ダミー人形
はじめまして、細野です。
下の名前は文明と書いて文明と読みます。よろしくお願いします。
みなさん、わざわざ工作室まで移動していただき、ありがとうございました。もうお分かりかと思いますが、僕が話す怪談は、この工作室にまつわるお話です。
さて、坂下くんは、死にかけた、という経験がおありですか?
……あ、すいません、唐突でしたね。
僕はあります。あれは入学式の前日でした。学校から指定されていたものをひとつ買い忘れていて、じぶんで買いに行ったんですよ。いえ、ただの上履きです。その帰り道、交差点の信号待ちをしていると、右のほうから車が走ってきました。
ちょっとした違和感、というものがありますよね。いつもとどことなく違うとか、なにかイヤな予感がするとか。その車に対して、僕はそういう感じを受けました。ただ走っているだけなのですが、どこか違和感をおぼえたのです。そこで、無意識のうちに、うしろへさがりました。
すると、どうでしょう。車はいきなり歩道に乗り上げてきて、そのままガードレールに衝突しました。あたりにガラス片が飛び散り、僕は避ける拍子に転倒してしまいました。あたりは騒然となって、おとなが僕に「だいじょうぶか?」と、しきりに声をかけてくれましたよ。僕はなんと答えたか、おぼえていません。「はあ」とかなんとか、気のぬけた返事だったんじゃないかと思います。
というわけで、僕は九死に一生をえました……ええ、みなさん、今の僕の話で、すこし疑問に思ったことがありますよね。仮に僕がうしろにさがらなかったとして、あるいは僕が轢かれたとして、僕は死んでいたのでしょうか? こればかりはなんとも言えません。あたりどころが悪ければ、など、いろいろあると思います。そもそも人間が死ぬ条件とは、どういうものなのでしょうか? 僕は知りません。だれも知らないのかもしれません。
さて、前置きが長くなってしまいました。これから僕がする話は、僕と似たような体験をした生徒の話です。もしかすると、このなかには、だれのことか見当がつくひともいるでしょう。そのときは、心のうちに閉まっておいてください。
僕とおなじ学年の生徒ではありません。そもそも今の在校生ではありません。もう何年もまえに、この学校に通っていた生徒の話です。仮にAくんとしておきましょう。Aくんは入学式の帰り道、市内の交差点で信号待ちをしていました。これからの高校生活に胸をふくらませます。中学のときのだらしない生活とはお別れだ、などと、いかにも三日坊主になりそうなことで頭がいっぱいでした。
ところが、そこへ突然、一台のトラックが突っ込んできたのです。Aくんのときは僕とちがって、よけるタイミングが一瞬もありませんでした。トラックの接近に気づいていなかったのです。さいわいなことに、Aくんにはケガひとつありませんでした。窓ガラスも金属片も、Aくんの体を運良くはずれてくれたのです。救急車が来て、念のために病院へ連れて行かれましたが、異常はなく、そのまま帰宅しました。両親はだいぶ心配していたようですがね。
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「坂下くん、ひとつ質問してもいいですか?」
突然、僕は話をふられた。
メモを中断する。
「はい、なんでしょうか?」
「もし坂下くんがおなじ状況になったら、どうしますか?」
「どうする……というのは?」
「次の日から、いつもの日常にもどりますか? それとも、人生観が変わりますか?」
質問の意味はわかった。
けれど、僕はすぐには答えられなかった。
「そういう経験はないので……なんとも……」
「あ、すみません、そうですよね。僕はこのとおり、ふつうに生活しています。Aくんはそうではなかったのです。彼は、ひとの死ぬ条件に興味を持つようになりました」
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ひとの死ぬ条件と言っても、彼は異常者になってしまったわけではありません。
殺人などに興味をもったわけでもありません。
むしろ、こういう言い方が許されるのであれば、とても健全な方向にむかいました。
彼は、車の安全機能に興味を持ったのです。
ひとが死ぬ条件と、ひとが死なない条件、これは補完的な関係ですからね。もっとも、ひとが死なない条件を直接調べることもできません。人体実験でもしてみなければ、わからないことですから。
彼はどうしたと思いますか? ……人形で試すことにしたのです。
ダミー人形というものをご存知でしょうか。車の衝突実験などで、轢かれる役になってくれる人形です。あれはほんとうに精巧に作られているらしいですね。素材こそ、ポリ塩化ビニールというどこにでもあるものですが、各部位につけられたセンサーが、人体に与える影響を測定してくれるわけです。じつは自動車一台よりも高価だと聞きました。
Aくんには、とても手が出せないしろものです。そこで、劣化版でもよいから、自作することにしました。もちろん、ふつうならそれだってむずかしい話です。しかし、この学校には、ずいぶんと教育熱心な物理の先生がいましてね。Aくんの話を耳にして、協力してあげることにしたのです。T先生としておきましょう。
協力といっても、仕組みは簡単でした。まず、ダミー人形を作って、その頭部や胸部に簡単なセンサーをつけます。それをパソコンでシミュレーションするんです。物理計算のフリーソフトも今は充実していますから、手間さえかければ安価に済みます。
なぜそんなことにくわしいのか、ですか? 僕は科学部なんですよ。この話も、科学部につたわっているものなんです。ただ、このことは伏せておいてもらいたいですね。ほかの部員や顧問の先生にめいわくがかかるとよくないので。
さて、話をもどしましょう。Aくんはその日から、放課後に工作室へいりびたるようになりました。科学部のメンバーからの理解もありました。こういうのを、環境に恵まれているというのでしょうか。しかし、実験は最初、あまりスムーズにはいきませんでした。ダミー人形とセンサーのとりつけまではよかったのですが、なにをどうぶつけるとよいのか、それが難しかったんですね。最初、バットで殴るという単純なアイデアがとられましたが、これはすぐにヤメになりました。人間がやると、力加減があいまいなんですね。強く殴ったとか弱くなぐったとか、そういうさじ加減しかできませんし、当たった場所を固定することもむずかしいんです。
ここでもT先生がアドバイスを出してくれました。振り子の原理を使うんです。天井から金属製の糸をたらして、その先に重りをつけます。これを一定の高さまで引いて、人形めがけて落とすんですね。これなら、糸の長さ、鉄球の重さ、落とす位置で、ぶつける強さを正確に計算できます。
こうして、実験は順調に進みました。集まったデータをネットで公開すると、企業のひとも興味をもってくれたそうです。もちろん、実用化できるようなしろものではありませんでした。おもしろい高校生がいるな、くらいの関心だったのかもしれません。いずれにせよ、Aくんは淡々とデータを集め、それを学園祭で発表することにしました。ただ、ここで意外なことに、T先生の横やりがはいりました。鉄球を実演で落とすのは危ない、と言われてしまったんです。そこでAくんは3Dソフトを動かし、実験のシミュレーションを公開することにしました。人形は展示するだけにしたのです。
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「坂下くん、パソコンは得意ですか?」
僕はメモの手をとめた。
「パソコンが得意とは言えませんが、フォトショくらいはさわります」
「写真の加工などはしますか?」
僕は答えにつまった。
この質問は、なにか裏がありそうだ。
慎重に答える。
「明るさや色合いの補正はしますが、切り貼りをしたことはありません」
「どうしてですか?」
「……それは捏造だと思うからです」
ところが、細野先輩は納得しなかった。
「そうでしょうか? むかしからひとは化粧をしますよね。男でも女でもそうです。きれいな服を着て、髪型をととのえ、歯を白くします。これは捏造ですか?」
僕は答えかねた。
質問の意味がわからなかったこともある。
それに、細野さんの問いかけ方は、どこか鬼気迫っていた。
ほかのメンバーもすこし引いていた。
「……あ、すみません、すこし熱くなってしまいました。話をもどしましょう」
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それは、学園祭の前日のことでした。
Aくんは部室にひとり残り、データのとりまとめをしていました。
最後のテストを終え、無事に動いたことを確認した彼は、目をこすります。
時計をみると、八時を回っていました。
あッ、坂下くん、すこしおかしいな、という顔をしましたね。そうです。この学校では原則的に部活は七時までが限度です。しかし、学園祭の前日に限っては、ほかの日よりも遅く、九時まで居残ることができるんです。坂下くんも、もし機会があれば、こんどの学園祭で居残ってみてください。いろんな生徒が、遅くまで作業をしていますよ。
さて、Aくんの準備はぎりぎり間に合いました。あとは帰るだけです。
彼は席を立ち、大きく背伸びをしました。なんともいえない達成感。学園祭は明日からだというのに、おかしな話です。祭りのまえが一番楽しいのかもしれません。
「明日も早いし、帰るか」
Aくんはカバンの整理を始めました。そのときです。だれかひとの気配がしました。
ふりむくと、ひとりの女子生徒が、ドアのところからこちらをのぞいています。
学校の制服を着ていましたが、見かけたことのない少女でした。
上級生かもしれないと思い、ていねいに話しかけます。
「……どうかしましたか?」
「あの……糸は余っていないでしょうか……?」
「糸? なんの糸ですか?」
「縫いつけることができるものであれば、なんでも」
なんだ、学園祭の居残り組か。
そう思ったAくんは、部室のなかを見渡しました。
もともと工作をする部屋です。材料はいくらでもあります。
「これなんか、どうですか? じょうぶですよ」
Aくんは、人形を縫合するために使っていたナイロン糸をみせました。
少女はにこりともせず、
「ありがとうございます……ところで、すこし手伝っていただけませんか?」
と、さらにお願いをしてきました。
図々しいな、とAくんは思いました。
しかし、じぶんの作業はもう終わっているのです。
ことわると、あとで学校で会ったときに気まずいな、と考えました。
「裁縫は得意じゃありませんが、すこしだけなら」
少女はAくんに背をむけると、スタスタと歩き始めました。
Aくんはついていきます。二階にあがり、さらに三階へ。
そこは一年生が使うフロアでした。おなじ学年だったのでしょうか。
「何年何組のかたですか?」
「……」
Aくんは、だんだんと不安になってきました。静かすぎるのです。作業をしている生徒もいなければ、見回りの先生もいません。ただ、ひとつの教室にだけ、明かりがついていました。一年C組──Aくんのクラスでした。少女は、そのまえで立ち止まりました。
記憶喪失になっているのだろうか。Aくんは、少女の横顔を観察します。やはり初めてみる顔でした。Aくんはうしろをふりかえります。暗闇が、ぽっかりと口をあけていました。階段がみえません。それほど遠くはないはずなのに。
ドアがひらきます。少女はAくんを教室に誘いました。
なかにはクレープ屋さんの看板があり、道具が一式まとめられていました。
「なにを手伝えばいいの?」
「わたしの体を治すから、手伝って欲しいの」
少女はふりかえると、制服のシャツを脱ぎ始めました。
Aくんはあっけにとられます。ところが、それは一瞬のことでした。
「ひッ……!?」
少女がシャツをはだけると、血にまみれた肋骨があらわになりました。心臓がその奥で脈打ち、肺がシューシューと、不完全な呼吸をしています。穴が空いているのでしょう。少女が呼吸をするたびに、ポコポコと血泡がたちました。
Aくんは叫ぼうとしました。声が出ません。体も動きません。
「あなたの皮をちょうだい……そうすれば治るから……」
少女はハサミをとりだし、カシャリと空切りをしました。
Aくんは金縛りにあったまま、目を閉じることすらできず、ハサミの先端が迫ってくるのを見守るしかありませんでした。あと数センチ、あと数ミリ──肌に一点が食い込み、そこから容赦なく一センチほど、少女はハサミを入れました。とてつもない痛みに、Aくんは失神しかけました。むしろ、失神したほうがマシだったはずです。少女は皮膚を切りとり始めました。スムーズにはいきません。少女は力を込めて、ねじ切ります。
Aくんは、あまりの痛みに、もうわけがわからなくなっていました。じぶんがじぶんでないというか、錯乱状態に近かったのです。しかし、気絶はしませんでした。少女が胸のあたりを切りとり終えるまで、地獄のような苦痛が続きます。そして、ようやくハサミが抜かれたかと思うと、今度は皮膚を剥がす作業が待っていました。
罪人の皮膚を剥がす刑罰は、世界中にあるそうですね。むかしは、それを見世物にしていたそうです。Aくんはその罪人のように、じりじりと胸の皮膚を剥がされました。もうじぶんがなにを考えているのか、それすらもわからなくなっていました。ただ痛覚だけがあるのです。
「……できた」
Aくんが気づいたとき、うれしそうな少女の顔がみえました。
少女は、Aくんの皮膚を胸に貼り、そっと微笑んでいたのです。
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細野さんは、そこで口をつぐんでしまった。
この場のメンバーは固唾を飲んで、続きを待っている。
「……翌朝、Aくんは一年C組の教室で発見されました。床で寝ているところを、クラスメイトが起こしたのです。傷はなく、血の染みもありませんでした。作業をしていてそのまま寝てしまった、という口実で、彼はなんとかやりすごしました。ただ、その日の学園祭に、彼は例のダミー人形を展示しなかったそうです。その代わりに、シミュレーションソフトで作った映像だけを提出しました。その後、彼は人形を使わず、シミュレーションの研究だけを進めて、卒業したそうです」
細野さんは、ふたたび口をつぐんだ。
話は終わったのだろうか。
僕が話しかけようとしたところで、細野さんと目があった。
「……ねぇ、坂下くん、さっき僕がした質問を、おぼえていますか? フォトショで写真を加工することは、フェイクなのでしょうか?」
「……というのは?」
「僕はもうひとつ、科学部に関する怪談を知っているんです。あそこにパソコンがあるでしょう。あのパソコンでシミュレーションをしていると、ときどき声が聞こえるらしいのです。『もう動かさないで』と。それがどういう条件で起こるのかは、だれも突き止められていませんが……いえ、ほんとうにそれだけの話です。次はどなたですか?」