校庭の人魚
わたしは貝塚澪。マリオくんとおなじ三年生よ。
このようすだと、学年順になったのかしら?
ま、それはどうでもいっか。
とりあえず怪談なんだけど……わたし自身の体験談は、ないのよね。
だから伝聞にさせてもらう。
この学校の裏は、山になってるわよね。そこに池があるのは知ってる?
あ、さすがにみんな知らないか。けっこう大きいの。知らないのは当然だわ。だって、池が常にそこにあるわけじゃないから……うふふ、意味がわからない、という顔をしているわね。この池は、何年かに一度、夏休みのあいだにだけ現れて、それから消えてしまうの。べつに怪奇現象じゃないわ。富士山にも「赤池」っていう、何年かに一度だけ現れる6番目の池があるくらいだから。富士山では雪どけ水が湧いてくるらしいけど、裏山の池は原因が分かっていないわ。山の造成工事をしたとき、古い水道管に亀裂が入ってしまったとか、この学校の下が地底湖になっているとか、いろいろ噂されているみたい。わたしの話は、この池にまつわることよ。
さっきも言ったけど、けっこう大きいの。この学校の五〇メートルプールとおなじくらいはあるんじゃないかしら……坂下くん、ちょっとおどろいてるわね。わたしだって、そんなに大きな池が山のなかにあるなんて、信じられなかったもの。でもね、この山の獣道をすこし登っていくと、あるところから急にくだりになるの。それをさらに行くと、盆地のようなひらけた場所に出る。そこに水が溜まってるのね。
え? どうしてわたしがそんなに詳しいのかって? 友だちから聞いたのよ。そのひとは……あ、所属クラブをいうと、特定されちゃうか。とりあえず、みさおくんとでもしておきましょうか。偽名よ。同名のひとがいたらごめんなさい。
これはちょうど一年前のこと。今日みたいに暑い日だった。みさおくんは、池のうわさを聞きつけて、そこにめずらしい生き物がいないかどうか、調べてみたくなった。彼は水生生物に興味があったの。夏休みが始まったその日に、こっそりと登ってみた。聞いていたよりも悪路で、みさおくんはとても不安になったわ。
でも、なんとか辿りついたの。あたりはシンと静まり返って、蝉の声だけが遠くに聞こえていた。松尾芭蕉に有名な俳句があるでしょ。あんな感じかしら。みさおくんは、その雰囲気に取りつかれたように、しばらく棒立ちになっていた。
「……っと、水を採取しなきゃ」
そう気づいたみさおくんは、早速調査を始めたわ。ただ、足もとが不安定だった。ほとんどが傾斜なのよ。平らな場所をさがすのに苦労して、一本の古木の下に、ようやく安定しそうなところを見つけた。みさおくんは池の水を採取して、それを試験管に保存した。木漏れ日に透かしてみる。
「……透明度がすごい」
生き物は視認できなかった。すくなくとも肉眼では、ね。
水道管から漏れているのか、あるいは地下水があがっているのか、そのどちらかが正しいように思えてきた。水道管の水なら、生き物がいないのは当然だし、地下水だって飲めるものがあるくらいだから。
みさおくんは、池をのぞきこんでみた。
魚の気配はなかった。どこからか飛んできたアメンボが泳いでいるだけだった。
みさおくんは、木の棒をひろって、池の底をさぐってみた。
泥が浮かび上がり、沈んでいく。
「……顕微鏡でみてみないと、わからないか」
今日はこれでおしまいにしよう。そう考えたとき、ふと生き物の気配があった。
数メートル先の水面に目を凝らすと、なにかが動いていたの。
でも、それは彼が期待していたものじゃなかった──長い黒髪が、水面をゆっくりと移動していたのよ。最初、彼は見間違いかと思った。それはそうよね。でも、見間違いじゃないと気づき、だれかが泳いでいるのだとわかった。その黒髪はスーッ……スーッ……っと、間をおきながら進んでいたから。ただ、見えるのはその髪の部分だけで、いったいどういう泳ぎ方をしているのか、見当がつかなかった。
「こんなところで泳ぐひとがいるんだ……」
みさおくんは、あきれつつも、すこし怖くなってしまった。
塩素消毒もされていない、ただの池なの。
いくらきれいに見えても、そこで泳ごうとは思わないわよね。
そして、その恐怖心は、だんだんとふくらんでいった──息継ぎがないのよ。
まるで魚のように、顔は水中のままだった。
みさおくんは呆然とした。その頭部が、こちらに方向転換するまでは、ね。
「うわぁああああああああッ!?」
みさおくんは、がむしゃらに斜面をのぼった。
枝をつかみ、それが折れたらまたべつの枝をつかみ、とにかく逃げた。
もとの獣道に出たら、ふりむきもせず一直線に駆けた。
木々のあいだから学校の白い校舎がみえたとき、みさおくんはほんとうに安堵したわ。地獄からもどってくる道って、そんな感じなのかもしれない。みさおくんは最後まで走りきり、陽のあたる校庭へまわりこんだ。運動部が、いつものように練習をしていた。
「ハァ……ハァ……」
みさおくんは、ひざに手をついて、ようやく立ち止まった。
すると、不審に思った野球部員が、
「おい、そこにいると危ないぞ」
と声をかけた。
でも、みさおくんはもうへとへとで動けなかった。
野球部員はみさおくんに近づき、だいじょうぶか、と心配し始めた。
熱中症とでも思ったのかもね。
みさおくんは、今起きたことを話そうとした。
○
。
.
「ねぇ、坂下くん。坂下くんなら、今見たできごとを話すかしら?」
貝塚先輩は、黒目がちなその瞳で、僕のほうをまなざした。
黙っていれば、深窓のお嬢様にみえる。
腰まである黒髪は、校則違反なんじゃないかとは思ったが、とにかく艶やかだった。
肌も、夏だというのにまったく日焼けしていない。
けれど、怪談の内容と語りくちは、そんな偏見をみごとに打ち破ってくれた。
「僕なら話しません」
「どうして?」
「見まちがいかもしれないからです」
貝塚先輩は、すこしばかり身をひいた。
「あなた、ずいぶんと慎重派なのね。新聞記者として、それでいいの?」
「新聞記者なら、なおさら事実確認をするのが先決だと思います」
貝塚先輩は、「あら、そう」と言った。
「ずいぶんご立派なのね。もしかすると、みさおくんもそういうタイプだったのかも」
○
。
.
「な、なんでもない……ちょっと走ったら疲れた……」
みさおくんは、とっさに嘘をついた。
「疲れてるだけならいいんだが……なんか顔色が悪いぞ。念のため、保健室に行けよ」
「そ、そうする……」
みさおくんはお礼を言って、校舎のなかに入った。
涼しむためというより、いちど冷静になるために、ね。
あれは幻覚だったのかしら? 水面に浮いているなにかを勘違いした?
ありえるわよね。
むしろ落ち着いて考えてみると、なぜあれをひとの頭部だと思ったのか、みさおくんは不思議に感じてきた。動物だったのかもしれないし、不法投棄されたゴミが風に流されていたのかもしれない。みさおくんは、だんだんと恥ずかしくなってきた。
そして、この一件は彼のなかでタブーになったのよ。
一週間後、街に雨がふった。
その日、みさおくんは顕微鏡で、例の水を観察していた。
でも、なにもみつからなかった。プランクトンすらいなかった。
雑菌はいるのかもしれないけれど、さすがに調べようがなかった。
というわけで、みさおくんの努力は、徒労に終わってしまったわけね。
あの異常な体験を残して。
「水死体だった、ってことはないよな……?」
みさおくんは、窓のそとの雨を眺めながら、そうつぶやいた。
だれかが足を滑らせて、溺死してしまったんじゃないだろうか。
そう考えたみさおくんは、不安になった。
池の底は浅かったけど、水難事故と水の深さって、関係がないの。
お風呂場の事故とかがそれね。
みさおくんは、じっとそとの雨を眺めた。
水滴が、窓ガラスをツーっと伝う。
坂下くんは、あの光景が好きかしら? わたしは好き。だれもいない教室で、いつまでも眺めていられるくらい好き。なにもかも洗い流されていくみたいじゃない。
みさおくんがぼんやりしていると、ふいに窓ガラスに色が映った。
おどろいて身を引くと、ひとりの女子生徒が立っていることがわかった。
雨宿りしているらしい。そう気づいて、みさおくんは窓を開けた。
長い黒髪を腰まで垂らした、おとなしそうな女子生徒が立っていた。
「どうしました?」
女子生徒は、なにも答えなかった。
すこし警戒されたかな、とみさおくんは思った。
「部室には、忘れものの傘が一本あります。持って行ってもいいですよ」
「バス停まで……」
少女は消え入るような声で、なにかをつぶやいた。
「バス停が、どうかしましたか?」
「バス停まで、送っていただけませんか……?」
みさおくんは、高校前のバス停のことだとわかった。
そこまで行けば屋根がある。今は夏休みだから、混んでもいない。
傘を持って帰るよりも合理的だと、みさおくんは思った。
「わかりました。僕もバス停まで行きます。そこで傘を返してください」
坂下くんは二本の傘を持って部室を出た。
玄関からぐるりと回って、少女のところまでたどりついた。
みさおくんは、忘れものの錆びたビニール傘をじぶんで使い、少女にはじぶんの新品の傘を渡した。少女はパサリと傘をひらき、ふたりで歩き始めた。
みさおくんは、ちらりと少女の横顔をみつめた。美人だけど、見たことのないひとだった。すくなくとも同学年ではないな、と思った。
「あの……何年生のかたですか?」
「……」
「あ、すいません……失礼しました」
名乗らないほうが失礼よね。
でも、下心があると思われたくなかったから、みさおくんは黙った。
グラウンドには水たまりができていた。
それを避けるように歩いていると、みさおくんはおかしなことに気づいた。
少女は水たまりを気にせずに、そのまま靴をひたしていたの。
深いところもあるから、靴下までびしゃびしゃになっていた。
「こっちのほうは、水たまりがないですよ」
みさおくんはそう言って、すこし寄るようにさそった。
ところが、少女はそれを無視した。
そして、グラウンドの中央、ちょうど一番深い水たまりへ、少女は入りこんだ。
「あの、危な……ッ!?」
みさおくんは、いきなりそでを引かれた。
そのまま水たまりに倒れる──はずだった。
みさおくんは、まるでプールに飛び込んだかのように、全身が水に沈んだ。
水たまりがこんなに深いはずはない。パニックになる。
顔を出そうとすると、足をだれかに引っ張られた。
まるで底なしのようだ。みさおくんは目をひらき、足元をみた。
「がぼッ!?」
口から気泡がもれる。
足もとには、さきほどの少女が抱きつき、陰湿な笑みを浮かべていた。
連れていかれる。そう直感したみさおくんは、やみくもに水面に出ようとした。
右手だけがようやく空気に触れて、グラウンドの砂をつかんだ。
「ッ!」
なにか硬いものがあたった──傘だ。
みさおくんは無意識のうちにそれをつかみとり、水中の少女にむけて突き刺した。
あたりが赤く染まる。足が軽くなり、みさおくんは水面から顔を出した。
「だれかッ! だれか助けてッ!」
みさおくんは、じぶんが水たまりに腰掛けていることに気づいた。
あわてて跳びのき、深さを確かめる──わずか数センチしかなかった。
そして、あの少女と傘も、いっしょになくなっていたの。
○
。
.
「坂下くんは、どう思う? すべてはみさおくんの幻覚だったのかしら? それとも、この学校の地下には、なにか得体のしれないものが住み着いていて、そいつが水から水へと移ろっているのかしら……うふふ、わかりようがないわよね。坂下くんも、雨の日の水たまりには、気をつけたほうがいいわ。もしかするとそれは、とても不思議なところにつながっているのかもしれないから……わたしの話は、これでおしまい」
僕はしばらくのあいだ、あっけにとられていた。
あまりにも非現実的なストーリー。
だけど、記者のしごとを思い出して、「ありがとうございました」とお礼を言った。
次の語り手にうつる。
ただひとつ気になったのは、貝塚先輩の右目だった。
ほとんど……あるいはまったく動いていないような……。
次の語り手が口をひらくまで、僕はその瞳の色に、心をとらわれていた。