四話 名前
次に気が付いた時、僕は部屋らしき知らない場所でベッドに寝ていた。正確に言えば、ベッドの上に寝かされていた。仰向けにされて、ご丁寧に布団までかけてある。とにかく、ここは僕の部屋じゃない。何で僕はこんなところにいるんだ? と思い、気を失う前、否、ただ寝ていただけだったっけ? どちらにしても、その前に自分の身に起こった事の記憶を、少しずつ掘り起こす。まあ、大して時間が経っているわけでもないから、掘り起こすなんて言っても、さほど苦労せずに何が起こったのかを思い出してきた。
朝起きたら、彼女じゃない人間たちが部屋に入ってきて、そいつらに、僕は部屋から引きずり出されて、初めて『外』に出たんだ。それで、隙をついてそいつらから逃げて――
「起きたのか?」
横からいきなり声を掛けられて、僕は一瞬体を硬くした。体は起こさずに、顔だけ横を向くと、さっき(だと思う。寝てたから時間の感覚はないけど)『外』で会った少年だと思われる人が、盆に何かを載せて部屋に入ってきた。さっきとは違い明るい部屋なので、僕は寝ぼけ眼で少年を観察する。明るい茶の短髪に、真っ黒な目。着ている服も全体的に黒っぽい。あとは……なんて言うんだろうか。あぁ、僕よりは少し肌がが茶色いかな。とは言っても、彼女以外の人間なんて、今日まで見たことがなかったから、上手い表現が浮かばない。別にそれでもいいのか、見ている僕は特には困らないわけだし。誰かに説明する必要だってないもんな。
少年はベッドの横の小さい机に持って来た盆を置いて、その横に椅子を持ってくると、そこに座った。
「腹減ってるだろ? これ、食えるか?」
そう言って少年が僕に差し出してきたのは、彼が盆に載せて持ってきた、お椀一杯に装われた粥だった。僕はゆっくりと体を起こして、それを受け取った。見た限り、具は白いご飯に埋もれかけて、その隙間から少しだけ顔を覗かせている卵の塊だけのようだ。ご飯自体にしても、水分が多すぎて、殆ど原型を保っていないように見える。
「……頂きます」
一応そう言ったものの、喉がカラカラに干涸びている所為で、声が掠れて、かなり聞き取りづらくなっていただろう。それでも、ちゃんと声が出ただけでもまだマシだ。
ともかく、お椀と一緒に少年から手渡されたレンゲで粥を救って、ゆっくりと口元へ運ぶ。それを見てか、少年は少し頬の筋肉を緩めたようだった。
『彼女』が作ったものというわけでもない。普段なら、それは僕の食欲をそそることなんてなかったんだろう。けれど、今はそんなことも言っていられない。朝から何も食べていないだけじゃなくて、僕を『外』に連れ出した奴らから逃げるために、かなりの体力を消費して、気を抜けば飢え死に出来るんじゃないか、と思える程腹が減っていた。
そのお陰で、僕には少年によって差し出されたお椀の中身が、これ以上ないごちそうに見えた。とは言っても、いつ作られたのか、すっかり冷めてしまっているそれは、あまりに多い水分のため、かめるだけの歯ごたえもないご飯に、素材自体の味すら感じにくい卵と、お世辞にも美味いとは言えないものだった。
それでも、今は少しでも飢えを満たせれば、味なんて関係なかった。
けれど、すっかり乾いてしまっていた喉は、その異物をうまく飲み込めずに、僕は激しく咽せた。
「だ、大丈夫かっ?」
……慌てて、いるのだろうか。少年は椅子から立ち上がりかけた中腰の姿勢で、忙しなく視線を動かしている。
息を吸う間もなく咳が続き、あまりの苦しさに少しだけ目の端に涙が出てきた。それが少し落ち着いたところで、僕が水がないかと僕は視線を部屋の中を彷徨わせると、少年が持ってきた盆に、コップが載っていた。手を伸ばすと、それに気付いた少年の方が先にコップを持ち上げる。
「これか?」
僕は、目の前に突き出されたそれを受け取って、その中に入っている液体を口に含んだ。それを飲んで、喉を潤すとともに、さっき飲み込み損ねた粥を食道に流し込む。二口、三口飲んで、喉の痛みや咳が収まってくるまで待ってから、僕はお椀に残っていた粥を、無言で口にかき込んだ。
その間、少年も何も言わずに、ずっとどこかを眺めているようだった。
「……ごちそうさま」
最後の一粒まできちんと飲み込んで、僕は少年にお椀を返して言った。
「んぁ? ……あぁ。うわ、綺麗に食ったなぁ」
まずかっただろと、お椀を受け取ると、少年は口の端を少し持ち上げて、目を細めた。自信はないけど、少年は笑ってるのかなと僕は思った。彼女は笑うと目が細くなって唇の端っこが持ち上がるんだ。
「んで――、ちょっと聞いてもいいか?」
暫くの沈黙があって、少年が口を開いた。こくん、と僕は返事として首を縦に振った。
「あ、そう。えーっと、まず……お前、名前は?」
名前? 僕の? そういえば、僕が彼女に名前を呼ばれたことって、あったっだろうか? 僕が覚えている限りでは一度もなかった筈だ。よく考えれば、僕も彼女を名前で呼んだことはない。彼女の名前なんて知らないし。知らなくても別に困らなかった。あそこには、僕と彼女しか、いなかったのだから。お互いを呼ぶのには「ねぇ」だとか「あの」だけでも十二分にこと足りた。だけど、きっと彼女には名前があったのだろう。もしかしたら僕にも。でも、そんなことは関係ないか。どちらにしろ、少年の問いの答えは同じなんだから。
「……知らない」
その答えが気に入らなかったのだろうか。少年は、まず目を大きく見開いて、それから眉根を寄せた(で、使い方間違ってないよね)。
「はぁ? そりゃないだろ」
「でも、僕の名前なんて聞いたことないし……」
そういえば、僕がいつも読んでいた本の中のキャラクター達は、必ず何かしらの呼び名を持っていたっけ。外の世界で生きていくには、名前を持っていないとといけないのか。
「んなわけねーと思うけどな……どうしたもんかな」
そう言って、少年は僕から目を逸らして、部屋を一度見回した。その視線を追って、初めて僕は自分の寝かされていた部屋を観察した。
板張りの床、多分フローリングっていうやつで、広さは今僕が寝かされているベッドが十個入るくらいだと思う。部屋の隅には脱ぎ捨てた服だと思われる布やら、ぐしゃぐしゃに丸められた紙やらが積まれて、というか積もっている。寝かされているベッドの横には、部屋の雰囲気にそぐわない、洋風のランプの載った小机がある。足下の方の壁にある本棚には、マンガやゲームの攻略本、CDが乱雑に詰め込まれていて、何か衝撃かあれば中身がずり落ちてきそうだ。その証拠かどうかはわからないけれど、本棚の下には落ちた、又は投げられたという表現が当てはまるであろうマンガが数冊転がっている。本棚の横には机があって、薄い箱のようなものが置いてある。机の足下にも、大きさは様々だけれど箱のようなものがいくつか置いてあって、それにボタンが沢山ついている何かが、幾つか繋がっている。ボタンがついているということは、これらは何らかの電子機械なのだろうか。
「よし、決めた」
そこまでじっくりと室内を眺めたところで、少年がパンッと手を打った。
「サクト」
「……へ?」
至近距離で指されて、僕は少年の行動が理解できずに首を傾げた。
「お前の名前。今までどうしてたんだか知らねーけど、ないってんなら、俺が決める。お前は今からサクトだ」
俺は満っつーんだ。そう、少年が目を細めたのは、笑っているから、で間違ってはいないよね。