家公安委員会の文字が投影されていた。
今日からここで彼女は働くことになっている。
「時間通りです。目的地は三十八階です」
ジュ・トゥ・ヴの確認を聞き流しながら、彼女は建物に入った。これと同時にジュ・トゥ・ヴは姿を消す。庁舎の内部では個人的な立体映像の投影が禁止されているのだ。
個人認証装置のついた自動ドアをくぐり、出庁するスーツ姿の群れの中に紛れ込んだ。しかしその中で彼女は若すぎる。悪目立ちするわけではないが、人目を引くのは間違いない。
奥のエレベーターに乗り込み、自動的に目的の階まで運ばれていく。十二、三人は乗れるエレベーターに、今は五人だけが乗っていた。乗員は随時降りていき、最後に少女だけが残り、建物の半分より上の階である三十八階で降りた。
その階だけは他の階層と違い、仮想現実が表示されていなかった。
打ちっ放しのコンクリートと、何の飾り気のない廊下。申し訳程度のLED電灯が青白く照らしている。
『さすが、特別部署ですね』
骨伝導スピーカーから押し殺した声が聞こえた。それを無視してこつこつ音を立てて廊下の奥へと進む。コートを脱いでカバンを持つ腕にかける。聞き手はフリーにさせておく。
いくつかドアが並んでいる廊下。何もないという表現がぴったり結びつく。
その中のひとつのドアが、受信通信で赤く光って見せた。中の人物から名指して呼び出されているようだ。
ため息をひとつ吐いて、ドアの前に立つ。
このドアは個人認証によって開く。つまりは自動ドアなのだが、ノブがないため手動では開かない。
ドアの前に立ちおよそ三秒経ち、リニアレール式の横スライドドアは音を立てず無音で開いた。
「失礼します」
一礼して部屋に入る。その途端に彼女の脳内にある人工頭脳が通信障害を報告する。当然外部との接続を絶たれているようだ。
「仁科 笑、本日から、国家公安委員会、バーチャルネットワーク規制委員会特別捜査室へ配属となりました」
そこではたと公安という組織では敬礼だろうか、それともお辞儀だろうかと疑問が脳裏によぎった。調べたくともこの部屋は原則オフラインであるから、それもできない。
「ご苦労。席はそこで、やってもらう事は用意してある。勝手にさっさとやってくれ」
突然の声は、部屋の半ばほどから。室内には大きな長方形の机がひとつあり、向かい合って八つの座席があり、アナログコンピュータが二つずつ机に置かれていた。その中の奥から二つ目の席に男がひとり座っている。それ以外に人らしい気配はない。
短く刈り込んだ白髪交じりの黒。苦労皺の刻まれた目元口元。なぜかホロディスプレイで投影されているはずのダークスーツまでくたびれて見える、衰退的な雰囲気の男だ。
ポインタの点灯している一番出入り口に近い机に視線を向けると、紙の書類が山のように積まれている。それとパンプスが入りそうな紙袋がひとつ置かれていた。
上着をかけておくハンガーなんてものがこの時代にあるはずもなく、椅子の背もたれにかけて座る。手始めに紙袋を開けた。
中には身分証明書と手錠、拳銃一梃と満装填された弾倉が二つ。肩に吊るためのホルスターなどが入っていた。いくら公安と云えども、拳銃の常時携帯は行われないし、許されていない。しかしそもそも今年で16歳となる彼女の入局自体が特例中の特例だ。
「上からの指示で、本来なら使わない物、不要な物も入っている。他の局員には機密で所持するように」
男の説明を聞き流しながら、彼女、仁科 笑は公安委員会のデータベースにハッキングをしかけ、今話している男の正体を割り出した。
「分かりました、佐武室長」
名前を呼ばれて、初めて気だるげな顔を驚かせて、仁科を睨んだ。
「むやみにデータベースにハッキングするな」
「なら私に隠し事をしない事ですね」
苦虫を噛み潰した顔で、彼女の直属の上司になった男、佐武は手を忙しなく動かした。今仁科がハッキングをしかけたルート割り出して、進入対策を始める。もちろん完全オフラインのはずの部屋のどこに穴をあけて通信していたのかも調べている。
仁科はそんな上司の努力なんて気にもせず、自分のデスクの前に座り状況の把握を始めた。まず山積みになった紙束から手をつける。
入局初日であるため、特に手につける物はないだろうと想定していた仁科だったが、それは大きく外れた。
膨大な紙束は、ほとんどが申請や報告書で、その内容確認をしろという事だ。
まず紙束の内容を、パラパラとめくり中身を見る。内容に間違いがないかを人工頭脳《BCC》に入れておいたアプリケーションで自動確認。訂正がある場合はマーキングを打ち、さらに別のアプリケーションで自動的に修正する。実質的には仁科はパラパラマンガのように書類をめくっただけで、すべての作業が終わる。
二分後、修正を加え新たに担当者の二次元バーコード捺印がなされた正式書類が印刷機から吐き出される。
378枚の書類の角を揃え、それを投げるように佐武の机に置いた。
「間違えているはずがないですが、確認して提出してください」
席に戻り、今度はアナログなコンピュータを立ち上げた。
「クソですか」
スペックの低さに思わずつぶやいて、バックアップを作り中身を完全に消し去った。それからOSをバックアップした物をベースに即興で作り直し、上層管理者専用のバックドアはワザと残し、全く別の欺瞞情報を見せるように罠を仕掛けておく。
それを十五分で終わらせ、バックアップデータの精密解析を始める。
事案は全くない。必要な物は外部に保存していたのだろう。このコンピュータはただの使い古されただけの骨董品だと決定し、それを使いアクセス権のあるデータベースから事案を引っ張り出す。
国家公安委員会の下部組織である規制委員会の主な業務は、脳内に埋め込まれたバイオコンピュータであるBCCを使った超高速情報通信の監視と高度電子犯罪の捜査および容疑者の逮捕。本来であれば警察の電子犯罪対策課が対応するものでもあるのだが、初動捜査が事件の前になる場合があるため、公安局に対策部署が設置されている。直上層組織である内閣府ですら、その捜査内容は開示されておらず、国内最高峰の機密保護がなされているのは、BCCというわずかにでも踏み込み過ぎると究極的な個人のプライバシーを暴露してしまう危険がある代物であるが故だ。
ここに集まる案件は全てが他機関に開示する事が許されない物ばかり。
やろうと思えば、国民の一割を逮捕できる。そう確信する内容だった。
それを見て仁科はなるほど、これで佐武は何もしていないのかと合点が行った。
しかしそれでは仁科が入局した意味がない。
仁科はアナログコンピュータに新たに搭載したアプリケーションを使って、整理された案件から悪意性の強い物をリストアップしていく。
悪意のあるクラッカーというのは、現実世界と電子世界が近付くほどに増えていく。スマートフォンや通信機能付き携帯ゲーム機の登場によって、一時期電子世界においては著作権や個人情報などといった守られるべきものが消滅した。それを法で取り締まり、専門の治安組織の編成などによりある程度は回復してきた。それでも未だに電子世界において、その点はないがしろにされる事が多い。
そこから凶悪事件につながると知っていながら、人は安易は快楽と、遊惰な滅びを選ぶ。
仁科はリストアップされた事案を眺め、何か手頃な物はないかと目を細めて思案を始めた。
『主さま。こちらなんて如何でしょうか?』
突然画面の隅から右目に砲弾を突き刺した月面顔に、わずかに驚きながら、エージェントの指す事案を見た。
「伍菱東京銀行不明出金事件、ですか……」
『ハぁイっ! 中々オススメの案件ですよ! 今ならなんと電子世界強盗【フリーダムエゴイズム】の検挙もセットで付いてきます!』
はぁとため息をついて、何を狙っているのか察しが付いた。
「いいでしょう」
最初の手柄としては悪くはない。そう納得した仁科はすでに集められている情報を再編集し、解析を進めた。
事の始まりは今年の初め、伍菱東京銀行の藤岡康太という口座から、電子キャッシュで五億円下された。もちろんその人物の口座にそんな大金はない。かといって銀行にもそんな大金が盗まれた痕跡がない。それでも実際に五億もの金が忽然と現れ、消えた。
銀行のホストコンピュータへのクラッキングが疑われた。まずこの金がどこから現れたものなのか。そして藤岡と犯人の関連性。何度も行われた調査の結果、こう着状態で今日に至る。
調査報告書を読み終えた仁科はハァとため息を吐いて、頭を抱えた。
「日本の公安は、こんな簡単な問題も解決できないのですか?」
アナログコンピュータの電源を落として、仁科はジャケットを脱いで紙袋の中身を身につけた。前は二秒ほど考えて閉じた。胸の苦しさが三割増しになる。
「調査に行ってきます」
いくつかの書類をファイルに挟んでカバンに入れると、席を立って背もたれにかけたコートとカバンを手に外へ出て行った。
「天才さまは、なーにを考えているんだ?」
部屋に残った佐武は呆然と閉じたドアを眺めた。
建物の外へ出た仁科は、すぐにジュ・ドゥ・ヴにタクシーを捕まえさせ、伍菱東京銀行の本店へ向かわせた。
「さっそく事件解決ですね」
楽しそうに笑う自分のエージェントは無視して、情報の再確認とできる範囲での調査を始める。
走り始めて数分で目的の建物には到着した。九割の車がデータリンクを伴う自動運転車となってから、自然渋滞という現象は消滅した。無人タクシーは速やかに最短距離で目的地のすぐ近くまで人員を輸送する手段として、鉄道に匹敵する地位を築いていた。
動きづらい事この上ないスーツに苛立ちながらも、建物に入る。
さすがの大企業の銀行であり、大きなエントランスホールは清潔感がある。床もロボット掃除機だけでなく、人間の手でしっかりと清められているようだ。さらに今時珍しい人間の受付がいた。
仁科が近づくと、二人いた受付嬢が起立して出迎える。
定型文の挨拶を交わし、担当者を呼び出す。
「ご用意はできております。ご案内いたします」
立体映像で案内が表示される。軽く礼を言ってその通りに建物の奥へ進んでいく。
七階のオフィスまで案内は続く。清潔感を重視したそれまでの階とは大きく変わり、この階層は明らかに来賓を目的としてデザインされているようだ。白亜の壁には金の燭台にトルコ絨毯が敷き詰められた床。たとえ幻想だとしても、見事な装飾だ。
案内のマーカはひとつのドアを示している。
その前に来ると、自動的に開いた。
「またこのパターンですね」
かすかに肩をすくめてドアをくぐった。
部屋の中は落ち着いた深深紅の絨毯と、アイボリーの壁。一枚板から削り出した机と良く鞣された本革のソファ。そこに座っていた小太り中年の男が慌てて立ち上がった。
『さすが、太古の彼方から続くお家柄ですね。この部屋の物は本物ですよ』
ジュ・ドゥ・ヴがこっそりと耳打ちする。どうでも良いと内心で毒吐くが、表情には一切出さず柔和な笑みを浮かべた。
「あ、あなたが、仁科、捜査官、ですか?」
中年の男がしどろもどろになりながら話した。
「はい。短い間ですが、よろしくお願いしますね」
若干声のトーンを上げ、表情も自然に微笑み続ける。男の顔がほころび、さっと朱が頬に広がった。
だが男はすぐに仁科の言葉に疑問を抱いた。
「短い間、とは? ああ、どうぞ、おかけ、ください。な、なにか、飲みますか?」
やはりしどろもどろになりながら男は自分の真正面の席をすすめて、先に座った。
それにニコリとはにかんで、礼を言いながら着席した。しっかりとフレアスカートの裾を抑え、足もピタリと揃えた。
「私が来たので、この事件はもう解決します。あとは調査に協力していただければ、ですが」
微笑を崩さず、あちらこちらに視線が泳ぐ男の目をまっすぐに見据え、仁科は目をすっと細めた。
「当然。完全な協力です。お受けしていただけますよね?」
あんぐりと口を開けたまま閉じることを忘れた男。今までわずかな下心と色目で見ていた相手が、否と言えない雰囲気でこちらの意思を決定している。拒否権なんて物がない状態になっていた事に気が付いた。
「は、はん、犯人が、た、たいほ、逮捕できるなら、か、かか、構いませんよ」
ハンカチを取り出して顔を拭い始めた男の答えに、仁科は小首を傾げる。
「逮捕するために協力を求めています。惜しみのない物をです。なので、Yesと言い、あなたは全力で私の問いに答えれば良い。ただそれだけの事です。わかりましたか?」
表情はほぼ変わっていない。それでも男は喉を引きつらせて、身を仰け反らせた。視線は今まではフラフラと彷徨っていたが、今は仁科に見つめられて微動だにできなくなっている。仔ウサギかと思った相手が、凶悪な蛇だと今更気づいたはずだ。
「あなたのアクセス権をすべて貰います」
「それは……ッ!?」
男が拒絶しようとした時には、すでに彼のもつ銀行システムの上位権限が仁科よって奪われていた。
瞬く間に彼女の周囲に無数のウインドが表示され、猛烈な勢いで流れて何かのリストを作り始める。
「ああ、予想通りです」
五秒と経たずに、彼女は結論にたどり着いた。
「き、きみ! それはッ!?」
男は慌てて腰を浮かせて手を伸ばす。それが無意味でも無意識に手を伸ばしていたようだが、その時にはすでにウインドは全て閉じられ、仁科は立ち上がっていた。
「捜査協力に感謝します。それでは失礼」
さっとソファから離れた仁科は男が反応するより先にドアを開け、身を滑り出すように廊下へ出ていた。
そのまま脇目も振らずに建物を出て、タクシーに乗り込む。
「やはり、というか、予想通りでしたね」
右前の座席には、またもジュ・ドゥ・ヴが運転手の真似をしながら座っている。
「やはりも何も、あなた達は最初からわかっていたのではないですか?」
手を膝の上に揃えて、まっすぐに自分のエージェントを見据えた。
「めっそうもない。わたくしはただのエージェントですよ?」
「私はあなたの中身が、たまに人間なのではないかと思っているのですが?」
「肉と機械、という違いを除けば、人と我々の頭脳に違いはないのかもしれませんね。だとしたら、わたくしはヒトなのかもしれないですよ?」
「人を人として認識する定義なんて、ないのかもしれません」
「しかし隣の芝生は青く生い茂って見えるもの、ですよ。さて、到着いたしました」
一瞬、右の眼窩に大砲の弾を突き刺した月面顔が、人のような顔をして笑ったように仁科には見えた。
「では、行きましょうか」
タクシーから降りて、仁科はコートの襟を直した。
「申し訳ありません。アポはとれませんでした」
「でしょうね。正々堂々表から行きます」
『かしこまりました。わが主さま』
ジュ・ドゥ・ヴの声と同時に、仁科の視界にあった今までの街並みが、軒並み消え去った。
BCCが見せていた、あらゆる立体映像が消え去り、街は灰色に染まる。
日本にわずか七人だけしか存在が確認されていない、BCCを任意で完全停止できる人物。その一人が仁科 笑だった。
本来であれば、脳内にある人工頭脳《BCC》の電源は切ることができない。新生児の段階で極小の生体機械、スマートセルを投与し、それぞれの遺伝子情報に従って脳内に作り出される。そしてそれは生涯停止する事なく稼動を続ける。臓器を自分の意思で止められないように、本来ならば不可能な事なのだ。
目前にそびえる灰色の高層ビル。伍菱不動産の本社である。
「自作自演ですね」
真相はどうだかはわからない。ただ見ただけではそうと取れる真実。
仁科は携帯端末を操作し、全く別の人物のBCC・IDを携帯端末に入れた。それで正面玄関は誤認し自動的に開く。情報の上では企業の役員に成りすまして、正々堂々と正面玄関から入っていく。
ほぼすべての階層へのアクセス権がある、盗み出したIDで目的の部署へ。
地下八階、特別不動産開発部。旧海外開発部。世界経済の破たんと共に姿を消した部署だが、それが今回の真相だった。
ノックもせず入室すると、二十等分された巨大なモニターと向き合っていた人物が、ゆっくりと振り向いた。画面は一瞬で消灯し、黒一色となる。
「どちらだね? アポはないが?」
三十過ぎの男が眉根にしわを寄せ、露骨な嫌悪をしめした。
仁科の携帯端末がバイブレーターで攻撃を感知した事を知らせる。
「ええ、令状もまだ請求していません」
「不法侵入と公文章偽造、身分詐称、越権行為、それと、銃器の不法所持。今通報したのなら、君をまあ数十年は刑務所で過ごさせてやれるな」
「ご心配ありがとうございます。書類なんていくらでも偽造できますので、その点はご安心なさってください」
かつと踵を鳴らして近寄る。
「まさか、インビジブルか」
「ご想像にお任せします。では、あなたを銀行強盗とバーチャルネットワーク規制法違反の容疑で逮捕します」
その時、男が突然走った。まっすぐ仁科に向かって。
舌打ちをひとつ。仁科は何百万回とフルダイブヴァーチャルリアリティ上で繰り返し練習を重ねて体得した白兵戦を思う存分ふるった。
姿勢を低くしてタックルをしてくる相手にはこちらも腰を落とし受ける。ふりをして横によけた紙一重でよけ、足に蹴り。しかしうまくいかない。よけた瞬間に腕をつかまれ、強く引かれた。重心がブレ、蹴りにまともな威力が出なかったのだ。
音を立ててジャケットの前ボタンが弾けた。だが腕をつかまれる事も想定していた。
仁科は即座に上着をまとめて脱ぎ去り、相手に投げつけた。そして撃った。ためらいのかけらもない、速射で五発。どっと音をたてて男が膝をついた。胸を押さえてもんどりうつ。
「安心してください。非殺傷弾です」
空気と血のかけらを吐く男は無事には見えないが、仁科は構わず男の手に手錠をかけた。
『やあ、これは見事だ』
突然スピーカーからの声。
顔を上げると、モニターに青年の顔が映っていた。
目鼻立ちの整った、精悍だが肌が妙に白い好青年だった。
「向上 慎弥」
『はは。呼び捨てはひどいな。まあいいよ、特別に許そう』
軽薄な微笑を浮かべた男、向上は顔の前で指を合わせてじっと仁科を見つめた。
『素晴らしい手際だ。まさか一時間で解決されるなんて思ってもいなかった。それに免じて名誉だけは君にあげよう』
向上 慎弥。日本のネットサブカルチャーを掌握するメディア王の一人。そんな大物がどうしてと仁科の脳裏をよぎったが、一つの結論が浮かび目を細めた。
「そういう事ですか。結構です。私、目的のためには結果を選ばないので」
『とんでもない暴君論だ! いいね! 気に入ったよ。それじゃあ、僕も忙しいからこれで失礼するよ。彼は一応連れて行っていいからね。書類は僕が用意しておこう』
破顔一笑して、向上は光を一切反射していない目で仁科を最後に一度見つめた。
『それじゃあね、かわいいお嬢さん。おつかれさま』
そこでまた画面は消えた。
三日後。
仁科就任初日で悪質な銀行への営業妨害を未然に防いだとして、特別表彰された。あの時逮捕した男の事も、そもそも事件の事も最初から何もなかったモノとして扱われた。
「さすが、こんなものですね」
職場の椅子に座った仁科はアナログパソコンの画面から顔を上げた。
何もかもがなかった事になっている。消去の痕跡すらない。これがあの男、向上の実力なのだろう。
「これも、予想通りですか?」
『それはどうでしょう。わたくし、ただのAIですので』
はぐらかすエージェントに肩をすくめ、仁科は背もたれに寄り掛かった。
「なんだ、無理やりでも前閉じるのやめたのか、天才さまよ」
「セクハラなんて、もう絶滅したものだと思っていました」
佐武の言葉に一応返事をして、片手間で別の案件を解決へ導いていく。
「あんまり、出すぎるなよ。出る杭は打たれるのが、この業界の鉄則なんだからな」
「知りませんよ。打たれてしまうのなら、殴り返します。簡単な事ではないですか」
「おお、怖い。これだから最近の若者は」
「若いからではありません。天才なだけです」
仁科は立ち上がり、部屋を出る。次の事案を調査するために。