五話 僕と少年
サクト――漢字で書くと「朔兎」が、満から僕に与えられた名称、名前になった。名付け親の少年――満が言うには、由来は適当で、敢えていうなら格好良いからということだった。
満はその後も、僕に幾つも質問をしてきた。歳はいくつだとか、学校はどこだとか、家はどこだとか。けれど、僕は自分の誕生日なんて知らないし、学校にも通っていない、自分の家がどこかなんて当然知っているはずもないから、満の質問には殆ど答えられなかった。わからない、と僕が答える度に満は変な顔をした。満との会話が終わってからゆっくり考えた結果、それは不審や怪訝を表した表情だったのではないか、ということに思い当たった。満の言葉から察するに、この世界では、自分の家がある場所を知っているのも、僕くらいの年齢の人間が学校に通うのも当たり前、ということみたいだ。当たり前のことがわからない、していないということなら、それを不審に思うのは、きっと当然のことの筈だから。そしてそれから、まるで本の中の世界みたいだな、なんてことも、少しだけ考えた。
翌日、目が覚めると部屋には誰もいなかった。昨日起きたときは夜だったから気にならなかったけれど、この部屋には窓があったようで、そこから入ってくる白く鋭い光に、僕は目が眩んだ。起きた瞬間まだ寝ぼけていた僕は、その光に一瞬で現実に引き戻された。暫くして光に目が慣れてくると、ベッドの横の机に食べ物と、雑な字で何か書かれたメモが置いてあるのに気が付いた。
《朝飯置いとく。食え。昼は冷蔵庫のもんテキトーに食っていいから。
あと、すきなようにしてていいけど、部屋からは出んな 満》
置いてあった食事はすっかり冷めていた。とはいっても置いてある食べ物は、少し焦げたトースト二枚とそれに塗るようだと思われるジャムだけだ。温かくても冷めていても、それほど美味い不味いの違いがあるものでもない。僕はそれをベッドの上でもそもそと食べた。
齧って、噛んで、噛んで、噛んで、飲み込む。食べるというのは、単純な動作の繰り返しで、しっかりとその動作を意識して行っていると、トーストはすぐになくなった。いつも以上にしっかりと噛んでいたのか、奥歯の方に無視できるくらいの鈍い痛みが生まれていた。
食べ終わってしまうと、特にすることもなく暇だった。それは僕と彼女の世界でも同じだったから、何を感じるということも無かった。でも、ベッドの上でぼーっとしていると、部屋の中にあるものに興味が出てきた。満が書いたと思われるメモには、部屋から出なければすきにしていていい、というようなことが書かれていたから、部屋の中を散策しても問題は無いはずだ。
そう思って、僕はベッドから降りた。よくわからないけれど、電子機械のようなものに触るのはなんだか怖かったから、本棚に歩み寄る。収まっている大量の本のうち活字の本は数えるほどしか無く、その殆どがマンガだった。そのうち幾つかのマンガは見たことがあるものだったけれど、僕が知らないマンガの方が圧倒的に多かった。なんとなく目についたタイトルのマンガを数冊本棚から抜き取ると、僕はその場に座り込んで読み始めた。活字の本の方が読み応えはあるし好きだったけれど、見たところ本棚に入っているものは、全て一度は読んだことがあるものだった。どちらにしろ、単なる暇つぶしだからつまらなくても構わないわけで、どうせなら知らないものの方が新鮮な感じがしていい。
何かを集中して読んでいると、時間が経つのも簡単に忘れる。
僕が手に取ったのは随分と長いシリーズものだったようで、一冊読み終わってはそれを自分の横に置き、次の巻を本棚から引き抜いてまた読み始めるということを繰り返していると、僕の周りにはいつの間にか二、三十冊のマンガが積み上げられていた。それでもまだまだ続いているようだから、かなり長い。適当に選んだにしては、暇つぶしとして最高だった。それとも、巻数が多いから目につきやすかったのだろうか。だとしたら適当に選んだわけだけれど、ある意味必然とも言えるのかもしれない。
カチャン。
不意にした音に振り返ると、満が部屋に入ってきた。
窓から入ってくる光は赤みを帯びて柔らかく、起きた時のような鋭さも、眩しさも無くなっている気がした。それでも、その光に気が付いてしまうと慣れ親しんだものと、全くといっていい程質の違う光に少し戸惑った。けれど、部屋に入ってきた満がすぐに電気をつけたようで、部屋の中が硬質で冷たい感覚のする電灯の光に照らされて、僕は小さくホッと息を吐いた。
「お前、起きてたんなら電気つけろよ」
部屋に入ってきた満は、本棚の前でマンガに囲まれて座っている僕を見てそう言った。僕はそれに小首を傾げてから「これ、面白いね」と僕の周りに積み上げられたマンガの山を示した。
「あ、あぁ。そうだろ? オレのお気に入りだぜ」
妙に歯切れの悪い返事をした満だったが、表情は笑っているようだ。
「それより夕飯、何か食べたいものあるか? 何だったら今からコンビニでも行って買ってこよーぜ」
今入ってきたばかりの方向を指さして満が言った。頷きかけた僕だったけれど、朝にみたメモの内容を思い出して首を傾げた。というか、コンビニって何だろう。
「ここ出ていいの?」
「何言ってんだ?」
疑問系で返されたけれど、何でそんなことを言われるのかがわからない。出るなっていったのは満のはずなのに。仕方がないからベッドの横の机に置いてあるメモを指した。
「あぁ、あれに書いたことかよ。あれは俺がいない間に勝手に出んなっつーこと。お前鍵持ってねーから、お前が出ちまったらこの部屋開けっ放しになんだろーが」
コンビに行くか? 再度問いかけてきた満に、今度は素直に頷いた。僕と彼女しかいなかった世界にいられなくなって『外』には一回出た筈だけれど、正直何も覚えていない。自分から積極的に行きたいと思うほどでもないけれど、『外』に興味がないわけじゃないから、せっかくだから『外』というのがどんな世界(場所)なのか見てみたいとも思う。
着替えるからちょっとだけ待ってろ、と言うのでもう少しマンガを読んでいようと思うと、いくらも読まないうちに満に読んでいるマンガを取り上げられた。
「あ……」
それに没頭していただけに、無理矢理取り上げられたことに不快な気持ちになった。けれど、僕はそれをどう表現したらいいのかがわからずに、マンガを追った視線が、満の視線にぶつかった。
「行くんだろ?」
低い声で言われて、僕は反射的にコクン、と頷いた。そして、満に引っ張られるままにその部屋を出た。