君まで50cm
「結城が告白されたらしいぞ」
弁当箱から卵焼きをつまみ上げ、山中はおもむろに言う。
「ふーん」
オレは煮豆を口に運びながら適当に答えた。甘い豆は嫌いだって言ったのに、二日に一度の頻度で弁当に入っている。米と甘い豆は、絶対に合わないと思うんだよな。だが、文句を言った次の日の弁当に大量の煮豆が入っていて、山中に頼み込んでおかずを交換してもらった。それ以来、弁当の文句は言わないようにしている。
「何だよ、余裕だな」
「知ってるし。結城から聞いた」
昨日、下校するのに使った電車が結城とたまたま一緒だった。
お互い部活に入っていないので、乗る電車がかぶることがあるのだ。いつもと同じように、50cmほど間を空けて隣に立った結城は、何でもないかのように口を開いた。
「私、告白された」
「え? なに?」
あまりに自然だったから、オレは間抜けな声を出して聞き返す。
「私のことが好きだって、告白されたの」
結城が好き? 告白された? 誰に?
オレの頭の中は、一気に不安と動揺でいっぱいになる。好きな子が告白されて、落ち着いていられる方がおかしいだろ。でも、そんなことを悟られたくなくて、オレは平静を装って聞く。
「へー。で、返事はしたの?」
これで、「付き合うことにした」なんて言われたら。「谷本には、関係ないでしょ」なんて言われたら。悪い考えばかりが頭に浮かぶ。
「うん、断った」
そんなオレの気も知らずに、結城はあっさりと言った。
「そっか」
よし! オレは心の中でガッツポーズをする。誰だが知らないが、残念だったな。まあ、譲る気もないけど。
昨日は我ながら、冷静に対応出来たと思う。山中にそのことを伝えれば、なるほどと返ってきた。
「とりあえずよかったな」
「とりあえずってなんだよ」
山中は、食べ終わった弁当箱をすでに片付け始めている。オレも文句を言いつつ、最後に残しておいたから揚げをほおばった。
「だって、結城って難しそうじゃん」
「まぁ、そうだけど」
先ほどまでの余裕はなくなり、オレはうなだれる。結城との付き合いも、高校一年の夏からだから丸一年になるのか。
最初は、ただのクラスメイトだった。中学まで女子と会話する機会もなく、高校に入学してからも同じだと思っていた。
結城は目立つタイプでもなく、かと言って地味なわけでもない。黒いショートカットに、大きな黒い瞳。体型も細身で、ちょっとかわいい子。だけど、それ以上でもそれ以下でもなかった。
高校一年の夏、学校にも慣れてきて気が緩んできた頃。オレは、教室にマンガを忘れてしまい、慌てて取りに戻ることにした。下校時間を過ぎた教室には、普段なら誰もいない。それが、その日は違かった。
「これ、谷本の?」
オレの席でマンガを読んでいた結城が、顔を上げて聞く。頷いて見せると、結城は目を細めて柔らかく笑う。
「私も、好きなんだ」
その表情に一瞬どきりとする。それから、結城にマンガの話題を振ってみると、好きなジャンルが一緒だった。
「女子って、こういうマンガ読まないと思ってた」
「そう? おもしろいじゃん」
マンガの話題で盛り上がった後、オレは以前から思っていたことを言う。
「オレ、結城には前から親近感があったんだよね」
「へえ? なんで?」
「オレの名前、勇樹って言うんだ」
結城と勇樹。そう言えば、結城は大きく頷く。
「本当、一緒だね」
それ以来、オレは結城とよく話すようになった。結城と話す時間はとても楽しく、でもまだその時は仲のいい友達くらいの感覚で。結城を好きになる日が来るとは思ってなかった。
それから月日が流れ、冬のある日。
誰もいない放課後の教室で、泣いている結城がいた。オレが教室のドアを開けると、涙に濡れた顔をゆっくりと上げる。
「結城、大丈夫か?」
口から出たのは、そんな言葉だったと思う。結城は、何も言わずじっとオレの目を見つめると、ぼろぼろと涙をこぼした。
「振られちゃった」
やっとそれだけ言うと、苦しそうに顔を歪める。その言葉で、結城が学校の図書室に通っていたことを思い出す。結城は小説を読むタイプではなく、目当ては他にあるのだろうと気づいていた。
「辛いよ……」
そうこぼした結城は、自分の腕を強く握りしめる。弱々しく言う結城は、紛れもなく一人の女の子で。その姿を見て、守ってあげたいと強く思った。
その時から、オレは結城に恋をした。
* * *
「あちー」
食べ終えたアイスの棒をくわえながら、オレは手すりにもたれかかった。まだ七月といえど日差しは強い。屋上には遮る物がなく、じりじりと肌が焼かれる感覚がする。隣の結城も、アイスの棒を手でもて遊ぶ。
「今日の最高気温って何度だっけ?」
「29度」
「マジで? あちー」
「谷本、うるさい。大体、屋上で食べようって言ったのは谷本なんだからね」
じろりと怒ったような視線を向けられ、オレは言葉に詰まる。
放課後、授業で使う資料を運ぶのにオレと結城が指名された。科学を受け持つ担任は、人当たりがよく人気も高い。運んだらアイスをあげる、そんな誘惑に負けてしまったのは仕方がないと思う。
「だってさ、暑い中で食べるアイスってうまくない?」
祭りで食べるかき氷がうまいのは、雰囲気だけでなく暑さもあると思う。そう反論すれば、結城は何やら考え込む。
「まあ、確かにそれはあるけかも」
「だろ?」
「でも、それとこれとは別。わざわざ、こんな暑い場所を選ぶなんて谷本くらいだよ」
はっきりと言い切られ、オレはわざとらしく傷ついたふりをする。
「結城、ひでー」
「そんなこと思ってもないくせに」
結城が大げさにため息を吐く。
「そこは優しくなぐさめるところだろ?」
「はいはい。かわいそうねー」
後の方は感情を込めずに、淡々と結城が言う。その言葉に拗ねた態度をとれば、結城が吹き出す。
「ごめんってば」
「謝るならアイス寄こせ」
「まだ食べるの?」
おどけて返せば、結城が腹を抱えて笑う。テンポのいい会話が楽しくて、結城と二人の時間がくすぐったくて。ずっと続けばいいのに、なんて思ってしまう。
結城はいつも50cmほど離れて立つ。最初はその間合いにどきどきして、内心落ち着かなかった。今では、普通になってしまったけど。オレが特別と言うわけではなく、他のクラスメイトと話す時もその距離だ。
結城との距離は、近くて遠い。50cmは心の距離のようで。仲のいい友達だけど、それ以上でもない。それは傷つくことのない心地よい距離だが、もっと近づきたいと思う。
* * *
食後の日本史の授業は、退屈極まりない。退屈じゃない授業なんて体育以外ないのだが。教科書を読んで、ノートを取るだけの単純作業は眠気を誘う。
オレはあくびをかみ殺し、眠気覚ましにと手をつねる。一瞬だけ目が覚めたものの、またすぐに眠くなってきた。やばい、やばい。何とか、眠気を覚まさないと。
ふと隣を見ると、結城が熱心に何かを書いているのが目に入った。さすが結城、ノートに書かれた文字はとても読みやすい。しかし、ノートの隅に書かれているそれは一体何だろう?
「それ、ブタ?」
丸い顔に小さな三角の耳がついたその絵は、ブタだろうか。気になって小声で聞けば、結城はむすっとしたように顔をしかめる。あれ? 何かまずいこと言った?
「ネコ……」
結城は、こっちを見ずに小さく呟く。ネコ? だって、どう見たって……。
「……くっ……はは」
オレは込み上げてくる笑いを必死に抑える。その姿に、結城はますます不機嫌になる。ごめん、でもすねてる姿もかわいいな。そんなことを思いながら、一生懸命に笑いをこらえる。結城は怒ってしまったのか、それ以上何も言ってはくれなかった。おかげで一気に眠気が覚め、その後の授業も集中出来た、とはいかなかったが。
どうしても、あの動物の絵が頭に浮かんでしまうのだ。結城の授業態度は真面目だったので、ノートに落書きしていたなんて意外だった。
結城はすっかり拗ねてしまったが、明日になれば機嫌も直るだろう。でも、ブタじゃないなら何だったのだろう?
しかしそんなことも、一晩寝ると忘れてしまっていた。我ながら単純というか。だから次の日、教室で結城と会った時は驚いた。
「谷本、これ」
登校すると、結城が目の前に紙を突き出す。その表情は、どこか自信があるように見えた。
「これって、ネコの絵?」
そこには、ネコらしき絵が所狭しと描かれていた。中には、ネコかどうか怪しい物もあるがそれは言わないでおく。
「どう、これならもうブタなんて言わせないんだから」
胸を張って言う姿がかわいくて、オレは顔がにやけてしまう。もしかして、昨日のことを気にして練習してきたのか? それも、こんなにいっぱい。
「なに笑ってるの」
しかし結城は、オレがバカにしていると受け取ったのか顔をしかめる。やばい、めっちゃかわいい。
「いや、頑張ったなって」
「バカにしてるでしょ」
「そんなことないって」
朝からまた機嫌を損ねてしまったか? オレは緩む顔を出来るだけ引き締めて、ネコの絵をもう一度見る。
「これなんて、まさにネコ」
トラ模様のネコを指差して言えば、結城は紙を取り上げる。
「もう、いい。次は、もっと上手く描くんだから」
また描いてくるのか。本当に負けず嫌いだよな。それから、顔がにやけるのを抑えていたら、山中に不審がられたのは別の話。
* * *
「おっす、結城」
本屋のマンガコーナーで、真剣な表情をしている結城に声をかける。日曜の夕方ということもあり、店内はそこそこ賑わっていた。学校以外で結城と会うことはなかったので、何だか新鮮な気分だ。
結城がいつもそうするように、50cmほど離れて隣に立つ。自分でも情けないと思うけど、これ以上近づくのは何だかためらわれるし、離れすぎるのも嫌だ。そんなオレの気も知らずに、結城は普段と変わらない返事をする。
「谷本も何か買いに来たの?」
「家にいても暇だからさ。何かいいのあった?」
「うん、この前貸したマンガの新刊が今日発売なんだ。読み終わったら谷本にも貸すよ」
結城は、少年が大きな銃を構えた絵が表紙のマンガ本を見せる。有名な少年雑誌で連載されているそれは、派手なアクションと複雑な人間関係が売りのマンガだ。
「サンキュー。それ面白かったもんな」
「前回、気になるところで終わったからね。今回は、コウスケとミチルがメインになるみたいだよ」
主人公と友人の名前を挙げて、結城は子供のように笑う。素直に顔に出るところとか、やっぱりいいな。本人は無意識なんだろうけど。
「へー じゃあ、楽しみにしてる」
「私これ買ってきちゃうね。また学校で」
「ああ、またな」
今日は、外で結城と会えていい日かも。結城が見えなくなってから、だらしなく笑う。一応、他のお客さんに見えないように気をつけて。
それから、何となくマンガや雑誌を見て外に出る。
「夏祭り?」
本屋の前に止めて置いた自転車に乗る時、鮮やかな色をしたポスターが目に入った。場所は、ここから近い神社で、開催日は一週間後だ。結城と行きたいな、そんな考えが頭に浮かぶ。誘ったら、一緒に行ってくれるかな? 一緒に行きたいな。でも、断られたら……。
「オレって、こんなにうじうじ考えるやつだったっけ?」
恋をすると、こんなに気弱になるなんて知らなかった。ちょっとのことで、喜んだり、落ち込んだり。
「考えたって仕方がないよな」
夏祭りの日程を携帯のスケジュールに登録して、オレは自転車にまたがった。
* * *
「今回のは感動するよね」
放課後の教室で、結城と向かい合って話す。結城は興奮しているのか、頬が少し赤い。
「確かに。コウスケとミチルの会話が、ぐっときたよな」
結城から借りたマンガを一気読みし、そのまま感想を言い合っていて今に至る。結城とは、マンガを貸し借りしては、こうして感想を話して盛り上がることが多い。
「ほら、落ち込むコウスケに、ミチルが全部吐き出しちまえよって言うシーン! 何かいいよね」
「オレもそう思った。男同士の友情って言うか。ベタだけど二人で叫んだ後、やっとコウスケが笑うのがよかった」
オレがそう言えば、結城も大きく頷く。
「ああいうのって憧れるよね」
「そうだよな。オレもちょっと憧れるかも」
部活とかに入っていたら、部員同士で励ましたりすることもあるのかな。だが、オレも結城も部活動には所属していないので、想像でしかないが。山中はそんな熱いやつじゃないから、絶対にそんなことは言わないしな。
そんなことを伝えれば、結城は少し思案した後、無邪気な笑顔を見せる。
「ねえ、やってみない?」
「何を?」
「今なら、屋上には誰もいないだろうし。いけると思うんだよね」
その言葉で、結城が言わんとしていることが分かる。楽しそうかも、そう思った途端にうずうずして結城につられて笑う。
「やってみるか」
「そうこなくちゃ!」
そう言うと、結城と屋上へと向かう。オレって、こんなキャラだったっけ? 結城といると新しい自分がどんどん見えてくる。それがくすぐったくて、変な気持ちで。でも、嫌な気持ちじゃない。
「わぁー!」
「あー!」
屋上に着くと、手すりに体を預け大きく叫ぶ。やばい、子供みたいだけど楽しい。結城を見れば、さらに息を吸い込んで何かを言おうとしていた。
「ばーか!」
突然飛び出した言葉に驚いていると、結城はすっきりとした顔をしている。
「ほら、谷本も言っちゃえ!」
言えって、何を。少し考えた後、大きく息を吸い込む。
「テストなんてなくなっちまえー!」
「谷本の成績が上がりますようにー!」
「結城、ひでぇ!」
確かに、オレは勉強が苦手だけど。いたずらっぽく笑う結城と目が合って、お互いに声を出して笑う。
「こんなに笑ったの久々かも」
「私も」
いつの間にか、日が沈みかけている。結城とひとしきり笑って、どこかすっきりした。何かいいな、こういうのって。
ふと、今なら夏祭りに結城を誘えるのではと思う。お互いに叫んで笑ってテンションも高いし、オッケーしてもらいやすいんじゃないか?
「あのさ、今度の日曜に夏祭りがあるらしいんだ」
「そうなんだ。夏って感じだね」
結城は、無邪気に笑って返してくれる。出来るだけ自然に、自然に。呪文のように頭の中で唱えながら、オレは意を決する。
「結城、暇だったら行かない?」
よし! 言った! 言ったぞ! 緊張しながら結城の反応をうかがう。ああ、神様頼みます!
「いいよ」
都合のいい神頼みが通じたのか、結城は了承の返事をしてくれた。オレは、また叫びたいのをぐっと押さえる。やったぞ、やったー!
「じゃあ、時間とかはまた今度決めようか」
「そうだな」
それから家に帰るまで、顔がにやけるのを押さえるのに必死だった。
* * *
夏祭り当日。オレは朝から落ち着かず、待ち合わせの時間まで気がそぞろだった。甘い煮豆をもくもくと食べるオレを見た母親からは、「熱でもあるの?」なんて失礼なこと言われたが。
オレは、とにかく浮かれていた。これって、デートなのかな? 二人で出かけるってことは、やっぱりデート? やばい、緊張してきた。深呼吸、深呼吸。
そんなことをしていたら、家を出る時刻が迫っていて慌てて支度をする。
「行って来ます!」
家から待ち合わせの神社まで二十分。混雑を考えて自転車は使えない。早足で歩いて、ぎりぎりな時間だ。初デート(だよな?)で遅れるわけにはいかない。
歩調を速めて歩くと、夕方とはいえじっとりと汗をかく。神社が近づくにつれ、人足も多くなってくる。ここまで来れば、遅れることもないだろう。オレは歩くスピードを緩めて汗を拭う。
神社に着くと、結城の姿はまだ見えなかった。セーフ、何とか間に合った。辺りには、浴衣を着た女の子が目立つ。結城も浴衣を着てきたりしないかな。あの子が着てる、白地にピンクの花柄の浴衣なんて、結城にも似合うと思うんだよな。
「何、にやにやしてるのさ」
ぼうっと道行く人を眺めていると、いつの間にか結城が目の前にいて驚く。
「別に、にやにやなんてしてな……い……」
結城は期待していた浴衣姿ではなかったが、制服の時と印象が違って動揺する。
白いふんわりとしたブラウスは、ウエスト部分が絞られていて、見た目も涼しげだ。それにスキニージーンズを合わせた姿は、結城に似合っていてとてもかわいい。
「本当かなぁ? 浴衣姿の女の子に見とれてたんじゃない?」
見とれてたのは、結城にだよ。でも、そんなこと言えるわけいなだろ。
「違うって。それより行こうぜ」
からかうように笑う結城から顔を背け、露店に向けて歩き出す。ああ、もう、どうしてオレはこんな態度しか出来ないんだ。楽しそうな笑顔をする結城を見て、また心臓が跳ね上がる。
「まずは、かき氷! それからフランクに、焼きそばに……」
「食い物ばっかじゃん」
食べ物の名前を次々と上げる結城に、思わず笑ってしまう。それを気にした風もなく、結城は笑顔を見せる。
「だって、お祭りだよ? あ、後で金魚すくいやろうよ。負けた方が、何か一つおごりね」
「いいぜ。オレ、小さい頃は祭りで必ず金魚すくいやってたんだ」
「自信があるみたいだね」
「まあ、一回も取れたことないけどな」
「なにそれー」
声を上げて笑う結城が、たまらなく愛おしくて。幸せだな、そんな柄にもないことを思ってしまう。手、繋ぎたいな。少し日焼けした華奢な手を見て、そんなことを考える。
迷子になるから手繋がない? いやいや、子供じゃないんだし。手の大きさ比べてみない? 何だよそれ、不自然すぎだろ!
「谷本、りんご飴あるよ」
「結城、危ない!」
結城が転びそうになって、思わず手を掴む。
「ありがとう」
「……気をつけろよ」
少しの間だったけど、結城の手を握った。柔らかくて、温かくて、小さな手。手に触れただけで、こんなにも心臓がうるさい。手を離した後もその感触が忘れなくて、いつもより結城を意識してしまう。
結城をそっと見る。楽しそうに笑って、無邪気にはしゃぐ姿は子供みたいだ。結城の側にいると、欲張りになる。もっと笑った顔を見たい、もっと近くに寄りたい、もっと一緒にいたい。
「ねえ、少し休憩しない?」
露店が多く並ぶ参道を抜け、神社の境内にやって来た。結城とオレの他に人はいず、整いすぎた状況に心臓がはねる。
「やっぱり、お祭りはいいね」
結城は石段に座り、空を仰ぎ見る。オレもその隣に座って、同じように空を見上げた。
「うーん、やっぱり星は見えないか」
濃紺の絵の具で塗りつぶしたような空に星は見えない。何かを探すように、それでも結城は空を見上げていた。
ゆったりとした時間だけが流れる。もしかして、これっていい雰囲気なんじゃないか? 人もいないし、告白するなら今しかない。喉がからからに渇いてるのに、手には汗をかく。
「なあ、結城」
「んー。なに?」
言うぞ。言わなかったら後悔する。覚悟を決めろ、谷本勇樹!
きつく手を握り締め、気合を入れる。顔が赤くなっているのが、自分でも分かるほど緊張していた。大きく息を吐き、結城と向き合う。怪訝そうにしている結城に、はっきりと告げる。
「オレ、結城が好きだ」
声は震えていなかっただろうか。ちゃんと声は出ていただろうか。ただ視線だけは、結城からそらさなかった。
静寂が辺りを包み込む。オレ、相当情けない顔してるだろうな。結城は驚いたように目を開い後、一変して真剣な表情になる。
「谷本はいいやつだし、好きだよ」
でも、と結城は顔を曇らせる。ああ、その表情を見るのはきついかも。
「ごめん」
最後は、視線をそらして言う。その言葉を聞いても、妙に冷静な自分に驚いた。そっか、オレは振られたのか。
「そっか」
結城は、表情を曇らせうつむく。そんな顔しないでくれよ。オレは、笑ってる結城が好きなんだ。そう言いたいのに、声は出てきてくれなかった。
* * *
「結城、おはよ」
「あ、うん。おはよう」
そんな態度をとられると傷つくな。教室で結城に声をかけると、ぎこちない笑みで返された。以前ならそのまま無駄話をしていたのに、オレから離れて他の女子の輪に入る。
「やっぱり避けられてるよな……」
結城に告白してから、距離を置かれるようになった。振られたこともショックだが、こうして避けられるのも辛い。
チャイムが鳴り、席に着く。隣の結城はこっちを見ようとしない。これも、告白してから変わったことだ。結城って、態度に出やすいんだよな。
担任が夏休みまで二週間をきったことを告げれば、教室内が急ににぎやかになる。いつもだったら、結城と笑っていたんだろうな。そう思うと、胸の奥が鈍く痛んだ。
それから、結城と話すことはなく放課後になった。
「やっぱ、きついな」
駅のホームで電車を待ちながら一人呟く。どうしたら、今までみたいに話せるかな。
「あの、すみません」
そんなことを考えていると、横から緊張した声がする。声のした方を見ると、見たことのない制服の女の子が立っていた。暗めの茶色い髪はゆるく巻いてあって、かわいい顔立ちをしている。
「ちょっと、いいですか?」
「え、はい」
了承の意を伝えれば、その子は安心したように笑う。その表情に、一瞬だけどきりとする。
「私、鈴木怜奈って言います。私も、この電車よく使うんです。それで……」
人のいないホームの一番端に移動すると、鈴木さんが口を開く。顔を真っ赤にして言う鈴木さんを見て、何を言おうとしているのか分かる。
「あなたのこと、よく見ていて。あ、気を悪くされたらごめんなさい! それで、あの……」
こんな状況、普通の男だったら喜ぶのかな。顔を真っ赤にして、一生懸命に話す鈴木さんはかわいい。でも、どうしても結城の顔が頭に浮かぶんだ。
「好きです! 付き合ってください」
結城と同じ50cmほどの距離で話しているのに、これ以上近づきたいとは思わない。
「鈴木さん」
「はい!」
「気持ちは嬉しいけど、オレ好きな子がいるんだ。だから、ごめんなさい」
そう告げれば、鈴木さんは気が抜けたように笑う。好きな子か、振られたのに未練がましいよな。心の中で、自嘲気味に言う。
「そうですか。……あの」
鈴木さんは、オレの前に手を差し出す。オレは少し戸惑ったけど、その手を握る。
「想いが通じるといいですね」
握ったその手は小さくて、少しだけ震えていた。
「ありがとうございました」
大きくお辞儀をして去っていく彼女は、とても強いと思う。それに比べてオレはどうだ。こんな時でも、結城の顔が浮かんでしまう。
「辛いな……」
吐き出すように呟いた言葉は、ホームに入ってきた電車の音にかき消された。
* * *
「あ……」
「よお」
学校帰り、駅のホームで結城と偶然にも鉢合わせする。結城は小さく声を出した後、そのまま黙り込んでしまう。それでも、離れて行ってしまわないことに少しだけ安堵する。
「谷本、告白されたんだって?」
前を向いたまま、結城が小さく言う。
「え?」
「友達が偶然見たらしいんだよね」
結城は、言い訳するかのように少し早口で言う。駅のホームだったから、誰かに見られていても不思議ではない。でも、何で結城がそんなこと言うんだ。
「谷本も隅に置けないよね。話してくれてもよかったのに」
視線を合わせずに、結城が明るく振る舞う。分かっている、結城なりに普段と同じように振る舞おうとしていることは。でも……。
「……結城には関係ないだろ」
思わず、強い口調で言ってしまう。せっかく結城と話せたと思ったのに。何で、どうして、そんな風に言うんだ。
「関係ないって、そんな言い方……」
「だって、どうだっていいだろ。オレが誰と付き合おうと」
言ってはいけない言葉を言ってしまった。そのことに気がついて、慌てて弁明しようとした時には遅かった。結城は、悲しそうに顔を歪め後、きゅっと眉を吊り上げる。
「そう、関係ないよね」
「結城……」
「よかったね。かわいい彼女ができて」
そう言い残し、結城は背を向けて歩いて行ってしまう。呼び止めようと伸ばした手は、結城に届かず空を掴んだ。
「なにやってるんだ、オレは……」
伸ばした手を下ろして、きつく握り締めた。結城と笑い合っていた日々が、遠い昔のように感じる。どうして、うまくいかないんだ。
側にいてほい。笑ってほしい。力になりたい。その全てを叶えるのが、オレでありたい。ただ、それだけだったのに。
「くそっ」
行き場のない怒りは、簡単には消えてくれそうになかった。
* * *
「オレ、バカかもしれない」
「そんなの昔からだろ」
山中の部屋で、情けなくこぼす。山中は、冷えた麦茶を飲みながら呆れた表情をする。
「結城と、ケンカした」
「見れば分かる」
山中にも分かるくらい、ぎくしゃくしていたのか。結城と駅のホームでケンカしてから、顔すら合わせようとしてくれない。そんなのが一週間も続くと、さすがに精神的にまいってくる。
「結城に告白してから、避けられるようになってさ……」
「ふーん」
「でも、結城もひどいと思わないか? オレが告白されたことを、話してくれてもいいんじゃないなんて」
「それで、ケンカになったわけか」
「そう……」
オレは、ため息をつく。山中は、興味なさそうにお菓子に手を伸ばしている。
「おい、こっちは真剣なんだぞ」
そう抗議すれば、山中はため息をつく。
「大体さ、結城のどこが好きなの? もう諦めれば?」
「そんな簡単なことじゃないんだよ! 諦められるわけないだろ」
そう、諦められるならこんなに悩んだりしない。いつもみたいに、笑って何事もなかったかのように話せたら。
「だったら、答えは出てるだろ」
山中が、呆れたような表情で言う。その言葉が、すとんと心に落ちる。そうか、答えは最初から出ていたんだ。
「悪い、オレ帰る。結城に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「まあ、頑張れよ」
山中の家を飛び出して、携帯の電話帳から結城の名前を探す。そのまま、迷わず通話のボタンを押した。コール音が鳴り響く。頼む、出てくれ。
「……はい」
繋がった! いつもより硬いが、紛れもなく結城の声だ。
「結城、どうしても話したいことがある。東町公園で待ってる」
「私は、話たいことなんて……」
「オレ、結城が来るまで待ってるから」
そう一方的に言うと、通話を切る。携帯をズボンにねじ込むと、オレは約束の公園へと向かう。公園までは十分ほどで着く。結城の家からも、そうかからないはずだ。
公園に着くと、子供の姿はなかった。小さな公園ということもあるのだろうか、オレにとっては好都合だが。
結城が来るまで、公園のベンチに座って心を落ち着かせる。結城、来てくれるかな。いや、来てくれる。信じるんだ。
気持ちを落ち着かせるよう目を閉じると、様々なことが頭に浮かぶ。
結城と初めて話したこと。マンガの話題で意気投合したんだった。
笑いあったこと。くだらないことでいつも笑っていた。
屋上で叫んだこと。初めての経験だったけど、どこかすっきりしたな。
夏祭り。告白して振られたんだよな。
それからぎくしゃくして。避けられるのは辛かった。
鈴木さんに告白された。彼女から勇気をもらったんだ。
けんかもした。結城が好きだから、あんな態度しか取れなかった。
オレの隣にはいつも結城がいんだ。大切で、離しがたい存在。いつの間にか、結城の存在がとても大きくなっていた。叶うなら、もう一度笑い合いたい。側にいたい。
目を開いて、空を見上げる。雲一つない空は、すがすがしい。オレの心も迷いはなかった。気持ちはもう決まっている。
「谷本……」
日が暮れかけたころ、結城が小さくオレの名前を呼ぶ。その表情は、どこか緊張しているようだった。
「来てくれてありがとう」
「別に……」
笑いかければ、結城はうつむきながらも返事をしてくれる。オレはベンチから立ち上がって、結城と向かい合う。結城は驚いたように一歩下がるが、オレは50cmほどまで間合いを詰める。
「この前はごめん」
結城は、黙って聞いてくれる。オレは息を吸い込み、はっきりと告げる。
「告白は断った。オレが好きなのは結城だから」
そう、何と言われようとそれは変わらない。オレが心を動かされるのは、いつだって結城だ。
「諦めが悪いって思われるかもしてない。でも、気持ちは変わらないんだ」
思ったことを言い切ると、結城が泣きそうな表情をする。しばしの沈黙の後、結城が口を開いた。
「嫌なの、恋をして弱くなることが。守られたくないの……」
結城は、胸の前で両手を強く握り締め言う。初めて見る表情だった。いや、一度だけ以前に見たことがある。あれは、結城が好きな人に振られた時だったか。
不安げな結城に、オレはそっと笑いかける。大丈夫だよ、結城。
「だったら、一緒に笑っていてほしい。オレ、結城の笑った顔が好きなんだ」
笑った顔が見たい。いつだって、オレの心にはその気持ちがあった。それは今でも変わらない。最初は、守ってあげたいと思った。でも、今は隣で笑っていてほしいんだ。
結城は驚いたように目を開いて、また泣きそうな顔をする。結城、笑ってくれよ。
「もう一度、よく考えてほしい」
その言葉に、結城は小さく頷いて見せる。伝えたいことは全て言った。どんな結果になろうと、また一緒に笑えるだろう。
* * *
あれから、オレの心は晴れ晴れとしていた。結城とはまだ話せていないけど、避けられてる様子はない。それだけでも嬉しかった。また、結城と笑い合える日も来るだろう。
夏休み前の最後の授業は、どこか身が入らない。みんな明日から始まる夏休みに、どこか浮かれている。夏休みに入ったら結城としばらく会えないが、長期戦は覚悟の上だ。
「メール?」
制服のポケットに入れていた携帯が震える。バイブの長さからしてメールだろう。オレは、気づかれないように携帯を開く。メールの受信ボックスに、未読のメールが一通。差出人は……。
オレは、隣の席を見る。結城は、真剣な表情をしてノートを写していた。視線を携帯に戻して、もう一度読み返す。
メールには、短くこう書かれていた。
『放課後、屋上で待ってる』
息を切らして、屋上へ続く階段を駆け上がる。ドアの前で息を整え、大きく深呼吸。大丈夫、どんな結果でもまた笑い合える。
ドアを開けると、一人の女生徒が背中を向けて立っていた。照りつける日差しが眩しくて、目を細める。後ろ姿からでも、緊張していることが分かった。
「結城」
声をかけると、結城がゆっくりと振り向く。
「来てくれてありがとう」
久しぶりに聞いた結城の声は、耳に心地よかった。
「谷本と話すのも、何だか久しぶりだね」
「本当だな」
これまで色々とあった。結城と笑ったり、ぎくしゃくしたり、ケンカしたり。でも、またこうして話が出来ている。それが、何より嬉しかった。
「私、むきになってた。谷本とはもう話すもんかって。子供みたいだよね」
「本当に。結城は頑固だからな」
「谷本には言われたくないなー」
「何だよそれ」
結城と冗談を言い合えている。それだけでも、元に戻ったみたいだ。やっぱり、結城の隣は心地いいな。
少しの間の後、結城が真剣な表情になる。緊張しているような結城とは違い、オレはどこか落ち着いていた。
「この前の返事だけど……」
「うん」
結城が大きく深呼吸をする。そんな結城の言葉を一言も聞き漏らさないようにと、目をそらさずに言葉を待つ。
「嬉しかった。笑った顔が好きだって言われて。そんなこと言われたの初めてだったから」
照れているのか、その顔は少し赤い。その表情に、心臓がどくんとはねる。
「叶うなら、谷本の隣で笑っていたい。好きです」
結城は、真っ直ぐにオレを見つめて言う。その表情は、笑っていた。
「やっと、笑ってくれた」
オレも笑顔になる。結城ははにかんだ後、満面の笑みを見せてくれた。
あんなにも遠かった結城との距離が、今はとても近く感じる。もどかしくて悩んだり、嬉しくて笑ったり。近くて遠かった距離は、これからどう変化していくだろう。
「オレも、もっと笑った顔が見たい」
「うん」
やっと届いた。距離を縮めるように、一歩前に踏み出す。
君まで50cm。