婚約者を迎えに帰ったら「底辺冒険者」と笑われました。ですが私は王国が手出しできない辺境の大公になっています
王都から南へ、馬車で十日。
かつて魔物が跋扈し、人が踏み入ることすら許されなかった広大な荒野――《境界領》。
今では石畳の街道が伸び、巨大な城壁都市が築かれ、多種多様な種族が行き交う一大国家となっていた。
その統治者こそ、《境界守護人》の称号を持つ境界大公、レイン・アルフォードである。
五年前まで、彼はただの若い冒険者だった。
故郷に婚約者を残し、「必ず迎えに帰る」と約束して旅立った青年。
王国からの依頼を受け、魔物討伐隊の一員として境界の地へ向かったことが、彼の人生を大きく変えることになる。
境界領には、魔王はいなかった。
だが、それ以上に厄介な存在がいた。
人が住めず、国も手を出せず、何百年もの間、無数の魔物だけが増え続けた"人類未踏の地"。
討伐隊は何度も壊滅しかけた。
仲間を失い、補給も尽き、王国は撤退を命じた。
それでもレインだけは残った。
この土地を放置すれば、いつか必ず魔物があふれ出し、多くの人々が命を落とす。
ならば、自分がここを抑えるしかない。
そう決意した。
五年。
魔物を討ち、道を切り開き、城壁を築き、畑を耕し、村を作り、街を築いた。
魔物と敵対するだけでなく、知性ある種族とは手を取り合い、人間も亜人も分け隔てなく受け入れた。
いつしか境界領には人が集まり、一つの国と呼べるほどの繁栄を築き上げていた。
王国はその功績に最大級の褒賞を与えようとした。
侯爵。
公爵。
王弟に匹敵する地位。
だが、レインはすべて辞退した。
「この土地は王国から与えられたものではありません。ここに住む人々と共に築き上げた場所です」
その言葉を受け、王国は境界領の自治を正式に認める。
そしてレインへ、《境界守護人》と《境界大公》の称号を授けた。
王ですら、軽々しく命令できない存在。
それが今のレインだった。
もっとも――本人はそんな立場を少しも気にしていない。
「ようやく帰れるな」
馬車の窓から流れる景色を見つめながら、小さく呟く。
帰る理由は一つ。
五年前に故郷へ残してきた婚約者、リリアを迎えに行くためだ。
まだ何も持たなかった自分を信じ、「待ってる」と笑って送り出してくれた女性。
だから必ず成功して帰る。
その約束だけを胸に、この五年間を駆け抜けてきた。
「閣下」
向かいの席から声がかかる。
白銀の長い髪。
森を思わせる深い翠の瞳。
人間離れした端正な顔立ちを持つエルフの女性、アイリス。
境界領創設の頃からレインを支え続ける主席補佐官である。
「王都の使節団が、故郷まで同行したいと申しておりました。本当にお断りしてよろしかったのですか?」
「うん。ただ故郷へ帰るだけだからね」
「……閣下は、ご自身の立場を理解されていません。」
アイリスは困ったように息を吐く。
境界大公が王国を訪れる。
それだけで王城では歓迎式典が開かれるほどの出来事だ。
それなのに本人は、昔と変わらぬ旅装のまま馬車に揺られている。
「大勢で押しかけたら、故郷のみんなが緊張しちゃうだろ?」
「……そういうところです。」
アイリスは苦笑した。
この人は、どれだけ偉くなっても何一つ変わらない。
だから皆が慕い、命を懸けて支える。
「先ぶれによりますと、本日はリリア様の商会が創立五周年のお祝いをするとのことです」
嬉しそうにレインが笑う。
「彼女の昔からの夢だったんだ。自分の商会を持つのが」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「もちろんだよ。約束したからね」
その笑顔を見て、アイリスは静かに視線を落とした。
この五年間。
どれほど忙しくても、レインは婚約者のことを忘れた日は一日もなかった。
故郷の話をするときだけは、少年のような笑顔になる。
(どうか……。)
(その笑顔が曇ることだけは、ありませんように。)
やがて馬車は故郷の街へ入る。
昔よりも遥かに栄えた街並み。
中央通りには華やかな飾り付けが施され、多くの貴族の馬車が行き交っている。
「今日はずいぶん賑やかだね」
「この規模を見ていると、創立五周年にしては随分と大きな商会のようですね」
「ああ……本当に夢を叶えたんだ。」
レインは心から嬉しそうに微笑んだ。
その横顔を見つめながら、アイリスは胸の前でそっと拳を握る。
(お願いです。あなたを待ち続けた人でありますように)
そんな願いを胸に、二人は祝賀会の開かれる商会へ向かって歩き始めた。
商会の本館は、かつて町長の屋敷だった建物を増築したものだった。
白い石壁に磨き上げられた大理石の階段。
玄関前には色鮮やかな花々が並べられ、豪華な馬車が次々と乗りつけている。
「本当に思っていた以上ですね」
アイリスが感心したように呟く。
「本当だ。リリア、頑張ったんだな」
(恐らく、閣下がリリアさんの話を至る所でしていたからでは。鼻の良いものは閣下と繋がりを持つために直ぐに好条件でリリアさんと取引したのでしょう)
レインは自分のことのように嬉しそうに笑った。
受付では、燕尾服を着た使用人たちが招待状を確認している。
貴族らしき人物が次々と中へ案内されていく様子からも、この祝賀会の規模がうかがえた。
「閣下、どうされますか?」
「普通に入ろう。驚かせたいから名前も言わないよ」
アイリスは小さくため息をついた。
「……ほどほどになさってください」
二人は受付へ向かう。
「ご招待状をお預かりいたします」
若い男性使用人が事務的に頭を下げた。
「招待状は持っていないんだ」
「……はい?」
「五年ぶりに帰ってきたんだ。リリアに会えれば十分だから」
使用人は怪訝そうな顔になる。
「申し訳ありません。本日の祝賀会は完全招待制となっております」
「そうだよね」
レインは素直に頷いた。
「では、リリアに『レインが帰ってきた』とだけ伝えてもらえるかな」
その瞬間だった。
「……レイン?」
近くで帳簿を確認していた女性社員が振り返る。
レインの顔を見るなり、目を丸くした。
「あっ……もしかして、あのレイン?」
「久しぶり。元気そうでよかった」
懐かしい笑顔を向けるレイン。
しかし女性は笑わなかった。
驚きは、やがて呆れたような表情へ変わる。
「まだ……生きてたの?」
その一言に、アイリスの眉がぴくりと動いた。
だがレインは苦笑するだけだった。
「運が良かったからね」
「みんな、とっくに死んだと思ってたわよ」
女性社員は周囲の社員へ声を掛ける。
「ねぇ、この人覚えてる?リリア様の昔の婚約者!」
数人の社員が集まってくる。
「ああ、あの冒険者?」
「魔物討伐に行ったきり帰ってこなかった人か」
「懐かしいな」
懐かしむというより、面白い見世物でも見つけたような口調だった。
「リリアに会わせてもらえるかな?」
レインは変わらず穏やかに尋ねる。
社員たちは顔を見合わせると、小さく吹き出した。
「今さら?」
「ええ?」
「知らないの?」
「リリア様、今ではこの町一番の商会長よ?」
「今日は男爵家や男爵様の騎士団長様までお祝いに来てるの」
「そんな中で、旅帰りの冒険者なんかに会う時間があると思う?」
レインは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「男爵家まで?」
「そうよ。リリア様はもう、昔とは住む世界が違うの」
アイリスは静かにレインを見つめる。
彼の表情は変わらない。
ただ、婚約者が夢を叶えたことを喜んでいるように見えた。
「それは良かった。本当に努力したんだね」
その言葉に、社員たちは失笑した。
「何を上から言ってるの?」
「自分は何者なのよ」
「そのみすぼらしい格好じゃ、まだ冒険者なんでしょ?」
レインは旅装のままだ。
境界領では動きやすさを優先するため、大公であっても普段着に近い服装を好んでいた。
そのため周囲には、ただの旅人にしか見えない。
社員の一人が肩をすくめる。
「悪いことは言わないわ。今日は帰った方がいい」
「恥をかく前にね」
その言葉を聞いたアイリスが、一歩前へ出ようとした。
しかしレインは小さく首を横に振る。
まだいい。
そう伝えるように。
アイリスは唇を噛み締めながら、一歩下がった。
だが、その翠の瞳からは、穏やかな色が少しずつ消え始めていた。
商会の入口が、不意に静まり返った。
「リリア様がお見えです」
社員の一人がそう告げると、左右に並んでいた使用人たちが一斉に頭を下げる。
階段の上から、一人の女性がゆっくりと姿を現した。
淡い蒼色のドレスに身を包み、宝石の首飾りが胸元で輝いている。
五年前よりも大人びた美しさを纏ったその女性を見て、レインは自然と笑みを浮かべた。
「リリア……」
ようやく会えた。
約束を果たせる。
そんな安堵が胸を満たす。
リリアもレインへ視線を向ける。
しかし、その瞳に浮かんだのは喜びではなく、困惑だった。
「……レイン?」
「久しぶり。約束通り帰ってきたよ」
レインは昔と変わらない笑顔を向けた。
だが、リリアは嬉しそうにするどころか、周囲を気にするように視線を泳がせる。
「どうして……今なの?」
「今日が創立記念だって聞いたから。夢が叶ったお祝いを言いたくて」
レインがそう言うと、リリアは困ったように眉を寄せた。
「今は……そういう話をする場じゃないの」
その時だった。
「何かあったのか?」
低く落ち着いた男の声が響く。
リリアの後ろから、一人の青年が歩み出た。
年齢は二十代後半ほど。
騎士らしい鍛えられた体つきに、胸元には男爵家の紋章。
堂々とした立ち居振る舞いだけで、この場の誰もが身分の高さを理解できた。
「ご紹介します」
リリアは一瞬だけ迷うような表情を見せたあと、男の腕へそっと手を添える。
「こちらはエドワード様。男爵家の嫡男であり、男爵家騎士団団長よ」
その光景に、社員たちは誇らしげな笑みを浮かべる。
「そして……」
リリアはレインを見つめ、小さく息を吐いた。
「昔、お付き合いしていた人です」
婚約者。
その言葉は使われなかった。
レインは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに穏やかな笑顔へ戻る。
「そうか」
ただ、その一言だけ。
アイリスだけは、その笑顔が少しだけ無理をしていることに気付いていた。
エドワードはレインを上から下まで眺め、小さく鼻で笑う。
「ああ、リリアから聞いてるよ。君が噂の貧乏冒険者か」
「えぇ。まぁ間違ってはいません」
「今日は祝賀会だ。昔話をしに来る日ではないだろう」
「それは承知しています。ただ、一言お祝いを伝えたくて」
レインは手に持っていた小さな木箱を差し出した。
「お祝いの品なんだ」
中には、境界領でしか採れない希少な樹木から削り出した、精巧な木彫りの置物が入っている。
境界領では工芸品として親しまれているが、その価値を知る者はごくわずかだった。
リリアが受け取ろうとすると、エドワードが先に木箱を手に取る。
「……随分と軽いな」
箱を開け、中身を一瞥した彼は、興味なさそうに蓋を閉じる。
「木彫りか」
「記念になればと思って」
「悪いが、我が男爵家からは純金の女神像を贈っている」
周囲から感嘆の声が上がる。
「純金ですって……」
「さすが男爵家」
エドワードは木箱をレインへ押し返した。
「気持ちだけ受け取っておこう」
受け取る価値もない。
そう言われたも同然だった。
アイリスの指先に力が入る。
その木がどれほど貴重なものか。
この置物一つで小さな屋敷が建つほどの価値を持つことを、この場で知る者は誰一人いない。
それでもレインは怒らなかった。
「そうですか」
少しだけ寂しそうに笑い、木箱を受け取る。
「大方、リリアが成功したとどこかで聞きつけておこぼれでも頂戴しに来たんだろう?」
「まさか……」
「貧乏冒険者が考えそうなことだ」
「レイン……もう帰って」
「え?」
「もう私達はとっくに終わったの」
リリアは静かに言った。
「私は前へ進んだわ。だから、あなたも昔のことは忘れて」
その言葉に、レインは何も返せなかった。
ただ静かに頷く。
「まぁせっかくここまで来たんだ。これでも持って帰れ」
チャリーン
金貨3枚。
「ここに来ただけで一ヶ月は遊んで暮らせるんだ。良かったな。後ろの亜人とさっさと帰れ」
するとエドワードが使用人へ振り返った。
「彼らは招待客ではない。申し訳ないが、お引き取り願おう」
「……かしこまりました」
使用人たちがゆっくりとレインたちへ近づいていく。
その瞬間だった。
商会の外が、急に騒がしくなった。
その騒ぎは瞬く間に大きくなり、建物の中にいた招待客までもが入口へ視線を向け始めた。
「何事だ?」
「貴族でも来たのか?」
ざわめきが広がる。
やがて、一人の衛兵が慌てた様子で駆け込んできた。
「た、大変です!」
「何を騒いでいる」
エドワードが眉をひそめる。
「王都から使節団がお見えです!」
その一言で会場がどよめいた。
「王都の使節団だと?」
「この町に?」
「まさか創立五周年を祝いに?」
リリアも驚きを隠せない。
男爵家の祝いだけでも十分すぎる栄誉だった。
そこへ王都から正式な使節団まで訪れるなど、聞いたことがない。
「急いでお迎えしろ!」
エドワードは慌てて身なりを整える。
男爵家騎士団長として失礼があってはならない。
商会の社員たちも慌てて整列を始めた。
ほどなくして、豪奢な馬車が正門前へゆっくりと停止する。
王家の紋章。
それだけで町中の人々が息を呑んだ。
さらに二台、三台と馬車が続く。
最後尾には、白銀の甲冑に身を包んだ近衛騎士たち。
その数、数十名。
「お、おい……。」
「あれ、王都近衛じゃないか?」
「こんな田舎町に……?」
会場は騒然となる。
やがて、一台目の馬車から年配の男性が姿を現した。
胸には王国宰相府の紋章。
王の側近として知られる高官である。
エドワードは慌てて片膝をついた。
「男爵家騎士団長エドワード、お出迎えいたします!」
リリアをはじめ、居合わせた貴族たちも一斉に頭を下げる。
しかし、その高官は誰一人見ようとしない。
真っ直ぐ歩いていく。
その先には――。
「……閣下」
レインだった。
高官は深々と頭を下げる。
「お迎えが遅くなり、誠に申し訳ございません」
その場にいた全員の思考が止まった。
「……え?」
誰かが間の抜けた声を漏らす。
高官はさらに続ける。
「陛下より、『無事にご帰郷されたとの報を聞き、心より安堵している』とのお言葉を預かっております」
レインは困ったように頭をかいた。
「だから来なくていいって言ったのに」
「そのようなわけには参りません。閣下は我が国の恩人にございます」
高官の言葉に、エドワードの顔から血の気が引いていく。
閣下?
恩人?
目の前の旅装の男が?
理解が追いつかない。
リリアも信じられないものを見るようにレインを見つめていた。
「それと、こちらを」
高官が一通の封書を差し出す。
赤い蝋には王家の紋章が刻まれている。
「陛下からの親書です」
「ありがとう」
レインは気負うことなく受け取った。
まるで友人から手紙を受け取るような自然な仕草だった。
その様子に、高官も苦笑する。
「相変わらずでいらっしゃいますな」
「形式ばったのは苦手なんだ。何せ元貧乏冒険者なんでね」
二人は旧知の間柄であるかのように言葉を交わす。
誰も口を挟めない。
会場全体が静まり返る中、高官はようやく周囲を見渡した。
「……ところで」
その穏やかな表情が消える。
「境界大公閣下が、このような入口で立たされているのは何故でしょうか」
その一言で、会場の空気が凍りついた。
誰も答えられない。
先ほどまでレインを嘲笑していた社員たちは青ざめ、互いに顔を見合わせることしかできなかった。
高官は静かに周囲を見渡す。
「答えよ」
穏やかな口調だった。
だが、その声には王国中枢に仕える者だけが持つ威圧感があった。
エドワードは額に汗を浮かべながら前へ出る。
「し、失礼ですが……その方は、本当に境界大公閣下なのでしょうか」
高官はゆっくりと彼へ視線を向けた。
「貴様、男爵家騎士団長の分際で疑うのか?」
「い、いえ……」
「だったら、紹介しよう」
高官はレインの横へ立ち、胸に手を当てた。
「こちらにおわす御方は、境界守護人レイン・アルフォード閣下」
「五年前、人類未踏の境界領へただ一人残り、人類史上初めて魔物の大侵攻を食い止められた英雄」
「数十万を超える魔物を討ち、未開の地を国家へと変えられた建国者」
「知性ある亜人種との和平を実現し、人と亜人が共に暮らす世界初の自治国家を築かれた御方だ」
一つ告げられるたびに、会場の空気が重くなる。
「その功績により陛下より《境界守護人》ならびに《境界大公》の称号を授与された」
「その地位は王国の公爵位をも上回り、国王陛下と対等な立場を持つ自治領主」
「陛下であっても、一方的に命令することは許されん」
誰かが息を呑む。
男爵家など比較にもならない。
いや、公爵ですら及ばない存在。
それが先ほどまで「貧乏冒険者」と笑われていた男だった。
「う、嘘だ……」
社員の一人が呟く。
「そんな人が……こんな格好で来るはずが……」
「閣下は普段からこの格好だ。見た目だけで判断するな」
高官は即座に言い切る。
「陛下が何度正装を贈られても、『動きにくいから』と笑って旅装へ戻される」
会場のあちこちから驚きの声が漏れた。
アイリスは小さくため息をつく。
「その話は何度も申し上げているのですが……」
レインは照れ臭そうに笑う。
「だって肩凝るんだよ。王城に行く時はちゃんと着てるだろ?」
その一言に、高官までも苦笑した。
「そのようなお人柄だからこそ、多くの者が命を懸けてお仕えしているのでしょう」
エドワードは呆然と立ち尽くしていた。
先ほど自分は何をした。
その人物へ金貨を投げた。
祝いの品を突き返した。
「おこぼれを貰いに来た」と罵倒した。
全身から血の気が引いていく。
一方、リリアは震える唇を押さえていた。
「境界……大公……?」
その言葉を何度も繰り返す。
五年間。
何度も耳にした英雄譚。
境界領を築いた建国者。
王すら敬意を払う人物。
まさか、それがレインだったなんて。
「どうして……」
思わず声が漏れる。
「どうして教えてくれなかったの……?」
レインは困ったように笑った。
「聞かれなかったから」
あまりにも自然な返事だった。
「それに今日は、肩書きを見せに来たわけじゃない」
レインは木箱を見つめる。
「ただ、約束を果たしに来ただけだから」
その言葉が、リリアの胸へ深く突き刺さる。
自分は何をしたのか。
待つと言った。
帰ってきたら迎えると言った。
それなのに。
自分は「昔付き合っていた人」と紹介し、人前で帰れと言った。
気付けば涙が頬を伝っていた。
「……レイン」
震える声で名前を呼ぶ。
しかしレインは責めることも、怒ることもなかった。
「夢が叶って良かったね」
その優しい一言が、かえってリリアの心を締め付ける。
もう二度と戻れない。
そう理解してしまった。
その時だった。
高官へ何者かが耳打ちした後、視線がエドワードへ向いた。
「さて」
その声には、先ほどまでの柔らかさはなかった。
「境界大公閣下へ金貨を投げ与え、侮辱し、贈答品を突き返した件」
「並びに、正当な理由なく追い返そうとした件」
「貴殿は男爵家嫡男だそうだな。男爵家として、ご説明いただこう」
エドワードは膝から崩れ落ちた。
「い、いえ……私は……その……」
言葉が出ない。
いや、出せない。
何を言っても言い訳にしかならないことを、自分自身が理解していた。
会場中の視線が、彼へと突き刺さる。
先ほどまで彼を称賛していた社員たちは、誰一人助けようとはしなかった。
高官は静かに近衛騎士へ命じる。
「本件は陛下にも報告する。男爵家当主にも事情を伺う必要があるようだ」
「はっ!」
近衛騎士たちが一斉に動き出す。
エドワードの顔色は、死人のように真っ白になっていた。
一方、その様子を見ていたアイリスだけは、胸の内でそっと息を吐く。
(ようやく……ようやく、閣下の価値を理解したのですね)
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……ですが、もう遅いのです」
会場は静まり返っていた。
近衛騎士たちはエドワードを取り囲み、高官は厳しい視線を向けたまま立っている。
誰一人として言葉を発せない。
先ほどまで笑い声が響いていた祝賀会場は、水を打ったような静けさに包まれていた。
その時だった。
「……もう、そのくらいで」
静かな声が響く。
全員が一斉に振り向く。
レインだった。
「閣下?」
高官が驚いたように目を見開く。
レインは困ったように頭をかきながら、一歩前へ出た。
「今日は誰かを罰するために帰ってきたわけじゃありません」
その一言に、高官は眉を寄せた。
「しかし、閣下への侮辱は境界領そのものへの侮辱でもあります」
「それでもです」
レインは穏やかに首を横へ振った。
「皆さんは私が誰なのか知らなかった。ただ、それだけでしょう?」
社員たちは俯いたまま動けない。
確かに知らなかった。
しかし、それを理由に許されることではない。
そんなことは、自分たちが一番よく分かっていた。
「知らなかったとはいえ、境界大公閣下へ金貨を投げつけるなど――」
「もし」
レインは高官の言葉を静かに遮った。
「もし私が、本当にただの貧しい冒険者だったら」
その場の空気が止まる。
「魔物討伐から命からがら帰ってきて、何も持たず故郷へ戻った男だったら」
レインはゆっくりと会場を見渡した。
「その人へ金貨を投げることは、許されることなんでしょうか」
誰も答えられない。
エドワードは唇を震わせながら俯く。
レインは責めるような口調ではなかった。
ただ、静かに問い掛けているだけだった。
「違うだろうね」
その穏やかな一言が、誰の叱責よりも重く響く。
「僕はたまたま境界領で成功しました。ですが、成功した人だけが敬われ、何も持たない人が見下される世界は、僕は好きではありません」
その言葉に、アイリスは静かに目を閉じた。
(……やはり、閣下は昔から何も変わっておられません)
どれほど傷つけられても、まず相手を責めることはしない。
だからこそ、人も亜人も、この人のためなら命を懸けられるのだ。
高官は深く息を吐いた。
「……閣下らしいお言葉です」
苦笑を浮かべながら頭を下げる。
「ですが、公人として見過ごすことはできません」
「ええ」
レインも静かに頷いた。
「王国として必要な調査や対応はしてください」
「ただ、私個人としては恨んでいません」
その言葉を聞き、高官は目を閉じる。
「承知いたしました」
境界大公本人は許した。
しかし、それと王国としての責任は別である。
だからこそ、高官も引き下がることはできない。
エドワードは震える膝を支えながら、かすれた声を漏らした。
「……なぜです」
レインを見る。
「私はあなたを侮辱しました。それに金貨まで……。それなのに、なぜ庇うのです……」
レインは少しだけ考えるように空を見上げた。
そして、小さく笑う。
「境界領ではね、昨日まで命を奪い合っていた者同士が今日には同じ畑を耕していることもあるんだよ」
「人間と獣人。人間とエルフ。人間とドワーフ。昔は敵だった種族同士が、一つの食卓を囲んで笑っている」
会場の誰もが耳を傾けていた。
「もし恨み続けていたら。もし過去だけを見ていたら。境界領は絶対に生まれなかっただろうね」
レインは穏やかに微笑む。
「だから僕は、なるべく人を許そうと決めているんだ」
その笑顔に偽りはない。
それが五年間という歳月の中で、命を懸け続けた男の答えだった。
エドワードは言葉を失う。
自分なら絶対に許せない。
それなのに、この男は許すと言う。
自分との器の違いを、嫌というほど思い知らされた。
一方、リリアは涙を流し続けていた。
(この人は……。何も変わっていない)
優しくて。
人を信じて。
困っている人を放っておけなくて。
そんなレインだったから、自分は好きになった。
なのに。
変わってしまったのは、自分だった。
「……レイン」
震える声で名前を呼ぶ。
だがレインは責めることも、睨むこともしない。
ただ静かに微笑んだ。
「夢が叶って、本当に良かった」
その一言だけだった。
責められる方が、どれだけ楽だっただろう。
優しさだけを向けられることが、これほど苦しいとは思わなかった。
リリアはその場で崩れ落ち、涙を止めることができなかった。
レインは会場全体へ向き直る。
「今日は創立五周年のお祝いなんですよね。私のことで、このお祝いの日が台無しになるのは嫌なんです。どうか皆さん、このまま祝賀会を続けてください。」
そう言って軽く頭を下げる。
その姿を見て、社員たちは誰一人顔を上げられなかった。
祝う資格など、自分たちにはない。
そんな思いが胸を締め付ける。
高官は苦笑しながら呟く。
「……陛下が『あのお方だけは敵に回したくない』と仰る理由が、改めてよく分かりました」
近衛騎士たちも静かに頷く。
境界大公が恐れられているのは、その権力ではない。
どれほどの権力を持ちながらも、それを決して振りかざさない人格だった。
だからこそ、人は心から忠誠を誓う。
だからこそ、王でさえ最大限の敬意を払う。
その事実を、この場の誰もがようやく理解した。
しかし――。
その理解は、あまりにも遅すぎた。
祝賀会を後にするレインの背中を、アイリスは静かに見つめていた。
五年間、ただ一人の女性だけを想い続けてきた人。
だからこそ、誰もその隣へ立とうとはしなかった。
けれど――その約束は、今日終わった。
レインはきっと、まだ気付いていない。
自分へ向けられる想いにも。
ずっと隣で支え続けてきた者の願いにも。
アイリスは胸の前でそっと拳を握り、小さく微笑む。
「……ようやく、私にもチャンスが巡ってきたのでしょうか」
頬をほんのり赤く染めながら呟いたその声は、誰の耳にも届かない。
ただ一人、春を待ち続けていたエルフだけが、密かに未来への希望を抱いていた。
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