第1話 祖国分断
これまでに書いてきた日本が南北分断モノの『南北の海峡シリーズ』としては三作目に当たりますが、本作の内容は日本が南北に分断した直後に起こった北海道戦争を描いています。
北海道戦争は主に史実の朝鮮戦争をモデルとしているので、類似点が多々あります。
その点をご了承の上、ご拝読頂ければ幸いです。
1944年 8月15日 千島列島・占守島
千島列島最北端の島、占守島。東西は20km、南北30km余りの小さな島だが、北はソ連領のカムチャッカ半島、東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本の領土としては最北端の地であった。
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島だ。海抜200メートル未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、樹高約1メートルの這松や榛の木が群生し、夏は15度で濃霧が発生、冬には氷点下15度で猛吹雪にもなる日本領で最も過酷な環境を併せ持つ。
そんな小さな島には日本軍守備隊の将兵、漁業関係の企業の従業員など、多くの日本人が暮らしていた。
「あまりスピードを出すな、日高少尉。もうすぐ村だ。人を轢いたらどうする」
「は、すみません。砂川大尉」
「そんなに慌てなくても、放送には充分に間に合う」
大日本帝国陸軍の砂川徹大尉は揺れる車内で身を耐えながら、運転席にいる日高少尉を窘めた。彼の気持ちは理解できない事も無いからこそ、その声色は柔らかいものだった。
「確かに陛下が御自ら我々にお声を聴かせて頂けると知った手前、落ち着けない気持ちはわかるがな。 事故でも起こして放送時間に遅れたとあったら、それこそ陛下に申し訳が立たないだろう」
前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、又、当日朝にはそれが陛下御自ら行う放送である事、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われていた。
「故にこそ、安全運転を――」
その瞬間、日高が急ブレーキをかけて砂川は思わず前のめりになった。車は急停止すると、日高がハンドルを握りながら荒い呼吸を繰り返していた。
「おい、どうした」
砂川の言葉に返事を放つ余裕もない日高の視線を追って、気付いた砂川が慌てて車内から降りた。外に出ると、車の前に人が倒れていた。
「おい! しっかりしろ!」
倒れているのは少女であった。砂川は少女を抱き起こすと、大声で呼びかけた。
顔を青ざめて動かなくなっている日高に救援を呼ぶよう怒鳴ろうとした直前、少女が砂川の腕の中で目を開けた。
「大丈夫か。どこか怪我をしていないか?」
砂川の言葉はすぐわかるようで、少女は首を横に振った。どうやら無事のようだ。
「轢かれてはいないみたいだな。 すまなかった」
「いえ。 私が悪いんです、ごめんなさい」
初めて開いた少女の口から出たのは、謝罪の言葉だった。砂川が少女を立たせてあげると、少女は二人に向かって頭を下げた。
「私がぼーっとしていて、車が来る事に最後まで気が付かなかったから。 ご迷惑をお掛けしました」
「君は缶詰工場の工員だね?」
砂川の言葉に、少女が驚いた表情を上げた。砂川は笑った。
「その格好を見ればわかるさ。 今日は仕事があるのかい?」
「今日は重大な放送があるからと、特別にみんな休暇の予定です。 でも、工場のみんなで放送を聴かなきゃいけないからやっぱり工場に行かないといけないんです」
「間に合うのか?」
「えっ? 失礼ですが、今は何時なのでしょうか」
砂川は自前の腕時計を見下ろし、その時刻を少女に教える。少女は顔を青ざめた。
「やだ。 もうそんな時間だったんだ……間に合わない」
どうやらぼーっと歩いていたのは本当のようだ。しかし急いでいた自分達も他人の事は言えなかった。
「お詫びも兼ねて、我々が君を工場までおくってあげよう」
「そんな! 兵隊さんのお手を煩わせるわけには……」
「実は我々も遅刻ギリギリでね。 基地にはもう間に合わないから、良ければ工場で一緒に聴かせてはくれないだろうか?」
少女はまたしても驚いたような表情を浮かべた。砂川と日高を交互に見詰めつつ、その口元が緩んでいった。
「わかりました。 宜しくお願いします」
「よし、そうと決まれば善は急げだ」
砂川は少女を後部座席に乗せ、自分も助手席に乗り込むと、運転席にいた日高にGOサインを出した。
「大日本帝国万歳! 大日本帝国万歳!」
丘の上に聳え立つ缶詰工場は、従業員達の万歳三唱が響き渡っていた。その中には、少女と共に居合わせた砂川と日高の二人もいた。
工場に向かう車内で、三人は自己紹介を済ませた。少女は東山千歳と名乗った。北海道から勤労奉仕のためにやって来た15歳の少女だった。
控え目でお淑やかな少女だったが、砂川の気さくな態度に少しずつ打ち解けていった。工場に到達した時には、既に三人は初対面の他人同士という期間を終えていた。
既にラジオの周りには従業員達が集まり、放送が始まる前に三人もその輪に加わる事に成功した。
そして周囲が固唾を呑んで見守ると、ラジオからは重大なる放送の勧告、そして国歌が流れると、誰も聞いた事がなかった我らが君主の肉声が聴こえ始めた。
君主の御言葉に感動し、涙を浮かべる者が続出した。それは様々な意味が含まれていたからだった。
―――朕は帝国政府をして米英二国より其の講和条約を締結する旨をせしめたり―――
大東亜における戦いは遂に講和を成し遂げた事を言っていた。戦争は終わった。しかも講和ではあるが、明らかに帝國の勝利だ。そう断言する者がほとんどだった。確かに米英という二ヶ国に対し講和を持ちこめたのは、勝利と言っても過言ではなかった。
「やりましたね、砂川大尉!」
「ああ、やはり日本は負けなかった! 俺は信じていたぞ!」
特に砂川と日高の内に沸き起こる歓喜の程は特別なものであった。帝国軍人として励んでいた日々が報われたのだ。これ以上の感動は無かった。
あのお淑やかな東山千歳も喜びを露にしていた。若い日高も年上の従業員と笑顔で肩を組んだり、砂川自身も周囲にいた女子工員達と喜びを分かち合った。
日本が連合国と講和を成し遂げた事で、大東亜戦争は終結した。放送から三日三晩、島中はお祭り騒ぎになっていたが、8月18日の深夜。島に異常が起こった。
突如、占守島は敵の砲撃を受けた。砲撃と同時に敵の上陸部隊が奇襲攻撃。講和に沸き踊っていた日本軍守備隊は慌てて敵の正体を探った。そしてその事実に日本軍守備隊の将兵は驚きを隠せなかった。島に奇襲上陸を仕掛けたのは三日前まで戦っていた米英軍ではなく、中立関係にあるはずだったソ連軍だった。
日本軍守備隊は当然、混乱した。
「どうなっているんだ!? 何故、ソ連が我々を攻撃する!」
「中立条約の有効期限はまだ先のはずだぞ!」
「とにかく本土に伝えろ!」
対応を迫られた占守島守備隊は、島に侵攻するソ連軍に対し迎撃を行った。
8月18日深夜から始まった占守島の戦闘は、講和に酔い痴れていた日本軍守備隊の不意を突く形で行われた。日本軍はたちまちソ連軍の猛攻に押され、占守島はあっという間にソ連軍に占領された。
その後、占守島を手始めとしてソ連軍は千島列島に侵攻。同時期に南樺太、満州にまで侵攻を開始した。
このソ連軍の行動は、スターリンの野望が原因だった。想定外の早さで連合国と和解してしまった日本に対し、領土的野心を抱いていたスターリンは日本への侵略を企図。その野望の域は北海道にまで及んでいた。
やがてスターリンの野望通り、ソ連軍は北海道に上陸。北海道の北半分を占領した所で、米国に牽制され停戦した。
ソ連軍の捕虜になった砂川は、シベリア鉄道の貨物列車の中に居た。
大勢の捕虜で溢れ返った車内はぎゅうぎゅう詰めになり、その中で兵士達はシベリアの寒さに打ち震えていた。
あの時、ラジオ放送から三日後の夜も酒を呑んでいた砂川の下に敵襲の報が舞いこんできた。砂川達は上陸したソ連軍に対し自衛戦闘を実施したが、圧倒的な兵力を前に為す術も無かった。
島はソ連軍の占領下となり、将兵と島民、従業員の3万人が捕虜となった。
ソ連軍の侵攻直後、日本軍の将兵達は工場に務める女子工員だけでも救い出そうと奮闘したが、ソ連軍の妨害により半数近くが脱出に間に合わなかった。
その中に東山千歳が含まれていた事を―――砂川は嫌と言う程知っていた。
「オ前タチハ、捕虜トシテ暫クハ、ココデ働イテモラウ!」
シベリアの収容所に連行された数万人の将兵達は、ソ連軍の監視の下で強制労働を強いられた。シベリアの過酷な環境下で次々と兵達が倒れていく中、砂川も又、極寒に震えながら耐え続けた。
半年後、収容所にいた日本軍の将兵達はある決断を迫られた。彼らを前に、ソ連軍は言った。
「諸君ラハ、新日本ノ栄エアル軍人トナル!」
ソ連軍は彼らに新たな日本の建国が行われる事を伝えた。そして、抑留兵達に新日本の軍隊の兵士になるように強要した。当然、拒絶した将兵は容赦なく殺された。
大勢の抑留兵がソ連軍に連れていかれた。とにかく日本に帰れるなら、と手を上げた者も大勢いたが、その者も含めて『再教育』が施された。砂川も同じだった。
ソ連軍に『再教育』を受けた抑留兵達は北海道の地に帰る事が出来た。しかし砂川が見たのは、全く異なる日本だった。
日本人民共和国―――ソ連の配下、北海道の道北で建国された社会主義国に、砂川は降り立った。