うっかりな私
うっかり者の女は、机に頬を押しつけたまま、天井の隅をぼんやりと眺めていた。
妊娠、という言葉が、心のどこかでじくじくと疼いている。口に出すのはおそろしく、黙っていても胸の奥に波のように広がっては押し寄せる。自分がどうしてこの境遇に立たされているのか、考えるまでもない。考えたところで、結論は常に同じである。
彼女はふと立ち上がり、鏡の前に身を移した。そこに映るのは、少し青ざめた顔と、落ち着かない眼差しとであった。見れば見るほど、自分が自分でないように思えて、つい視線を逸らしてしまう。鏡の中の女は、何も言わず、ただ愚かさの証人として彼女を見つめ返すばかりである。
「まあ……どうにかなるだろう」
つぶやいてみる。けれども、その声は心の奥で響くよりも早く、空気の中に溶けて消えた。まるで、他人が気休めに言った言葉を借りてきただけのような、頼りなさである。
人はとかく困難に出会うと、自分以外の誰かが解決してくれるだろうと、漠然と思い込む癖があるらしい。彼女にとっては、それが「親」であった。最悪の事態になれば親がなんとかするだろう、と。実際、それまでの人生で彼女は幾度もその甘い見込みに救われてきた。もっとも、救われたというより、放っておかれただけかもしれないのだが。
窓から差し込む昼の光が、畳に長い影を落とす。女はその影をぼんやり眺めて、まるで別人の人生を覗き見ているような気持ちになった。時計の針がカチリカチリと音を立てるたびに、彼女の中の焦燥がひとつ増えてゆく。だが、その焦燥は行動に結びつくことなく、ただ心の隅を焼くだけに終わった。
彼女は頭を抱え、うつむいた。頭の中では、いくつもの未来が描かれる。産むのか、産まぬのか。男はどうするのか。親は何と言うのか。答えはどれも曖昧で、ひとつとして明瞭な形を持たない。まるで霞の中を手探りするような、頼りない予感ばかりである。
「社会は冷たい」
そう口にしてみると、少しだけ賢そうに響くのが、我ながら可笑しい。社会など、彼女は真面目に相手をしたことがない。相手にされていないと言った方が正しいかもしれないが、その区別を考えるほど聡明ではなかった。ただ、どこかで聞いた文句を繰り返すことで、自分が少し大人びた気分になれるのである。
しかし、冷たいのは社会ではなく、自分の内側かもしれない。結局のところ、彼女は何も決める勇気を持たず、親に頼ればいいと甘えている。まるで、成長という列車に乗り遅れたまま、駅のベンチで居眠りを続ける旅人のようである。
ふと、彼女は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中には、半分飲み残したペットボトルと、色の変わった野菜とがあるだけであった。それを見つめていると、自分の未来も同じようにくたびれたものになるのではないかと、妙な連想が浮かんだ。だが、それも長続きはしない。扉を閉めると同時に、現実の思考も閉ざされてしまう。
「どうしよう」
声を出すと、少しだけ安心した。声が存在を確認してくれるからだ。もっとも、その声は誰に届くわけでもない。自分の耳に返ってくるだけで、返事をするのも自分しかいない。それでも、彼女は繰り返し呟いた。どうしよう、どうしよう、と。まるでその言葉を唱えている間は、決断を先送りにできるかのようであった。
――人は時に、自らの愚かさを直視できず、言葉の反響に逃げ込む。うっかり者の女もまた、そのひとりである。
部屋の隅で、埃をかぶった本が積み重なっている。その中に「自己責任」という文字を背表紙に刻んだ指南書があったが、彼女は手に取ろうともしなかった。知ってしまうことの方が、よほど怖いのかもしれない。無知はしばしば哀れであるが、同時に幸福でもある。
彼女は再び机に突っ伏した。窓の外で鳥が鳴き、どこか遠くの子供の声が響く。未来は目の前にあるのに、彼女にはまだそれを見据える勇気がなかった。ただ、時間が過ぎてくれることを願いながら、うっかり者の女は、同じ言葉を胸の内で繰り返した。
「どうしよう……」
それは祈りでもなく、決断でもなく、ただ己の愚かさをなぞるための呪文であった。