第四話 転校生、平和をもたらす?
「……平和だなぁ」
「そうだなぁ……。こんな平和な日々をこの学校で送れるだなんて、考えたこともなかったよ」
「俺もだ……。何だかとても幸せな気分だよ」
「願わくば、こんな日々がずっと続いて欲しいものだな」
昼休み、俺は昼食を食べながら、隣の友人とこんな牧歌的な会話を楽しんでいた。久しぶりに太陽が厚い雲から顔を出し、暖かな日差しが窓から差し込んで、教室全体を包み込んでいた。俺たち以外のクラスメイトも、俺たちと同じく平和な日常を噛み締めているように思えた。
「あれからもう一か月だっけ?」
「そうだったかな」
「いやあ、短いようで長いような気がするし、やっぱり短いのかな。もう何言ってるのか分からないけど、とにかく良いな」
「まったくだ」
突然、世紀末もかくやと言った深刻極まる状況から、春の縁側でほっこりとお茶でも飲んでいるようなふんわりした状況へと激変したことに、違和感を覚える人もいるだろう。何しろ、俺も良く分かっていないのだから、まったく無理もないことだ。
というわけで、この状況を端的に説明することとしよう。
と言っても、取り立てて難しい話ではない。
つまり、セミュグニー=ジール、もとい金髪クソデ豚野郎とその取り巻きの豚ゴリラ共が、ここ一か月もの間、我が高等学校とその周辺に一切出現していないである。それまではほとんど毎日のように、強盗に遭った、強姦に遭った、家族ごと皆殺しにされた、といった言葉で言い表すことのできない酷い話がワラワラと飛び交っていたのに、一か月前を境にぱったりとそんな話が消えてなくなったのである。言ってしまえば、魔物に脅かされ食い散らかされる世界から魔物と魔王がぱったりと蒸発した世界へと変わったようなものである。どんなに偏屈で頑迷な人間でも、この変化に感情を動かされないことはないだろう。もう、そんな感じなのである。
偏屈で頑迷でもない俺のような小市民にとって、なおさらこの変化は嬉しいものであった。何しろ、ダウナー系を地で行く人間であるところの俺が、他人に幸せだなぁ等と嘯いてしまうのである。俺の喜びようを是非とも感じて欲しいのである。この、溢れ出る歓喜と幸福が伝わって欲しいものなのである。
「……あんた達、会話が隠居したご老人みたいになっているわよ?」
俺たちの会話を聞いていたらしい転校生――と言ってももう一か月以上経っているのに転校生というのも何とも言えないか。ということで――チェルノが呆れたように言った。であった当初は少し不気味、というわけではないが、多少の近寄り難さを漂わせていた彼女であったが、今ではすっかりこのクラスに馴染んでいた。いや、クラスどころか、同学年の皆にも、彼女の名は知れ渡っていた。
チェルノがかなり可愛らしい容姿を持っていることもあるし、頭も良く、運動神経もあって性格が良いのも理由の一つである。しかし恐らくその一番の理由は、彼女がこの高等学校に転校してから、豚とゴリラ共の跳梁跋扈がぴたりと止んだことにあるのだと思う。連中とチェルノとのやり取りは基本的にこのクラスの皆しか知らないことであるが、噂が噂を呼んで彼女が豚&ゴリラを駆逐したことになったらしい。一部では、チェルノファン倶楽部だとかいうカルト集団もあるようだ。
俺もまた、因果関係はともかく、この状況は彼女によってもたらされたものだと少なからず確信し、感謝の気持ちを持ち合わせている。とは言え、それを素直に表せるほど素直な人間ではない俺は、できるだけ愛想よく彼女に受け答えをするだけではあるが。
「良いじゃないか。実質そんなもんだし」
「こんな会話ができて嬉しいよ、俺たちは」
「ええ……。まあいいけどね。……ああ、ところで今日こそはもしかしたらちょっとした事件が起こるかもしれないから、学校から帰るのは少し遅くした方が良いかもしれないわよ。って、他の皆にもなるべく教えてあげてね?」
「ああ。……ってそれ昨日も聞いたぞ?」
「何なら一昨日も聞いた気がするな。一体どんな事件が起きるってんだ?」
俺たちがそんなことを言うと、チェルノには珍しく、少し困ったような表情を浮かべながら、躊躇いがちに応えた。
「あー……。まあ、この前までの日常カムバックというか、奴らが帰ってくるというか……ねえ? まあその察してくれるとありがたいな?」
「…………」
彼女のそんな言葉に、俺たちは顔を曇らせる。ごくオブラートに包んでくれてはいるが、いや、包み切れているとは言い難いような気もするが、まあともかくとして、彼女の言わんとしていることは、察しが悪いわけではない俺たちにとってすぐに理解できた。
勿論、うすうす分かってはいた。この平和な日常がただ連中の気まぐれで成り立っているだけの、細い糸のような、薄いガラスのようなものでしかないことに。連中のただ少しの変心で、いつでもこの日常が終焉を迎えることとなることくらい、分かっていない訳ではなかった。大きな変化など、そうそう訪れるものではない。それこそ奇蹟でも起きない限り。
それでも、そんな変化に期待することは悪いことなのだろうか。期待を持つことすら許されないほど過酷な世界に俺は生きているというのだろうか。
そんなことをつらつらと考え始め、傍から見ても暗い表情となっているであろう俺や同級生の様子に気づいたのか、チェルノは努めて明るい声で言う。
「いやいや、そんなに深刻に捉えてくれなくても大丈夫だよ……? ……どうせもう終わりだし」
「? 終わりって何のことだ?」
俺の疑問に答えることなく、チェルノは、曖昧な笑みを浮かべながら、軽く手を振り教室から出ていった。
「終わり……。どう思う?」
「こっちに聞かれてもなぁ。何かが終わるんだろうよ、彼女的には」
「まあそりゃあそうなるだろうけど……。何が終わるんだろう?」
「さあな。共産党政権じゃ…………」
同級生は一瞬だけ真っ青になった後、素早く周囲を見渡す。そしてこちらに向けられた視線がないことを確認した後、ゆっくりと再確認を求めてくる。
「…………セーフ、かな?」
「アウトよりのセーフだな」
平和過ぎてすっかり忘れていたが、いつ俺たちの会話に黒服の男が聞き耳を立てているとも限らないのであった。学校内の問題には一切の関心を持たないのに、少しでも反体制的な言動や行動を取ればすぐにすっ飛んでくる。それが政治教師たるあの黒服の嫌らしいところである。今のところ、生徒がパクられたりしたとの噂はない。但し、他学年の教師の中には、雑談の中である種の発言をした結果、労働教化所だか何とか言うところにブチ込まれたのがいるとのことだったから、油断はできない。
まあ、それはさておき。
「で、あれは、何だろうな」
「本気で考えるなら、……連中関係かな?」
「連中が、……終わる?」
今度は俺が真っ青になって、周囲を見渡す。やはりこちらに向けられた視線がないことを確認した後、少しだけ震える声で言う。
「下手なことは言うもんじゃないな……」
「そうだな。おっと、もう昼休みも終わりだな」
「ああ」
そうして、俺は五時限目の授業準備を始めるのだった。
「ふーん、なんだか面倒くさそうな状況になってるのね……。チェルノもご苦労なことね」
ザカセーヴァ中心部の大通り。夕闇が街を覆い尽くすのに反応するかのように、街のガス灯がぼんやりと浮かび始め、人と馬車、そして多くない自動車が行き交う通りを淡く照らし出している。そんな大通りに面する喫茶店のテラスにて、青く美しい髪を神経質そうにいじる少女は、カップになみなみと注がれたコーヒーを冷ましつつ、呟くように言った。
チェルノと呼ばれた少女は、少し疲れたように大きく伸びをした。
「いやいや、そうでもないよ。あっちはあっちでこっちはこっちだし。まあ思った以上にやらかしてくれてたから始末が面倒ってのはあるけどね。典型的な悪役ってのはああいうのを言うんでしょうね。これ以上余計なことをしてくれないことを祈りたいわ」
「とか言ってるとまた面倒事が降って湧いてくるんじゃない? ほら、親子だったんでしょ? 子供使って更にやらかしてたりとかってことはありそうな話よ」
からかうように青髪の少女が言うと、チェルノが嫌そうに顔をしかめる。
「い、一応調べてみたけどそんなことはなさそうだし……。大丈夫だと思うんだけどなぁ。とは言え、何か日にちが被りそうだし、用心に越したことはないわね」
「そうそう。……それじゃあ、私はそろそろ行くから。…………支払いよろしく!」
「あ、ちょ…………」
青髪の少女はふわりとテラスから出ると、風のように軽やかに走り去っていった。
「エルネのやつ、逃げ足だけは早いんだから……。経費とかにならんかな、コーヒー代……」
マドラー風スプーンを弄びながら、チェルノは街灯に照らされた大通りを見つめていた。
次か、次の次くらいで終わる予定です。
よろしくお願いします。