第18話 欺瞞
政治委員の当麻中尉は道庁のある執務室にいた。砂川の部屋と比べると手狭で、政治総本部の資料以外は何もない部屋だった。しかし実務をこなすには十分な部屋ではあった。
当麻は第702独立歩兵連隊の政治将校として、政治総本部から派遣された政治委員だった。彼の目的は連隊の政治的教育と監視。党に忠誠を誓い、党首の名の下で軍部内の政治的活動に勤しんでいる。彼は勤勉で、何事も律儀な男だった。多少感情的な面で昂りを見せてしまう部分があるが、任務に対しては忠実にこなす優秀な人材だった。
そんな彼が共和国最強の第702独立歩兵連隊――通称、702部隊の政治将校として配属される事は彼にとっても適正だった。部隊を統率する砂川と言う男と出会い、彼と共に過ごした年月の間、当麻は未だに彼の内がわからなかった。
不気味な男。砂川に対する第一印象がそれだった。
彼は確かに優秀だった。伊達に702部隊を共和国最強の部隊と謂わしめるまでに育てた人物ではなかった。砂川の腕前は本物であり、軍人として最高に優秀な人間だった。
正に共和国の宝と言っても良いだろう。彼の損失は祖国にとっては大きな打撃となる。個人的な面では好きになれない人間だが、その存在価値は十分に認めていた。
もしそんな彼が敵だとしたら――あまり想像はしたくないものだ。当麻は二人の上司達を送り届けた伍長から受け取ったメモを目の前にしていた。
「……同志少佐が共和国に背くとは思えないが」
いや、正確には思いたくないと言うべきか。
確かに彼の言動や行動は、時々、断固許されるべきではないが、党の意向を無視するような形が見受けられる。
しかし実際には彼の行動が、結果的に祖国への貢献を果たしているのも事実だった。
当麻は机の上にあった書類をてきぱきと処理すると、煙草を口に咥えて一息ついた。
「ふぅ……。今日は特に疲れたな」
政治総本部から派遣された二人の連絡要員を札幌に案内し、更に敵工作員の情報を聞かされた一日は当麻の肉体や精神に大きな負荷を掛ける結果となった。
敵の工作員が、我が軍に紛れているという情報。当麻は俄かに信じ難い話だと思っていた。
しかしそれが決して非現実的なものではないと言う事も、同時に承知していた。故に当麻の頭の中では、様々な思いが入れ混じり葛藤を続けていた。
政治委員の使命は国家の敵を倒す事である。工作員が本当に潜んでいるのなら、見つけ出して始末する事は正に優先事項である。
当麻は二人の上司達が道庁を立ち去る直前に交わした会話を思い出す。
上司の一人、久遠が道庁を去る前に当麻と言葉を交わした。その中で、久遠は当麻に砂川の事を詳細に聞き出した。
彼女は明らかに砂川に疑惑の目を向けていた。いや、むしろ敵意さえあった。無理もない。もし自分が彼女と同じ立場で砂川と初めて出会っていたら、彼女と同じ感想を抱いていたのかもしれなかった。
――同志少佐に一層の注意を傾け、監視せよ。
久遠は当麻にそう命じた。更に久遠は桐崎や砂川に気取られないようにするため、当麻に一枚の手紙を送り付けた。そこには久遠への連絡ルートが書かれていた。
当麻は単身で砂川を監視し、その情報を久遠に送らなければならなかった。
「(確かに俺は同志少佐を個人的に好いてはいない。むしろ嫌いだと言っても良い。だが、だからと言って……)」
監視は政治委員の本来の役目である。何故今更、改めてその役目を自覚しただけなのに、引っかかってしまっている自分が居るのだろう。当麻は自身の胸に何度も問いかけていた。
「くそ。俺は同志少佐を無意識に信じたいと思ってしまっているのか?」
馬鹿な、と。当麻は笑った。
「……政治委員失格だな、俺は」
当麻は処理した書類の中から、ある写真を掘り出した。その写真にはシベリアから帰還した日本兵達の姿が写っていた。
――米軍から『狐』と呼ばれている男は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼は道庁の部屋から、外の市街地に目を向けた。
臭う。彼はその培われた嗅覚を以て、米軍の反攻作戦が近い事を確信していた。
捕虜となった東山中尉から吐き出された『石狩上陸作戦』の内容。そしてフォックスである自分が自ら流した『留萌上陸作戦』と言う偽情報。彼の目論見通り、北日本軍は二つの情報に確信を持てず混乱していた。
捕虜から直々に聞き出した情報と、情報源がはっきりしない情報を比べれば、どちらを信じれば良いのかは一目瞭然だ。だが、それでは何故北日本軍は決めかねているのか。それはこの状況の裏をかいた策略だったからだ。
普通に考えれば、捕虜が吐き出した『石狩』が本当の情報であるだろう。『留萌』の方は明らかな偽物だ。しかし余りにもあからさま過ぎるのだ。
逆に捕虜の吐き出す情報が囮だったとしたらどうする?
そう、異なる二つの情報を忍ばせる事ができた時点で、フォックスの思惑はほとんど成功したようなものだった。
単純な作戦だった。捕虜が正確な日時と地点を吐き出さなかった事も助けとなった。
上陸作戦が成功すれば、北側は苦しい戦いを強いられる事になるだろう。最近の道南での状況を見てもわかる通り、北日本軍は兵站が伸び切ってしまい、補給能力が追い付いていない。制海権を奪われ、あれ程好調だった戦況にも関わらず、檜山に進軍していた部隊のほとんどが飢えに苦しむ結果となってしまったのだ。
開戦劈頭の快進撃から錯覚しがちだが、北日本軍が日本全土を掌握するにはまだその力が足りていないように見える。せいぜい北海道占領が精一杯だろう。本州への侵攻も不可能ではないだろうが、そうなれば南北双方にとっても長く苦しい戦いを続ける羽目になってしまう。
故に上陸作戦が成功すれば、北日本軍は北海道の占領さえ危うくなる。北側の首都とされている旭川を落とし、その勢いで樺太や千島列島にも雪崩れこめば十分に奪い返す事は可能だろう。
だが――それは最後まで北日本のみを相手にした場合だ。フォックスはまた別の機密を入手し、懸念を覚えていた。
――ソ連軍の参戦。
それがフォックスである彼が懸念しているもう一つの情報だった。既に北側の首脳とモスクワ政府の間で秘密裏に交渉が行われている。おそらく北京や平壌も知っている。直接、中朝が交渉に加わっている様子はないので、そちらの参戦は無いと思える。
ソ連は開戦前より北日本軍に様々な支援や援助を行ってきた。ソ連軍自ら出てくる可能性は非常に高かった。
スターリン書記長は米国の躍動によって北海道の占領が不十分に終わってしまった事をまだ根に持っていた。スターリンは米帝国主義の極東支配に強い懸念を抱いている。中国と朝鮮に続き、日本を共産化させる事で、極東を共産主義の支配下に置く事が彼の大きな野望だった。
ソ連軍の参戦は米軍にとっても手強い相手となる。下手をすれば第三次世界大戦に発展する可能性も否めない。
ソ連の動向は米国にとって最も知りたい情報だった。上陸作戦の成功は、ソ連軍の参戦にも繋がりかねなかった。
「上陸作戦はきっと成功する。だが、問題はその後だ……」
フォックスは復旧しつつある札幌の市街地を眺めた。上陸作戦が成功すれば、この街は再び戦場となるだろう。だが、自分の役目は一先ずそれまでだ。任務はほぼ達成された。
彼がどうしてどちらの日本でもなく米国に与し、共和国の体制に反抗する事となったのか――それは北の最果てで、かけがえのないものを失った彼の復讐だったのかもしれない。
彼は札幌の市街地を映す窓から一歩も動かなかった。