春に沈む
吹き付ける春風に花びらを散らされようと、木の洞に包み込んでただ一人を守り抜く。
その四神の名は青龍。
玄関のドアがパタリと音を立てる。
直ぐに後ろ手で鍵を締めたのは、都会に出る時耳にたこができるほど聞かされた物騒な噂話のせいだろうか。
女性の一人暮らしは危ない。
都会に出たら女性はすぐに良くない人間に騙される。
変な男に襲われたらどうするんだ?
自分の身を守れるのか?
そもそもあおいはここから出る必要がないだろう?
そんなことを本気で宣う田舎から出てきて早三年。
故郷の人たちが心配することなど何ひとつ起きていなかった。
誰もいない真っ暗なはずの部屋は、出掛ける時締め忘れたカーテンのせいで、ほのかに明るい。
掃き出し窓の向こうから覗く街の光が、六畳半の小さなわたしのお城を儚く照らしていた。
照明をつけることすら億劫になって、そのまま誰もいない薄暗がりの部屋を歩く。
抱えていた花束もカバンも、全部玄関に置き去りにした。
ちょっと背伸びして買った可愛いけどちっとも実用的じゃないソファを無視して、ラグの上に寝転んだ。
じわじわと痺れるような疲れと、飲まされたアルコールが重りのようにわたしの身体を支配する。
ころりと仰向けになって見上げた天井には、外からのライトが星のように瞬いていた。
ブッと僅かな振動が聞こえ、スマホが淡く光る。
ちらりと見た通知には故郷にいるはずの母親の名前。
暗くなるのが待てなくて、電源ボタンを押す。
それと同時に目を瞑れば、わたしの世界は暗闇に包まれた。
母親からの連絡はきっとまたお見合いの話だろう。
こちらではわたしの年で結婚を意識している人はまだまだ少ないが、わたしの故郷ではそろそろ行き遅れと呼ばれる年頃だ。
だからだろうか。
母親からの催促がずいぶんと増えた。いや、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。
母は……わたしを可哀想だと思っている節があるから。
果たしてわたしは可哀想なのだろうか?
自問自答を繰り返しても答えはいつも一緒だ。
閉じていた目蓋を開けば、部屋の中はほの蒼い光に包まれていた。
ふと、桜の花びらに包まれる幻覚が見えた気がした。
ブブッと再びスマホがどこからかの通知を告げる。
チラリと見れば、どこぞのお店からのバースディクーポンのお知らせだった。
誕生日以降一週間は有効なクーポンを、わたしが使う日は来るのだろうか?
優しいあの人ならもしかしたら……?
じんわりと記憶の縁から湧き上がった蒼い光を捕まえたくて、わたしは自らのてのひらで視界を閉ざした。
視界を閉じる瞬間、手の甲に浮かぶ痣が僅かに煌めいた気がした。
最後に見たスマホのデジタル時計は、明日まであと20分を指していた。
◇ ◇ ◇
……これは夢じゃない。幼い頃の……記憶だ。
さわりと吹いた春風に促されるよう、桜の花びらが辺りをピンク色に染めていた。
仰ぎ見れば花びらに埋もれる青空が僅かに覗いている。
「……なんぞ。ずいぶんと幼い贄だのう」
小さなわたしの身体、といっても当時5歳児だ。18キロ以上はあっただろう。
そんなわたしの首根っこを摘まんで、易々と持ち上げたあの人は、縦に裂けた蒼い瞳孔の目を眇めてどこか楽しそうにそう告げた。
「……わたしはにえじゃないよ。あおいだよ。それにしてもおにいちゃんのおめめきれぇね?」
「……これ、目玉をくりぬこうとするでない。ずいぶんと物騒な幼子よの」
「だって、とってもきれいなんだもの。わたしのひみつのたからばこにしまいたいの」
無邪気で残酷な5歳児を苦笑一つで許してくれるあの人は、ずいぶんと寛大だった。
いや、わたしがあの人を万が一でも傷つけることなどできないという余裕から来るものだったのかもしれない。
「ふぅん。この目が欲しいのかぇ?」
あの人の手によってくるりと抱え直されたわたしは、気づけばあの人の膝の上に陣取っていた。
さらさらと流れるあの人の髪がわたしの頬を柔らかく擽っていく。その感触は今でも思い出せた。
「そうね。きれいだもの。おにいちゃんのかみもきれぇね? むらのみずうみのいろみたい!」
頬を擽る髪をひと房取って光にかざす。
キラキラと日の光を跳ねて輝く青い髪は、宝箱にあるどんな宝物より美しかった。
……そういえば、あの宝箱はどこにやってしまっただろう?
こちらに引っ越す時に持ってきた覚えはない。
「そうさのぅ。あの湖は我の住処なれば……そうなるであろうよ」
「……おにいちゃん、みずうみのちかくにすんでるの? あのみずうみはせいりゅうさまのおうちだから、かってにすんじゃだめなのよ?」
その時のわたしは、親に、大人たちに言われたことが正しいと思い込む幼い思考と、そんな大人たちからの言いつけを破ってみたいと思う好奇心の塊のような人間だった。
そんなわたしを、母はいつか酷い目にあうからと怒っていたけど……。
「我が青龍だからの。それゆえあの湖は我の住処ということだ。はて、村の連中はここに近づかぬよう言ってなかったかぇ?」
「いわれてたけど……。あのぴんくのおはながきれぇだったから……」
指をさした先には、こちらのソメイヨシノより僅かに紅の強い山桜。あの村では一番馴染みのある春の景色だった。
特に村の湖の周りにはたくさんの山桜が植わっていて、春の季節ともなれば美しい花弁が湖を染め上げていた。
「なるほどのぉ」
「ねぇ? おにいちゃんはいつもここにいるの?」
唐突に飛んだわたしの会話に、あの人は蒼い目を見開いた。
そして、ふわりと微笑んだ。……その微笑みは今でもわたしの脳裏に焼き付いている。すこしだけ儚い、寂し気な笑み。
「そうさのぉ。まぁ、別に住処を替えてもよいのだが……。どうにも腰が重くてな」
どこかはぐらかすような、答えになってないその言葉を、5五歳児は額面通りに受け取った。
そして無邪気に約束するのだ。
……神と、それに付随するモノとの契約がどういったものかを知らずに……。
「じゃあおにいちゃん! わたしがいっしょにいてあげる! ずっと! ずっとさみしくないようにね!」
わたしのずっととあの人のずっとに乖離があることに気付かぬまま。
そして契約はなされた。その証は、わたしの手の甲にしっかりと残されている。
……今でも。
◇ ◇ ◇
ブッブッと立て続けにスマホが震え、複数の通知を告げる。
水底に沈んでいたかのようにどこか覚束ない意識をなんとか浮上させて目を開ければ、相変わらず部屋は暗闇に包まれていた。
スマホのバックライトだけが、部屋を照らす。
スマホには友人たちからのメッセージが届いていた。
すっと指を動かしてメッセージを見れば、どれも同じような内容だった。
『お誕生日おめでとう!』
その言葉が、今日に限ってはどこか重い。
そんなわたしの気持ちを表しているかのように、ずいぶんと部屋が暗くなる。
まだカーテンは閉めていないはずだからこそ、この不自然な暗さに……わたしはほっと息を吐いた。
「ねーぇ? やっぱり……こっちで暮らさない?」
ダメ元でそう告げると、部屋の空気が僅かに震えた。
そして明らかな人の気配。わたし以外の。
さっきまでわたし以外誰もいなかったはずの部屋に、明らかにもう一人の存在が増えていた。
可愛さだけで買ったソファに窮屈そうに腰を下ろしたその存在が、おもむろに口を開いた。
「なんぞ? 我の妻となるのがやっぱり嫌になったのかぇ?」
悲しいのぅ。
なんて、そんなこと微塵も思ってないくせに、さらりと青い髪をカーテンのように流して、顔を隠してしまう。
「……そうじゃないって確信してるくせに、意地悪言わないで!」
気持ちを疑われるのは心外だ。
存外にそう告げてみると、青い髪がさらりと揺れて、こちらでも滅多に見ない整った顔がわたしを見下ろした。
縦に割れた瞳孔を愉しそうに眇めて。
「そうさのぅ。あおいはずいぶんとこちらの生活が気に入っているからのぉ。なんであったか……すたばのしーずなるが出るのを楽しみにしておるしのぅ」
「だって! やっぱり季節限定のフラペチーノは飲みたいもん!」
ガバリと起き上がって、ソファの隙間に腰をねじ込む。
小さくて狭いソファは、変に言い訳しなくてもわたしと青龍様の身体をぴたりとくっつけた。
「まぁ、構わぬが……。だが、あおいのご両親に挨拶は必要であろう?」
「……25の誕生日に嫁としてもらい受けると宣言しておきながら、ハタチ過ぎたら速攻手を出してきた青龍様が、どの面下げて……。いえ、挨拶は大事ですね?」
蒼い目が不穏に煌めいたので慌てて口を噤む。
けどね? 一応契約としてはそうだったはずだからね?
じとりと睨み返してみれば、分が悪いと気付いたのか、そろりと視線が泳いでいった。
「あと、こちらで暮らすのであれば、もう少し広い部屋にせぬか?」
さすがに狭いと呟く青龍は、人形でも180センチの長身だ。確かにこの六畳半は窮屈だろう。
「だけど青龍様、無職じゃん」
わたしの鋭い指摘に、もにょりと口元を揺らす青龍様。
まぁ、神様の眷属だから無職ってわけじゃなんだろうけど、人間の生活に適した財産は持ってないんじゃない?
「まぁ、そこは……。どうにでもなるゆえ。なんならたわまんとやらに居を構えることも可能だが?」
「いや、そこまでは求めてないよ。新婚さんが住むのに適している1LDKでイイ感じの部屋さがそ!」
いそいそとスマホを手にとれば、新しいメッセージが届いていた。
「あ、お母さんからだ」
母からのメッセージは、誕生日を祝う言葉はなく。
なぜお前が青龍様の嫁に選ばれたのかという恨み節だった。
「……あおいの母君はあいかわらずよのぉ」
「ねぇ? そもそもわたしが青龍様に会ったのも、あの人がきっかけなのにねぇ」
首を傾げるわたしの腰を力強く引き寄せる青龍様。
この腕の中が一番安心できるのに手放すはずがない。
それを証明するために、わたしはスマホをぽいっと放り投げて、青龍様に口付けを強請る。
あの日、わたしをいらない子だと湖に投げ捨てた母親のことなど、すっかりと記憶の彼方に吹き飛ばしながら。




