最終話 停戦
クロマイト100B作戦と呼ばれていた『石狩湾上陸作戦』は成功の内に終わった。
日米両軍を中心とした国連軍が石狩に上陸し、夜明けには完全に石狩町とその周辺を占領した。札幌に向けて進撃を開始した国連軍に対し、北日本軍の反撃は効果を表わさなかった。
各所で北日本軍の反撃を排除した国連軍は、札幌市内に突入後、激しい市街戦を展開した後に9月28日を以て道都・札幌を奪還した。
しかしこの作戦を立案した在日米軍駐留部隊総司令官は、北と南からの挟撃による、道南部に展開中の北日本軍を排除する戦略を同時に練っていた。石狩に上陸した米軍が北から、そして函館橋頭堡から第八軍を南から攻め立てる事で、道南部の北日本軍を撃破するのである。作戦名を『スレッジ・ハンマー作戦』と呼んだ。
だが、米軍の網目を掻い潜っていた北日本軍は既に道南部から撤退を完了させていた。これにより彼の挟撃による戦略は失敗した。
それでも札幌の奪還を達成した事で、彼の野望は潰える事はなかった。南日本軍が41度線を突破、北上したのに続き、米軍が10月7日、41度線を越えた。
祖国再統一の好機と捉えた南日本軍は、41度線を突破し、武力を以て北海道北部・南樺太・千島列島を奪還しようと、北侵を続けた。
10月10日には米軍が留萌に上陸。日米両軍が旭川への総攻撃を行い、10月20日に北日本の首都だった旭川(日本人民共和国憲法では東京が法的な首都と定められている)を制圧した。
更に日米以外の国連軍も北日本への進撃を続けた。敗走する北日本軍を追い続け、10月26日には南日本軍が稚内にまで到達し、宗谷海峡を目の前にした。北海道をほぼ制圧した南日本軍は戦争の勝利と再統一への確信を覚え始めていた。
しかし南日本軍と米軍の思惑は、思わぬ所で覆されてしまう。
南日本軍が樺太への上陸を目前に控えた頃、ソ連軍が北樺太から南樺太に進撃を始めたのだ。
ソ連義勇軍は樺太から北海道に攻め込むと、南日本軍と米軍を中心とする国連軍に攻撃を開始した。ソ連軍の参戦に、国連軍や南日本、米国は大きな衝撃を受けた。
ソ連義勇軍の参戦後、北海道は41度線を基点に、両軍の勢力図が南北に何度も入れ換わるシーソーゲームの様相と化した。北海道のほぼ全域を制圧しかけていた国連軍はたちまち後退し、遂には41度線以南に押し戻されてしまった。
挙句の果てには北日本軍・ソ連義勇軍の連合軍の猛攻を受け、折角取り戻した札幌を再び奪われてしまった。国連軍は再び道南地方に追い詰められる形となった。
この時、開戦から既に三年の月日が流れていた。三年経っても尚、戦火は北海道から飛び出る事はなかった。1951年7月から休戦会談が執り行われていたが、1953年現在、休戦の気配は一向に見えなかった。
1953年 1月21日
日本帝国 東京
日比谷ビルの司令部で、総司令官たる彼はかつてない程の葛藤に苛まれていた。自分が提案した石狩湾上陸作戦の成功を機に、この戦争の勝利が見え始めていた折、ソ連義勇軍の参戦によって転回した戦況。
彼は当初、ソ連軍の参戦を信じていなかった。ソ連の参戦は有り得ないと言う部下の将校達の報告を鵜呑みにしていたために、彼の思惑は見事に外れてしまったのだった。
ソ連は義勇軍と主張しているが、明らかに正規軍であった。国連軍を41度線以南まで押し戻したソ連義勇軍は、北日本軍と協力しながら、苦労して取り戻した札幌をいとも簡単に奪っていった。札幌を再び奪われたと聞いた時、彼は激昂したものだった。
戦況は再び、石狩上陸以前の状況に戻ってしまった。ワシントンはいよいよ彼への責任を追及し始めた。そして同時に、彼が反対していたある作戦が、彼の目の前に突き付けられていた。
「……しかし! 大統領閣下、もう一度よくご熟慮され……いえ、そういうつもりはございません」
電話を手にした総司令官が、必死に説得を続けている。だが、その様子から見るに、芳しくないと言う事がよくわかる。
「……私は閣下と同様にこの戦争の勝利を望んでおります。ですが、そのような方法は……ッ!」
耳元に当てた受話器から、何かを聞いたのか。
彼の表情が変わった。
「……はい、閣下。その通りであります」
それは勝敗が決した瞬間だった。
「閣下の仰せのままに。はい、失礼致します……」
総司令官は力なく、受話器を置いた。
「……くそ!」
直後、机の上を思い切り殴る。拳が赤くなった。
経緯を見守っていた秘書に向かって、総司令官は指を指しながら命じた。
「至急、日本政府に通達しろ。我がアメリカ合衆国大統領の意向を申し上げる」
「了解しました」
秘書の将校はメモを取り、部屋から出て行った。一人残された彼は、力が抜けたように椅子に座り込んだ。
今までワシントンの意向を無視してきた彼であったが、とうとうその行いも限界を迎えていた。大統領直々の命令を与えられた以上、実行に移さなければいけなかった。
このまま反対を貫いても、どうせ交代させられ、どの道避けられない。ならばせめて、この状況を導いてしまった責任として、自分が――
「……閣下」
秘書と入れ替わるように部屋に入って来たG2部長が声を掛けた。
「君か……」
「閣下、『フォックス』の行方がわかりました」
「なんだと」
総司令官は頭を上げた。G2部長の方に身体を向ける。
「どこにいる?」
「函館です。フォックスは本州への上陸部隊に加わっている様子です」
G2部長の報告を聞いた総司令官は何かを考えるような仕草を見せた後、頷きながら言った。
「わかった。この案件はこれで終わりだ」
「よろしいのですか?」
意外な返答に驚いたのか、G2部長が訊ねる。
「ああ。我々が直接手を下さずとも、奴の存在は抹消される事が決まっている」
その言葉を聞いたG2部長は全てを察した。
「……わかりました、閣下。それでは私はこれで失礼致します」
「ああ、ご苦労だった」
労いの言葉を受け、G2部長は静かに退室した。
一人残された総司令官は、項垂れるように背もたれに背中を預けた。
何もない空を、彼はただ呆然と眺める。
前日に新たな大統領が就任したこの日、彼の野望は潰える事となった。
1953年2月26日、この日、ある作戦が日米両国の間で合意された。
当初、南日本側は作戦に対する反対の意志を表明したが、再三に渡る説得と会談の末、合意という形に落ち着いた。
それは人類史上、類を見ない決断だった。
後に『東京会談』と呼ばれるようになるこの会談の結果、米国が開発した新型爆弾による攻撃が決定された。
2月27日、新型爆弾が日本本土に移送され、三沢飛行場で組み立てられた。3月1日、新型爆弾はB29に搭載され、投下目標は函館市と定められた。
計画当初はB29の単機による攻撃であったが、南日本軍が作戦の同行を希望。海軍航空隊の戦闘機が護衛機として随伴する事となった。
投下予定日は3月3日の午前8時頃とされた。
1953年 3月3日
北海道 函館市
黒船来航を機に開港した函館は、明治から本土と北海道を結ぶ港湾都市として発展を続けてきた。坂の上には洋館や協会が並び立ち、星の形をした日本の歴史の遺物も残る、歴史の古い街だった。
そんな函館市街に、北日本軍とソ連義勇軍が集結していた。彼らは本土への侵攻を目前に控え、準備に追われている最中だった。
本土への上陸は3月5日と予定されていた。ソ連の本格的な支援と援助を受けられるようになった北日本側は、いよいよ本土へ攻め込まんと活気付いていた。
北海道の制圧を成し遂げた彼らの目には、日本本土の解放……日本解放の未来が見えていた。
先日、日本共産党の党首が「北海道解放」を宣言したばかりだった。
故に北日本軍将兵の士気も高揚していた。津軽海峡を越えたすぐ先は本州である。その足が本州の地を踏む事を誰もが楽しみにしていた。
これまでに多くの武勲を挙げてきた第702独立歩兵連隊も、上陸部隊の先鋒として参加する予定だった。
その連隊長である砂川は、現在も702部隊に属していた。
しかし彼は、『フォックス』である事を、既に辞めていた。
米国との連絡を断った砂川は、米軍に命を狙われる身となった。
こうして函館に辿り着き、生き永らえているが、米軍が自分をこのまま放っておくとは思えなかった。
砂川は米国が必ず何か仕掛けてくると踏んでいた。ソ連軍の参戦を機に、この戦争は北側の優位にある。米国がこのまま何もせず、やられてばかりのままとは到底考えられない。
砂川は坂の上から、市街ごと見渡せる函館港の様子を眺めた。港の内側にはひしめくあうように輸送船がごった返している。それらは全て、上陸用の船だった。武装した船が岸と繋がり、弾薬等を運んでいた。
着々と海峡を越える準備が進む中、敵は一向に逆襲を仕掛けてこない――と思った矢先、遂に函館市の空に警報が鳴り響いた。砂川は坂の上から、空に浮かぶ鉄の要塞を見上げた。
高高度を飛行しているが、砂川は一目でその機体の種類がわかった。米軍のB29だ。よく見ると、戦闘機が護衛に付いている。空襲警報が函館市街に響き渡る。だが、敵機の数はかなり少なかった。
砂川は背中にざわ、と寒気を感じた。
敵機の姿を見た途端に襲った感覚だった。
直感が、彼に伝えていた。
来るぞ。
奴らは何かをする。それだけは確実にわかった。
空襲警報が鳴り響く中、函館市上空に飛来した敵機は何かを落としていった。敵機は全速力で退却を始める。小さな黒い粒のようなものが、函館市のど真ん中に向かって落ちていった。その真下には、幕末の遺物である五稜郭がある。五稜郭の星に吸い込まれるように、黒い粒が落ちていく。ヒューン、という不気味な音が、警報の狭間から聞こえてきた。
パラシュートが開いた。形が徐々にわかってくる。それは粒ではなく、ドラム缶のようにも見えた。
その光景を見守っていた矢先、砂川の目の前が真っ白になった。光がピカッと瞬き、一瞬にして全ての光景を呑み込んだ。
真っ白な光が目の前を包み込んだ時、砂川は意識が引き離されていくのを感じた。身体が白い光に覆われ、溶けるように同化し、閃光が正面から襲ってきた。
目と耳、鼻、全ての感覚が呑み込まれた。砂川は大きな羽毛に包まれるかのような心地良さを感じた。
その瞬間、砂川はこれまでの人生に出会った人や経験、光景を見た。全ての風景が懐かしかった。既に死んだ両親や戦友達の顔が浮かんだ。そして最後に、あの島で出会った女学生と、解放した捕虜の顔が出てきた。
目の前を流れていく記憶の濁流に手を伸ばす。砂川の意識はそのまま濁流に呑まれ、消えていった。
1953年3月3日、函館市に米国が開発した新型爆弾――原子爆弾が投下された。
函館に集結していた北日本軍・ソ連義勇軍の将兵、一般市民合わせ10万人が一瞬にして地獄の業火に焼き尽された。
原子爆弾は第二次大戦中に開発された米国の新兵器だった。しかしこの新兵器を使用しないまま大戦が終結した事で、米国は実戦での使用する機会を失った。
日本で南北両軍の間で開戦し戦況が悪化すると、原子爆弾の効力を知りたかった米国は、戦局の打開と称して、原子爆弾の使用を促すようになった。しかし在日米軍と国連軍を統率していた当時の最高総司令官が頑なに原爆の使用に反対し続けた。
石狩湾上陸作戦の成功によって一時期は好転した戦況が、ソ連義勇軍の参戦によって再び後退を余儀なくされ、札幌が再び共産側の手に落ちると、戦況は二転三転し、国連軍側は遂に北海道から撤退せざるを得なくなった。
だが、この最悪の戦況を覆したのが原子爆弾の投下だった。函館市に投下した原子爆弾の威力は、米国の予想以上の効果を発揮した。共産党軍は街ごと一層され、国連軍側は北海道に戻り、逆襲する機会を得られたのだ。
しかし原子爆弾の使用は南北の間で深い禍根を残す結果となった。核による同族への虐殺を是認した南日本への憎悪は、原爆投下によって北日本国民の心に深く刻まれた。原爆投下の案を最初は反対していた南日本だったが、本州への上陸阻止などのために、最終的に米国の圧力に折れる形となってしまったのだった。
函館への原爆投下以降、戦線はほぼ膠着した。第二の原爆使用が実施される前に、同年7月、北日本、ソ連軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれた。
三年間続いた戦争はここに幕を閉じた。休戦の年となった1953年は、1月に米国での新大統領の就任、3月には函館への原爆投下、その直後にソ連のスターリン書記長が死去し、両陣営で立て続けに状況が変化した事で、休戦に結び付いたとも言われている。
休戦協定は結ばれたものの、原爆によって潰滅した函館を始めとした道南各地の奪回すらできず、41度線どころか北海道の奪還さえ失敗していた。結果、北海道が丸ごと北日本の領域となり、休戦協定もまた津軽海峡を軍事境界線として新たに記されていた。
以上の点から、停戦と言っても実質的に国連軍側の敗北であった。南日本は再統一を叶えられず、北日本は開戦以前より領土を拡張させる事に成功した。
北日本は停戦後、堂々と「北海道解放を成し遂げた我々の勝利である」と宣言。後に北海道戦争(北側からは祖国解放戦争)と名付けられたこの戦争は、北海道を北日本に明け渡す事で、終了した。
ソ連軍は停戦後も北日本内に駐留していたが、10月に完全に撤退。一方、南日本では日米安保条約が締結され、在日米軍が駐留を続けた。
今後半世紀、二つの日本は南北の海峡を挟んで、統一の瞬間まで睨み合う事となる――
終
終了です。ありがとうございました。




