第12話 記憶
1939年
北海道 天塩郡天塩町
東山はこの町で生まれた。
警察官の父親と二人暮らしで過ごし、母親は産んだ直後に死んでいた。なので母親の顔を写真でしか見た事がない東山は父の下で一人すくすくと育った。
六年通った尋常小学校を卒業した後、父親の勧めで高等小学校に進学した。警察官だった父親は「勉学は必要だ」と言った。裕福な家庭しか入れなかった高等小学校に進む事は、東山にとっても戸惑いがあった。警察官とは言え、自分の家は決して裕福ではない。だが、父親は「学費の事は心配するな」と言ってまで東山を高等小学校に行かせたのだ。
父親の言い付け通り、東山は高等小学校に進み勉学に励んだ。勉強すればする程、東山の成績はみるみる内に上がった。気が付けば、東山は学校で一、二を争う程の優秀な生徒となった。
しかし卒業を一年後に控えても尚、東山の内には迷いがあった。卒業後の進路にぴんと来ない己の将来像に焦りさえ覚えていた。父親と同じように警察官を目指すのも良いが、それとなくそんな事を言ってみると、父親はこう答えた。
「お前には多くの選択肢がある。よく考えろ」
それだけだったが、東山を更に考えさせるのに十分な言葉となった。
ある日、東山は父親の付き添いで天塩港に行った。天塩港ではニシン漁の帰りの漁船が着いていた。
「ご苦労様です」
「おっ、東山さん。毎度ご苦労さまなこって!」
「どうですか、獲れましたか」
「いんや、駄目だ。最近はすっかりニシンの数が減っちまってるよ」
父親が天塩港付近の駐在に赴任して数週間が経った頃だった。父親はすっかり港の漁師達の顔なじみになっていた。
「昔は天塩の町も栄えたもんだが、今後は衰退していく一方かもしれねえな」
「諦めるのはまだ早いですよ。 若い者が居れば、町は大丈夫です」
そう言いながら、父親は東山の肩を叩いた。
「東山さんの息子さん、噂は聞いてるよ。あんたはこの町の期待の星だ。任せたよ」
「はい」
父親はこうして、たまに東山を連れて港の中を回っていたものだった。
「江宮さん」
最後に訪れた漁港の端に繋留している漁船。その船内に向かって父親が呼び掛けると、中から小さな頭がひょっこりと現れた。
東山は驚いた。
「どなたですか?」
「お父さんの友達だよ」
船内から現れた子供――小さな女の子が。小学生くらいだろうか。警戒するような視線を向ける。その視線が隣にいた東山の方へ向いた。
「………………」
女の子と視線が合った瞬間、奇妙な沈黙が降りた。
沈黙は船内から現れたもう一人の存在によって破られる。
「いやいや、東山さん。はぁご苦労様です。うちの娘が失礼な事を」
「お父さん」
女の子が自分の父親に抗議の視線を向ける。
「やれやれ、お前はどうしてお淑やかに客人を迎えてやれない」
「自分の家でもないのに、こんな所でお淑やかなんてできないわ」
不機嫌そうにそっぽを向く女の子に、女の子の父親は困ったような顔をする。
「ほんと、えろうすみませんね。東山さん」
「謝る事なんてありませんよ。可愛くて、更に船を守ろうとする頼もしいお嬢さんじゃありませんか」
「そんな。いやぁ、最近は船に乗せたのが間違いだったかなと思うように」
「お父さんの馬鹿! もう知らない!」
一声上げると、女の子は船の奥へ引っ込んでしまった。
「申し訳ありませんね。いつもの事ですから、夕方になれば機嫌も治りますんで」
「いや、こちらこそ失礼しました」
「それで、うちに何かご用でも?」
「今度この辺りを含めて、町で防災訓練を予定しています。その件に関して話しておきたい事がありまして……」
話を始める二人の大人を尻目に、東山は先程から感じる船の奥からの視線に向かって振り返った。先程の女の子がじっと東山の事を見ていた。
二人の最初の出会いはそんな感じで、一言も交わす事もなかった。
その後、東山は父親の付き添い以外でも港に訪れるようになった。付き添い以降、勉強の息抜きなどで訪れる事が多くなり、日本海から吹く風を浴びながら歩くのがいつの間にか好きになっていた。そして浜辺で女の子と出会う事も同時に多くなり、やがて二人でよく話すようになった。
「お兄ちゃんは頭が良いって、お父さんが言ってたよ」
「父さんに言われて、ただ目一杯勉強をしているだけだよ」
「ねえ、私にも勉強教えてよ」
「別に構わないけど」
浜辺で遊ぶ事以外に、家や女の子の父親の船の上で勉強を教える事も増えるようになった。二人は――東山と、千歳という名の女の子は――本当に兄妹のようだと周囲から言われるようになった。
千歳と過ごしている内に、東山も勉強や進路の悩みに充満していた日々の中で解放感を得るようになった。
しかしそんな日々も唐突に終わりを迎えた。1940年。欧州で勃発した第二次世界大戦の戦火が拡大し、日本も大陸の戦争から諸外国の圧力を浴びていた最中。積丹半島の沖合で地震が発生した。
マグニチュード7.5に及んだ地震は、北海道の日本海沿岸に被害を及ぼした。地震によって津波も発生し、利尻島から京都府まで日本列島の日本海沿岸の幅広い範囲に津波が到達した。
天塩も津波の被害に見舞われた。天塩郡の内、幌延村内の番屋が流され、天塩港内も津波に攫われた。
この津波で死者も出た。千歳の父親もその一人だった。
千歳は父親を失い、孤児となった。千歳もまた身寄りは父親しかいなかったのだ。そんな千歳を見かねて、東山家は千歳を養子として引き取る事にした。
新たに東山家の一員となった千歳は、東山の本当の妹になった。父を失った事で塞ぎこんでいた千歳も次第に明るさを取り戻すようになった。
その頃、東山は高等小学校を卒業し、陸軍士官学校の門を叩いた。被災地で救助活動を行う兵隊の姿を見た東山は、軍に志願する事を決めた。東山の進路が決まった瞬間だった。留萌駐屯地で試験を受けると、東山はトップの成績で合格を果たし、陸軍士官学校に進んだのだった。
東山が陸軍士官学校で励んでいる頃、日本は対米戦に突入した。千歳もまた勤労奉仕として遠い北方の島にある缶詰工場にまで働きに行った。父親は札幌署への赴任が決まり、家族がばらばらになった時期だった。
東山がいよいよ正式な陸軍士官になろうとした所で、日本は連合国と講和条約を締結した。対米戦は日本の勝利で終わったと誰もが喜んだ。しかし日本と、東山に悲劇が襲った。
ソ連軍の侵攻。不可侵条約を破棄したソ連が、満州・朝鮮・樺太・千島列島等に軍事行動を仕掛けたのだ。ソ連軍はたちまち北海道の北半分まで侵略した。
東山の故郷だった天塩町もソ連軍の支配下に落ちた。やがて留萌と釧路を境に、北海道は分断され日本という国家そのものが分断された。
ソ連軍が最初に上陸したと言う占守島にいた千歳の安否はわからないままだった。
東山は陸軍士官学校を卒業した後、その優秀な成績を買われ、北海道に着任する前にある学校に入学を命じられた。
陸軍内でも極秘の扱いとされたその学校で、東山は諜報や防諜等の教育と訓練を受けた。東山は『中野』の卒業生として最前線の北海道に舞い戻り、分断した片割れの北を相手にした情報室に配属された。
敵と味方に分かれた北海道の地で、東山は敵の情報を集め業務に励んだ。遂に北の共産党軍が侵攻し、札幌が落ち札幌署長だった父親の行方もわからなくなりながらも、東山は自分に与えられた任務を全うしようと働き続けた。
千歳、父さん――
俺は。一体、何をしているのだろう……?
「目が覚めたか、東山中尉」
顔をゆっくりと上げた東山は、無言で目の前にいる男を睨んだ。
男――北日本軍の将校が、まるで冷たい氷のような顔で、東山の顔をじっと見詰めている。
「まずは札幌にようこそ、東山中尉」
東山は自分が椅子に座らされ、後ろに回された両手に手錠が掛けられている事を知る。東山は無言で男を睨み続けた。
「さて、貴官が何故このような状況に陥っているのかは既に察しが付いていると思う。本来ならここで尋問を受けているのは貴官ではなく別の男だったはずだからだ」
男は淡々と言葉を紡いだ。
「しかし我々は万一に貴官の捕獲も想定に入れていた。もしケルマン中佐を連れてこれれば貴官はおまけ程度でしかなかったのだが、生憎ながら貴官が我々のVIPになってしまった」
東山はふと周囲にも視線を走らせてみた。何も無い灰色の壁が四方を囲み、この空間には東山と目の前の男、そしてその後ろに立っている二人の兵士の四人しかいなかった。
「だが我々の目的は特定の情報を手に入れる事で、誘拐自体が目的ではない。貴官もまた我々の欲しい情報を持っていると認めた以上、我々は多大な犠牲を払った甲斐があったと言うものだ」
東山はまだ無言を貫いていた。
「その犠牲に見合うだけの情報を、貴官には吐いてもらいたい。何せ我々は優秀なゲリラ要員を五名も失ったのだからな」
男の口元が初めて緩んだのを、東山は見逃さなかった。
「米帝と東京傀儡政権が反攻作戦を計画している事を我々は知っている。先の松前で死亡したケルマン中佐と貴官が両国の要員としてその作戦計画に関わっている事も。さぁ、ケルマン中佐の分まで洗いざらい喋ってもらいたい」
「………………」
反攻作戦と言う言葉に東山のこめかみが微かに動いたが、そこで初めて東山は口を開いた。
「――断る」
東山の言葉は、灰色の室内にぴんと響いた。
「……即答とはな。さすが情報を守るためにケルマン中佐をその手で屠っただけの事はある」
彼らが連行しようとしたケルマン中佐を、東山が寸での所で手榴弾でゲリラ諸共葬ったのだ。それは事前に二人の間で同意した事でもあった。そして東山もまた、ケルマンとの間で交わした同意の中身に従い続ける。
「俺は東山清里。階級は中尉。言える事はこれだけだ」
「――東山中尉、自分がただの捕虜ではない事をもっと自覚すべきだ。貴官は我々の尋問技術の高さを知らないわけではないだろう」
「………………」
北日本軍の尋問の恐ろしさは国連軍の間でも有名だった。人間の肉体的、精神的限界というものを熟知しているかのような彼らのやり方は、その余りの過酷さによって、捕虜になるより死んだ方がマシと思える程だった。
東山自身も役職柄、それを噂以上に知っているからこそ戦慄を覚えた。
「人というものが如何に脆い存在であるか、その身を以て知る事になる。東山中尉、貴官に想像できるか?自分の意志に関係なく、口から言葉が漏れ出る恐ろしさを。その苦しさを。肉体的にも精神的にも追い詰められた人間の行き着く先を、貴官は好きで知りたいわけではなかろう?」
冷たく紡がれる言葉の節々が、不気味な旋律となって東山の意識に染み込んでくる。
しかしこの意識を、外部から染み込んでくるものから途切れさせる術を、東山は知っている。
中野学校で学んだ技術の一つを、東山は記憶の底から思い出していた。
「………………」
東山は意識をある一点に集中させ、思考を縮小させながら単一化させる。
数字を読み上げる。思考が鉄道のレールのように連なり、その上に数字が過ぎていく。
その先に集中した一点の意識を沈みこませていく。
意識が沈み込む直前、突然訪れた刺激が意識を拡散させた。
「――!」
東山の右頬を、男が叩いたのだ。東山は両手に手錠がかけられた状態で、椅子ごと倒れ込んだ。
一箇所に収斂しかけていた意識が、半ば戻っていた。
「自己暗示を掛けようとしても、我々は如何なる手段を用いてでも貴官から必ず情報を引き出す」
ぼやける意識の中、東山は男の顔を見た。
「では、もう一度聞く――」