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一話 僕と彼女

 コッ、コッ、コッ。

 誰かの――否、彼女の足音が聞こえて、僕はこの部屋で唯一の扉の方に、ベッドに寝転がったまま視線をやった。

 病院のように真っ白い、染み一つない天井。十二畳間の部屋の大半には、図書館のように並べられた本棚に、隙間なく埋め込まれた本や漫画。扉の正面に勉強机が、その横にベッドが置いてある。その他にこの部屋にあるものは、机の上に散乱している数個の筆記用具と、ベッドの上に置いてある、色褪せて灰色になりかかっている黒猫のぬいぐるみだけ。洋服箪笥やクローゼットなどもこの部屋には皆無だ。そんな部屋が、僕が生まれてから十数年、風呂とトイレと洗面のとき以外はずっといる部屋のすべてだ。――もっとも、外の世界を見た事がないから、最初にいった比喩は、本を読んで得ただけの知識で、実際のものを知っていてこの部屋を見た人が僕と同じ比喩を使うかは全くもって自信はないけれど。

 そんな部屋に、僕は別に不便も不満も感じた事はない。風呂もトイレも自由にいけるし、食事も服も彼女が持ってきてくれる。ついでにこの部屋にある大量の本や漫画、筆記用具もすべて彼女が外から持ってきたものだ。何かを知りたいと思えば、教科書や辞書だって揃っているし、暇つぶしの本は簡単には読み切れないほどある。全部読み終わってしまえば、やっぱり彼女が持ってきてくれる。話し相手が欲しければ、大抵はいつでも彼女が相手になってくれる。僕が小さかった頃は、よく絵本を読んでくれた。部屋に窓なんかないので、部屋の明るさではなくて、時計と自分の狂った感覚と、規則正しい彼女の配膳時間だけで朝や夜を感じなければならないところは少し面倒な気もする。けれど、別に正確な時間が解らなくたって、僕には予定も何もないから、時間に追われる必要なんてない。だから何も問題は無い。

 だから、僕はこの部屋から出たいと思った事は無いし、外の世界に出て彼女と一緒に遊びたいとか思った事も無い。もし、勝手にこの部屋から出て行けるのだとしても(試した事なんてないからわからないけれど、僕が利用する場所の周辺に鍵なんて高等な道具がついているかどうかは怪しい)、この世界にいる人間は僕と彼女だけ。それ以上でもそれ以下でもないから、これは不満だのなんだのという以前の問題ともいえる。

 カチャリ。

 小さな音をたてて扉が開いた。部屋に入ってきたのは勿論彼女。身長は僕よりも一、二センチ低いくらい。――つまり、僕とほとんど変わらないってことだな。――昔は僕が見上げないといけなかったのになぁ、なんて、らしくもない感慨に浸ってみる。癖毛でちりちりの黒髪は肩の辺りで切りそろえられていて、前髪はカチューシャであげておでこを晒している。目の色は黒で、僕と比べてもまつげが長いという事も、肌が白いわけでもない。彼女は極一般的な女性である。――比較する人間が僕だけだから、本当にそうかなんて、勿論ぼくが知るはずもないけれど。――

 一瞬、何の用事かな?なんて考えたけれど、彼女の持ってきた食事と、ぼくの腹の虫の鳴き具合で、もう夕食の時間なのだと思い至った。

「今日は一緒に食べない?」

 ベッドから降りて彼女の前に座った僕は、無言で床に食器を並べている――この部屋に食卓なんてものはないし、勉強机で食べるのは気が進まないから大抵床で食事をする――彼女に声をかけた。

「ごめんなさい。今日はこれからちょっと用事があるから。良ければ明日、一緒に食べましょう」

 すまなそうに彼女が言う。僕も少し残念ではあるが、用事があるなら仕方ない。彼女が明日一緒に食べようを言っているんだし、それでいいか。

 でも、用事があるから人の誘いを断るというのは、どういう気分がするんだろう。僕にはとんとご縁がないことなので、その辺りは少し彼女が羨ましかったりする。

「じゃあ、食べ終わったら食器はいつも通りドアのところに置いておいて」

 ずいぶんと軽くなったと思われるトレイを右手に提げて、彼女は部屋を出て行ったので、僕は床に並べられた、彼女の置いて行った夕食を凝視してみる。というのはまあ、他に見るものも無いからだけれど。今夜の献立は、ご飯に野菜たっぷりのみそ汁、野菜炒めとサラダ……。野菜ばっかりだ。たまには肉も食べたいなぁ、なんて事はないけれど、魚が食べたいかな。

「……頂きます……」

 有機物との睨めっこを終え、僕は小さく言って箸を取る。

 一人で食べる食事ほど寂しいものはない、なんて言うつもりはない。だって、物心付いた時からそうだったから。気がついたら、この一人だけの空間で箸を持って、もそもそ食料を貪っていた気がする。外の世界では、行儀がどうで、食べ方がどうで、姿勢がどうで、といろいろ言われるらしいけれど、僕は彼女からそんな事を注意された事は、勿論一度もない。

 モグモグ、ズーズー、パクパク、モシャモシャ、ムシャムシャ…………。

 サラダの味付けはなかった。彼女が置いて行ったものの中にも、マヨネーズやドレッシングはなかったから、そのままの野菜を味わえということだろう。彼女が忘れたなんてことはない。絶対…………きっと。

「さてと、何をするかな……」

 僕は三十分程で(体内時計なので、誤差は±十五分以内)食器の上にあったものを舐め尽くしたように綺麗に片付けた。その綺麗になった食器を部屋の外に出したところまでは良かったのだが、やる事がなくなってしまった。そう言えば、最近読み散らかした本やら漫画やらが床に転がっていたので、数冊ずつ引っ掴んで本棚の隙間に詰めておいた。ジャンルもシリーズも大きさも、何もかもがバラバラに、無秩序に置かれている本棚たちの隙間は、もうほとんどない。

「こんど、彼女にまた本棚を持ってきてもらわないと」

 と、僕は心の中の、彼女に頼む事リストに、本棚追加を書き加えた。

 それから、まだ眠くないけれど、全然ふかふかじゃないベッドに寝転んだ。顔を枕に押し付けて、寝られるかどうかを試みる。

「…………………………ぶふぉぅわぁ」

 窒息しそうになった。けど、自分から窒息死するのはけっこう根気がいるのだと学習。人は様々なものからいろんな事を学ぶのだ。

 そんなことをしたところで、寝るのはいいけれど、まだ歯を磨いていなかった事に気がついた。部屋を出て、バスルームに向かう。といっても、バスルームは僕が生活している部屋のすぐ左隣。一秒もかからずについてしまう。ちなみに、廊下には僕の部屋とバスルーム二つながる意外のドアはなくて、奥の方に、登り階段が見えるだけとなっている。僕は使った事はないけれど。

 で、そんなこんなでバスルーム。名前のとおりの、洗面所と風呂とトイレとが合体して、同じ部屋にあるあれだ。ホテルとか、外国の家とかにあるらしいやつ。そして先述しているとおりに、ここの扉にも勿論鍵なんて道具はついていない。外の世界だったらプライバシーがどうのこうの言われそうではあるが、ここは僕以外使ってないし、実際、何の問題もない。第一彼女がそんなこと言うはずは無いから、誰もそんなことを言う人はいないけれど。

 歯ブラシの上にチューブから押し出した歯磨き粉を乗せて、それをそのまま口へ。ゴシゴシ、シャコシャコ、ジャコジャコと音をたてながら磨くこと約五分。口を漱いで部屋に戻ると、ベッドに一直線。

 うん、いい具合に眠気が漂ってきた。てことで、

「おやすみ」

 ここにはいない彼女に挨拶をして、僕の意識は自身の奥深くに沈んでいった。

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