六話 『外』
満に連れられて『外』に出ると、世界は朱に染まっていた。赤も青も黒もある、様々な色に溢れた景色だけれど、何物もその鮮やかな朱から何の影響も受けないということは叶わない。そんな中で、朱が最も綺麗なのは天井だ。その天井は遥か遠く、何千年、何万年かかったとしても、そこに手を触れることはできないと思われる程高くにあった。橙に染まった天井は、けれど絵の具を塗ったという表現は絶対に当てはまらないだろう。天井を染め上げた橙は、それ自体が光を放っているように強烈だ。天井程高くはないけれど、とても背の高い何かが、そこら中にあるために、天井は切り取られた絵のように、視界の一部にしか映らない。
ひんやりとした空気が風となって首筋を撫でてきて、僕は思わず首をすくめた。
不意に頭頂部をポンと叩かれた。
「首、痛くなんねぇのか?」
言われてみると、少し痛いかもしれない。そこで首を回したら、コキコキと小気味良い音が鳴った。
「それよりこの天井、すごく高くて綺麗だね」
そう言うと、満はまた変な顔をした。また僕が何かおかしなことを言っちゃったのかな? 昨日から満は変な顔ばかりしている気がする。
「天井? 空じゃなくてか?」
「これが空? あの、たっかいところにある天井が?」
成る程。空って言うのはあの天井のことだったのか。だとしたら、空には雲がある筈だし、昼間には太陽がある筈だ。どこにあるのだろうか。
「だから天井じゃねえって。空には果てがねえから触れねえけど、天井って言うのはある意味壁と一緒でちゃんと触れんだろうが」
果てが無いから、空はあんなに高いところに見えるのか。でも、触れないのに見えるっていうのはどういうことなんだろうか。見えるってことは、触れそうなものなのに。
「じゃあ雲は? 太陽はどこにあるの?」
思考に話が追いつかない。疑問は次々に出てくるのに、それに対する満の返事は緩慢だ。餌を求める雛の様に、湧き出てくる疑問を次々に口にしていると、満は途中で答えることを放棄して何かを払うような仕草をした。
「ガキかてめぇは。うるせぇな」
何故か満は機嫌を損ねたようで、状況がわからなくてきょとんとしている僕を置いて、一人でさっさと歩いて行ってしまう。満を見失いそうになったところで、漸く自分が満をついて行かなくてはいけないことに気が付いた。慌てて満を追いかけたものの、右に、左に何度も曲がるので、僕はすぐに満を見失ってしまった。
右も左もわからない、というのはこういう時に使う言葉だったのか。
ふと思い浮かんだ言葉が、今の状況にぴったりだと思って、僕は少しだけ楽しい気分になった。とはいえ、見知らぬ場所に一人。どこかに案内してくれる人もいないので、何をすればいいのかが全くわからない。満を探すべきなのか、ここから動かない方がいいのか。色々考えたようで、実は何も考えなかった結果、僕は満を探すことにした。探すと言っても、気まぐれのように左に曲がって、右に曲がって、興味深く周りの景色を楽しんでいるだけだった。その間に、空の色は少しずつ変わっていった。朱一色だった場所に、一筋、二筋と藍に近い色が交じっていき、その内に赤紫になった。
この後はどんな色になるのだろう。そのことに気をとられて、満を探していたことも忘れ、空を見上げて歩いていたら何かにぶつかった。
「うわっ」
耳慣れない、頭に響く声がすぐ近くで聞こえて、僕は人間にぶつかったのだと認識した。全くの予想外の軽い衝撃に、僕は二、三歩たたらを踏んだ。空を見上げていた視線を下げると、目の前には緩やかに波打った髪を長く伸ばしている人がいた。背の高さは丁度僕の顎の辺りまで。よくわからないけれど、髪が長ところから考えると、少女なのだろうか。
何か話かけるべきなのか、何も言わずに通り過ぎるべきか迷った僕は、誰かがその答えを示してくれないかと、辺りを見回した。
「ちょっと、人にぶつかっといて謝罪の一言もないの? ちゃんと前見て歩きなさいよ」
大きく張り上げられた声に驚いて正面を見ると、少女は腰に手を当てて僕のことをしっかりと見据えていた。当然だけど、人に見られることに慣れていない僕は、さらに困惑して「あぅ」だとか「うぐ」だとか意味のない声が漏れた。
「あなた喋れないの?」
いくら経っても、言葉を話そうとしない僕に、少女は息を吐きながら尋ねた。少女の視線が多少緩んだことを感じた僕は、ほっと肩の力を抜いた。そして、そのことで初めて自分が緊張していたのだと気が付いた。もし、毎回こんなふうになるのだとすれば、人間と関わるのは面倒くさい。やっぱり僕には『外』での生活は合わないんだろう。僕と彼女だけしかいない、あの平和な世界にはどうやったら帰れるのだろう。
「ねぇ、喋るか、頷くか、何かしら反応したらどう? そろそろわたしもキレていいかな?」
そう言われて初めて、少女が怒っているのだと気付いた。ただ、何に対して怒っているのか分からない。
「ええっと、とりあえず、ごめんなさい」
「何に対してよ」
よく判らなかったから、謝ってみたら問われてしまった。言われてみれば、僕は何に対して謝ったのだろうか。いや、判らなかったからこそ謝ったのだったか。あれ? これじゃ話が戻っちゃう。答えが出ない。なんだか頭が混乱してきたから、一度全てをリセットして考え直すことにした。
「何の話をしてたんだっけ?」
一から始めようと思って少女に尋ねたところ、少女の回答からは僕が求めた筈の情報は含まれていなかった。
「馬鹿? ねえ、あなた馬鹿なの? 何の話をしてたどころか、まともな会話もしてないでしょ。もういい、馬鹿を相手にするのは疲れるだけだしね」
少女は大きく息を吐いてから、僕に背を向けて歩き出した。一歩一歩確実に離れていく背中を、僕は無感動に眺めていたのだけれど、自分でもよくわからない感情から、彼女の後について歩き出した。
少女が一歩進むごとに、その背中で左右に揺れる長い髪に引かれるように、僕は全く何も考えずに少女についていった。さっきまであんなに眺めていた辺りの景色に全く目もくれず、右に曲がり、左に曲がった。半ば意識はなく、惰性で動いているような物だった。当然、自分が何処へ向かっているのかも判らなければ、どういう道筋を辿ったのかも判らなかった。
どのくらい歩いたのか。少女が歩みを止めたのは、空が真っ黒になってからだった。真っ黒で何も照らし出さない空のかわりに、地面に等間隔に突き刺さっている棒のような何かが、ぽつぽつと無機質な光を放っている。点在する灯りの中の一つの真下で止まったかと思うと、少女は長い髪を翻すようにして、くるりと僕のほうに振り返った。柔らかい感じに広がった髪は、闇が滝となって流れ落ちるように黒く、滑らかで、それを照らす光を吸い込んでいる。闇のなかに浮かび上がるように、少女の姿が照らし出される。赤や黒といったはっきりとした色の服から伸びている手足は、色がないのかと疑うほど白い。それ故に、色のある黒瞳や鮮やかな桃色の唇が際立って見える。
「さっきからずっとわたしのことつけてるみたいだけど、何か用でもあるの?」
そう聞かれても、僕は少女に用事があるわけでもないし、何で少女の後を追っていたのか自分でも判らない。その理由を少女が教えてはくれないだろうかと思っていたくらいだ。そんなことがあり得ないこともわかってはいたけれど。
さっきと同じように、じっと少女を見つめたまま無言で佇んでいると、今度は少女も腕を組んで、じっと僕を見つめ返してきた。てっきり少女が何か話してくれるのだと思い込んでいた僕は、することが見当たらなくなって落ち着かない。
僕の方から少女に何か言うべきなのかこのまま突っ立っていればいいのか。それとも、今すぐにでも少女に背を向けろと言うことなのだろうか。少女は何も言ってこないけれど、その視線には妙に尻込みしてしまうような迫力があった。
すっかり暗くなった空に無機質な光、左右を固い壁に挟まれ、動くものは何もなかった。風がなく空気が澱む空間で、時間までも歩みを止めてしまったかのような錯覚を覚える。僕は動かないのではなくて、時が刻まれない為に動けないのではないか、と半ば本気でそう考えた。