ーProtoー 君とずっと一緒に。元女神のリンネと過ごせたわずかな時間
俺の1番初めの記憶は、暖かいリンネの腕の中で微睡んでいるものだった。
満点の星空の下。
青白く光る広大な草原が広がっていた。
草原には色とりどりの花が咲きほこり、その様子はどの花も一生懸命に星空を見上げているようだった。
その中に、ぽっかりと空いた穴のような空間があり、澄んだ蒼い湖になっていた。
湖の隣には大きな白いドーム状の建物が建っており、そのまわりを鋭い屋根の形をした塔のようなものが囲んでいる。
その建物も青白くほのかに光っていた。
そんな幻想的でどこか儚げな青い世界の中、湖畔に座り、幼な子である俺を抱いてほほ笑んでいるのは、この世界を作った張本人のリンネだった。
彼女は白くて丈の長いワンピースを着ていた。
腰でゆったりとブラウジングさせ、手首まである袖は袖下が長く垂れ下がっており、肩の部分だけが出ていた。
裾に向かうにつれて青色のグラデーションになっており、あどけない顔立ちの彼女にしては大人っぽい雰囲気を感じる服だった。
「なんて可愛いんだろう」
リンネがため息をつきながら、俺の顔をのぞき込み、目を細めた。
途端に、座っている彼女の地面の周りから、たくさんの芽が顔をのぞかせ、どんどん成長していった。
みるみる葉や茎が伸び、丸い蕾を膨らませる。
そして、白やピンクや黄色といった美しい花を一斉に咲かせた。
むせかえる程の甘い花の香りの中、俺はリンネの腕の中で小さくアクビをした。
それを見たリンネが、澄んだ柔らかい声で子守歌を歌いだし、ゆらゆらと歌に合わせて俺を揺らす。
自然と瞼が重くなった俺は、うとうとし始めた。
彼女に柔らかく包まれ、優しい子守歌を聞くと無性に安心してしまう。
幼いながらに幸せを感じた俺は、リンネの真似をしてか、ニッコリほほ笑んだ。
彼女は驚いた表情の後に破顔した。
「ルフが笑っている。可愛い」
リンネが本当に嬉しそうに声を弾ませ、俺の頬に自分の頬を擦り寄せた。
彼女の甘くて優しい匂いに包まれる。
花の香りだと思っていた甘くて心地の良い匂いは、リンネの匂いだった。
俺はすぐに成長し、5歳の子供の姿になった。
湖畔で遊んでいると、近くにある大きな白い建物からリンネが出てくるのが見えた。
「リンネ!」
俺は彼女に向かって駆け出していた。
「ルフ!」
リンネが満面の笑みを浮かべ、両手を広げながら近付いて来た。
彼女が笑うと、足元の大地にさまざまな色の花が咲き乱れる。
俺は全力で走ると、彼女の足に抱きついた。
その勢いで辺りの花たちがゆらゆら揺れる。
「ルフは元気だねー」
屈むようにしてリンネが俺を抱きしめ返した。
俺は顔を上に向けて、期待を込めた目で彼女を見つめる。
リンネがそれに気付き、笑いながら俺の脇の下に手を添えて、抱き上げてくれた。
「重っ……だいぶ大きくなったね。もう抱き上げるのがつらいかも……」
そう言いながらも、リンネはしっかりと抱き上げて腕を背中に回してくれた。
「リンネは女神なんだから、大丈夫だろ?」
「元ね。女神だからって力持ちとは限らないよ」
「えー。まだ抱っこしてよー」
俺は降ろされたくない意志を表明するために、彼女にギュッとしがみついた。
「ルフは甘えん坊だね」
リンネの楽しそうな声に合わせて、足元に紫や白や黄色の花が咲き乱れた。
ピンクの小花も隙間を埋めるように咲いていく。
花とリンネの甘い匂いに辺りが包まれた。
彼女が言うように、リンネは元女神だったらしい。
主に春を司る女神だったけど、今は降格して巫女みたいな存在になっている。
リンネは女神としての力が強いうちに、天界からこの地へと移住した。
そしてこの穏やかな美しい世界を作り上げた。
太陽が存在しない空は、つねに星空だった。
風も吹くことは無く、音を立てるのは俺とリンネだけ。
ジッとしていると無音の世界に早変わりしてしまう。
けれど、いつもと言っていいほど、この世界は2人の笑い声で溢れていた。
白い大きな建物のそばには、若木が一本生えていた。
その若木の隣には、大きな蒼く澄んだ湖が広がっている。
湖の周りには様々な花が大いに咲いていた。
リンネの感情が揺れ動くたびに花が入れ替わるように咲くので、日によってその様相を変化させていた。
ある日、リンネがおもむろに夜空を仰ぎ見て、両手を軽く広げた。
すると、空から星が落ちてきているかのように、白い光がキラキラと彼女に集まり始めた。
リンネはその光を全身で浴びるように受け止めると、光が彼女の体の中へと入っていく。
「……人々が、感謝と共に願いを届けてくれている。なんだか嬉しいね」
光を受け止め終わったリンネが、幸せそうに俺に笑いかけた。
女神時代からリンネを信仰している人々の願いごとは、こうして定期的にリンネの元へと届く。
巫女になったリンネは、その願いを自身の体の中に収め、白い建物の中で祈りを捧げていた。
「じゃあ祈ってくるね」
ニコリと笑ったリンネが俺の頭を撫でる。
「……俺も一緒に行きたい」
「もっと大きくなったらね。ルフのことだから、すぐに大きくなるよ」
駄々をこねる俺を宥めながら、リンネは建物の中へと入っていった。
「…………」
俺は白い建物を恨みがましく見上げた。
子供の俺は、まだ建物の中に入ることが出来ない。
俺は人とは比べものにならないほど尋常じゃない速度で成長していたけれど、早く大人になりたかった。
リンネの役にもっともっと立ちたかった。
しばらくすると、リンネが祈りを捧げ出したのか、俺の体がホワッと暖かくなった。
願いごとの内容を感覚で感じ取り〝いいよ〟と心の中で返事をする。
すると、その暖かいものが体を駆け抜けて頭から空へと抜けていくのを感じた。
俺はリンネから受け取った願いを叶えることが出来た。
そのために彼女の手によって、この地に最後に生み出された。
リンネは女神としての力を失うと、人々の願いを叶える力も失った。
俺とリンネが力を合わせることで、以前のように願いを叶えることが出来る。
打算的な気持ちで俺を生み出したのかもしれないが、それでもリンネに必要とされて生まれてきたのは嬉しかった。
「ルフ! 待ちなさーい!!」
「あはは! ここまでおいでー!」
青白い光に照らされて、8歳の少年になった俺とリンネが、湖の近くを駆け回っていた。
イタズラ盛りだった俺は、リンネが身につけているイヤリングを奪って逃げていた。
慌てて追いかけてもらうのが楽しかった。
俺は花の絨毯の中を駆けた。
白や黄色やピンクといった花びらが、ヒラヒラと舞い散る。
リンネの怒りに反応してか、とげとげの花が咲いて行く手を邪魔するが、そんなのお構いなしに俺は走る。
「ルフ! それは大事な物なんだから返してよー!」
リンネが息を切らせながら後ろから叫んだ。
「やだよー!」
「もう!」
俺に追いつくことを断念したリンネが立ち止まる。
それを振り返りながら見た俺は、思わずニヤニヤした。
そしてそのまま方向転換し、リンネの方へと駆けていく。
「…………」
彼女はむくれながらも、手を広げて俺を待ち構えてくれた。
俺が彼女の腕の中に飛び込むと、その反動でリンネが後ろに倒れ込む。
ブワッと花吹雪のように、辺りに花びらが舞い上がった。
「あはは!」
リンネが俺をギュッと強く抱きしめながら、嬉しそうな笑い声を上げた。
彼女のお腹に顔をうずめていた俺も、釣られて一緒に笑い出す。
しばらく俺たちの笑い声がこだましていた。
俺とリンネしか居ない世界。
そんな閉鎖的な空間だったけど幸せだった。
毎日彼女と笑い合い一緒に過ごす。
リンネは俺にとって母であり、姉であり、愛しい人だった。
俺は成長して10歳になった。
出会った時から変わらないリンネは、どうやら歳を取らないらしい。
いつも瑞々しくて愛らしかった。
この世界の湖は水鏡のようにして、遠い場所に住む人たちの様子を映しだすことが出来た。
湖畔に座ったリンネが、ニコニコしながら湖に映る人たちを見つめている。
リンネのひざの上に座って一緒に湖を眺めていた俺は、彼女を振り返って何となしに聞いた。
「リンネはどうして人が好きなんだ?」
「一生懸命生きてるからかな? 尊くて儚くて美しいなって思うの。何かを成し遂げる姿も好き。だからそんな人たちの願いを叶えて幸せにしてあげたいんだ」
リンネが首をかしげながら優しくほほ笑んだ。
人に向けて慈悲深い気持ちを抱いてる時の彼女は、誰よりも綺麗な笑みを浮かべる。
リンネの周りに赤やピンクの花が咲き乱れていく。
「ふーん……じゃあ、俺の願いを叶える力がまだ弱いから、悲しかったりする?」
俺はずっと気になっていたことを聞いた。
まだまだ子供だから、俺の願いを叶える力は弱い。
水鏡に映る人たちが、願いが全て叶わずに残念がっているのも知っていた。
いつもニコニコ笑っているリンネが、内心では悲しんでいるかと思うと、今まで怖くて聞けなかった。
思わず表情が陰った俺を見て、リンネが慌てて喋り出した。
「そんなこと無いよっ! もう女神じゃない私一人では、願いを叶えられないもの。ルフが居てくれて良かったよ。ありがとう」
リンネがおでこに優しくキスをしてくれた。
俺は薄っすら頬を赤く染めながら、お返しにと体を伸ばしてリンネの頬にキスをする。
「あはは! 可愛い!」
リンネが俺をぎゅうっと抱きしめてきた。
俺は口を尖らせながらも、彼女の体に腕を回して抱きしめ返した。
そろそろ子供扱いをやめて欲しいのに……
それで、人を好きな感情と同じものじゃなくて、特別なものを俺に向けて欲しいのに……
子供の俺は、漠然とそんな気持ちを抱えていた。
またある日、俺とリンネは、花の絨毯に仲良く並んで寝っ転がり、星空を見上げていた。
そんな時、彼女は決まって星座になぞらえた神々の話を教えてくれた。
子供の俺は彼女に腕枕をされて、横から抱きつくようにして空を見上げる。
「……じゃあ、リンネの1番仲が良かった神様は誰なの?」
何となしにリンネに聞いた。
「……うーん。クレスタかな?」
「誰?」
「勇気を司どる神様だよ」
「……じゃあ、1番仲が悪かったのは?」
「…………」
リンネがしばらく星空を静かに眺めていた。
「フォティオスかな」
そっと呟くような声が頭上から聞こえる。
「誰?」
俺はクレスタの時と同じ調子で聞いた。
「……意地悪な神様だよ」
リンネが珍しく悲しそうに笑った。
寝転がる彼女の顔の近くで、黒い花が咲くのが見えた。
「…………リンネは女神に戻りたい?」
ふとそんなことを思ってしまったので、俺は体を捻りながら上半身を起き上がらせて、彼女の顔をのぞき込んだ。
「ううん。今が幸せだから、戻りたくないよ」
リンネは柔らかくほほ笑むと、俺を抱き寄せた。
俺は彼女に覆い被さるように倒れ込みながら、なすがままに抱き込まれていた。
「……そっか……」
俺はゆっくりとほほ笑みを浮かべて、彼女の柔らかくて甘い体を抱きしめ返す。
リンネへの感情が溢れる。
俺も今がとても幸せだ。
こんなにも人を好きになるなんて、すごく幸福なことだと感じていた。
リンネが白い建物の中で忙しい時は、俺は1人湖畔で過ごす。
暇つぶしに、湖に遠い場所の人たちを映して見ていた。
地面に座り込んで眺めていると、クリスという若い男性が、メアリという同い年ぐらいの女性に告白している様子が目に止まった。
『ずっと好きだったんだ。愛してる』
『!! ……私も!』
水鏡の中の2人がひしと抱き合った。
見てはいけないものを、のぞいている気持ちになり、俺は人知れず頬を染めて照れた。
同時に、リンネに向けて抱いている感情が〝愛〟というものだと知った。
しばらくすると、リンネが湖畔にやって来て、俺の隣に座った。
その時にはもう水鏡に映る場面は変わっており、照れるような物じゃなかったけれど、俺は彼女を意識して勝手に固まっていた。
「?? ルフ、どうしたの?」
様子がおかしい俺に気付いたリンネが、顔をかたむけて俺を隣からのぞき込む。
「……何でもない……」
目を背けながら口早で答えると、キッと睨むように彼女を見た。
リンネはきょとんとしながら、俺の視線を受け止めている。
「リンネ……あぃ……あいし…………」
真っ赤になった俺は口を必死に動かすが、言葉が上手に出なかった。
「え? なぁに?」
慌てた俺を見たリンネがクスクス笑う。
ピンクや黄色の全体的に丸っこい感じの花が辺りに咲き始める。
「……好きだ! リンネが誰よりも大好きだ!」
「あはは! 嬉しい! 私もだよ!」
リンネがいつものように柔らかく笑いながら、真っ赤な俺を横から抱きしめた。
「違う! 特別な〝好き〟だ!」
「うんうん。私も特別ルフが大好き!」
リンネが嬉しそうに笑い続ける。
俺たちの周りに色とりどりの花が咲き乱れた。
甘い花の香りがブワッと溢れたけれど、やっぱり1番甘くて安らぐ匂いはリンネのものだった。
俺はそんな匂いに包まれながら、もっと大きくなったら改めて伝えよう……と決意していた。
俺はリンネの太陽のような眩しい笑顔と、暖かい愛情を注がれて、どんどん成長していった。
気がつくと16歳になり、少年と青年の間のような姿に変わっていた。
リンネに対する気持ちも育ち、この頃にはもう彼女を深く愛していた。
ーーけれど同時に焦ってもいた。
いつものように、1人で湖の水鏡に映る人たちを見ていると、見覚えがあるような男性に目が止まった。
前に告白のシーンをたまたま見てしまった、クリスだった。
人の時の流れは早く、クリスは笑い皺が深く刻まれた老人になっていた。
けれど、メアリが近くにはいない。
一緒の人生を過ごせなかったのか?
と思った時だった。
クリスがぼんやりと眺めているのが、メアリの墓石だということに俺は気付いた。
『……メアリ……僕ももうすぐそっちに行くからね……』
老人のクリスが穏やかに笑いながらそう告げた。
目尻の深い皺には、わずかに光る涙が見えた。
「…………っ!」
それを見た俺は深い衝撃を受けた。
そうか。
人は……
寿命がすごく短いんだ。
そしてゆっくりと理解した。
リンネとこのまま一緒に生きていくことは難しいことに。
彼女に残された時間は多くない。
リンネの外見は歳こそとらないが、女神でなくなった彼女の体は人と同じだ。
そのうち寿命が来てしまう。
俺は人では無いから、これから永遠に近い時を生きるだろう。
そんなの……
そんなの悲しすぎる。
リンネとの終わりの時の存在を知ってしまった俺は、彼女を愛おしい気持ちと、別れがきてしまう恐怖の気持ちが入り混じって苦しんだ。
湖の隣に生える木はだいぶ大きくなり、青々と葉を茂らせていた。
俺はその木の傍らに立ち、湖を眺めながら考え込んでいた。
そんな塞ぎ気味な俺を心配して、リンネが両手広げて真正面から抱きしめてくれた。
「どうしたの?」
俺より背が小さくなってしまったリンネが、眉を下げて見上げていた。
彼女の優しい眼差しを受けて、思わず気持ちが溢れてしまう。
リンネ。
もうこんなに大きくなったよ。
力だってリンネより強いから、抱き上げてあげることも出来る。
だから本当は……いつまでもリンネを守っていたいのに。
「…………ルフ?」
気付くとリンネを押し倒していた。
花びらがブワっと舞い上がる。
俺の腕の中には、困惑して瞳を揺らしているリンネがいた。
ヒラヒラとピンクの花びらが舞い落ちて、彼女の口元にくっついた。
俺はそれを取ってあげながら、リンネのプックリした唇を指でなぞる。
「…………」
我慢が出来なくなって自分の唇を重ねた。
いつものように、彼女の甘くて優しい匂いに包まれる。
ーーーーーー
「待って! リンネ!!」
俺の腕の下から逃げ出してしまったリンネを、追いかけながら叫ぶ。
白い大きな建物の中に逃げ込んだ彼女に続いて、俺も初めて中に入った。
長い廊下を走り、広くて開けた礼拝堂に辿り着くと、中は神秘的な蒼い光で満たされていた。
天井がものすごく高い所にあり、タイルで描かれた美しい模様が並んでいる。
ガラスも青をベースにしたステンドグラスになっており、優しい光を発していた。
不思議で、暖かくて、感情を揺さぶられるような美しい空間。
リンネは毎日ここで、人々の願いを俺に向けて祈っているのか……
俺は彷徨わせていた視線をリンネの背中に戻した。
「リンネ!! 好きなんだ! ずっとずっと! これ以上はそっちに行けないから、話だけでも聞いてくれ!」
俺は礼拝堂の入り口から動けずにいた。
今はここまでしか入れない。
リンネは礼拝堂の真ん中でピタッと止まる。
そんな彼女の背中に俺は告白を続けた。
あの時、言えなかった言葉を口にする。
「愛してるんだ!」
すると、切なげな表情を浮かべたリンネが振り返った。
そしてゆっくりと俺の目の前まで戻ってきてくれた。
「……こんな場所に……ルフを縛り付けてしまって、とても酷いことをしている私でも?」
リンネが涙を一粒こぼした。
「うん。リンネの元に生まれてきて良かった。君の命ある限り、一緒にいたい」
俺はリンネがしてくれるみたいに、両手を広げた。
リンネは屈託のない笑顔を浮かべながら涙を流し、俺の腕の中に飛び込んできた。
強く抱き合った俺たちは、思わず笑みをこぼし合う。
幸せな空気が礼拝堂を満たしていた。
想いを伝え合った俺たちは、今まで以上に寄り添って暮らした。
建物の中にだいぶ入れるようになった俺は、眠りを必要とするリンネと共に、ベッドで添い寝するようになった。
今では俺が腕枕をしてあげて、彼女が横から俺にピッタリとくっつく。
可愛くて愛おしくて仕方なかった。
そうしている時に、リンネが1度だけ謝ってきた時があった。
「……ごめんね。私、ルフを生み出した時に、精神が宿るなんて思わなかったの。人々の願いを叶えたい一心で……」
「うん……分かってる」
俺は少しだけ体の向きを横にし、腕枕をしたまま彼女と向き合った。
「木の根元に幼い小さなルフがいる時はビックリしたなぁ。けど、とっても嬉しかったのを覚えてる」
「そうなんだ」
「……今ではルフと出逢えて、2人で居るって本当に幸せだなって感謝してるよ」
リンネがキラキラした瞳で俺を見つめていた。
「俺もリンネと出逢えて幸せだよ」
俺は引き寄せられるように、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
甘くて優しい匂いが溢れ、キスの味までもが甘く感じる。
そんな彼女をずっと味わっていたくて、抱きしめて、キスをして、愛を伝える。
どんどんリンネに溺れていった。
穏やかで豊かな日々。
俺にいつも笑顔を向けてくれるリンネ。
愛していたし、愛されていた。
そんな2人きりの空間に、ある日、訪問者が現れた。
建物の中にいた俺が、リンネを探して外に出ると、湖畔から誰かの声がした。
「もうこんな所にいるのはやめて、戻るんだ」
「いや! 戻らない!」
見ると、見知らぬ男性に腕を取られて、それを拒絶しているリンネがいた。
俺はすぐさま2人の間に割って入った。
「リンネが嫌がってる」
男性を睨みつけながら、リンネの腕を握っている腕を掴み上げる。
男性は眉をひそめて不機嫌な顔を向けてきたが、俺を見て驚いた表情に変わった。
「君は……そうか。……リンネ、巫女になってまで、まだ人間たちを贔屓しているのか……それが原因で爪弾きにされたのを忘れたのか?」
そして男性はリンネを訝しんで目を細めた。
「私は私の信念を死んでも変えない。クレスタは帰って!」
リンネは力強く言い切った。
俺は思わず話に割って入った。
「どういうことだ?」
リンネが女神ではなくなった原因を、詳しく知らなかったからだ。
俺がクレスタを見ると、彼はチラリと俺が掴んでいる腕を見た。
その意図を理解して俺が腕を離すと、クレスタがゆっくりと口を開いた。
「……リンネは、人間を間引こうとした一部の神に反発して戦ったんだ。それが最高神の怒りに触れてしまい、リンネは女神では無くなってしまったんだよ」
「…………」
「リンネの魂は女神のままだけど、器は人同然になってしまった。ここに居てはいけない。謝りでもして女神に戻してもらおうよ」
クレスタがリンネに向かって優しく説き伏せる。
けれどリンネは顔を縦には振らなかった。
「何故私が謝らなきゃいけないの? 私の気を引きたいからって人間たちを減らそうとするなんて横暴すぎる! 神だからって何をしてもいい訳では無いわ!」
「でもだからって、フォティオスの半身を吹き飛ばすなよ」
「それこそ神だから大丈夫でしょ」
リンネがプイッと顔を背けた。
辺りにトゲトゲの葉っぱの植物が茂り出した。
もしかしたら、フォティオスのような神から人を守ることも、リンネが人々の願いを叶え続けている理由かもしれない。
俺はリンネの頑なな態度からそう感じ取った。
そして、もう一つのさっきの話題が、胸に重くのし掛かる。
もしリンネがここを離れてしまったら……
この場所に縛られている俺は、彼女について行くことは出来ない。
「リンネ、行かないで。一緒にいたい」
不安に駆られた俺は、思わずリンネに懇願してしまった。
クレスタの言ったことを考えると、恐らく女神に戻った方がリンネにとっていいんだろうけど。
リンネはそんな俺の不安を払拭させるために、いつものようにニッコリと優しく笑い、俺の両手を取って握ってくれた。
「ルフ、安心して。ここにずっと居るから」
俺たちのそんな様子を見たクレスタが、苦々しげに言い放つ。
「……心配して来てやったのに、もう知らないからなっ!」
怒った彼は、クルリと背中を向けて去って行った。
それを複雑な表情で眺め続けているリンネに、俺は声をかけた。
「リンネ……他に秘密にしてることはないか? この際だからもっとリンネを理解したい」
するとリンネが、ゆっくりと僕を見つめて眉を下げて笑った。
「実は最高神様に怒られたのは1度じゃないんだ。私の血を分けた……私の能力の一部を分けた人を作ったことがあるの。優しいある人たちを救うために仕方が無かったんだけどね」
リンネが泣きそうな表情になり、遠くを見つめた。
俺は思わず苦笑してしまった。
「リンネって昔はおてんばだったんだ。他の神と戦ったり、血を分けた人を作ったり……」
「フフッ。そうだね。今思うとだいぶね」
リンネも笑ってくれた。
やっぱりリンネは笑顔の方が似合う。
リンネの足元に白や黄色や紫の花が咲き出した。
秘密を教えてくれた嬉しさも込めて、俺がリンネを抱き寄せると、彼女も抱きしめ返してくれた。
甘くて優しいリンネの香りに包まれると、幼な子の時のように無性に安心した。
とうとう俺は大人になった。
人々の願いを叶える力も強くなった。
それに比例するかのように、人たちが貪欲になってきてしまった。
願いの内容もどんどん思い上がったものが増える。
そんな醜い願いを、リンネは叶えようとはしなかった。
……叶えだしたら、彼女は元女神ではなく悪魔になってしまう。
すると人たちは、今まで守ってくれていたリンネを悪く言うようにさえなってきた。
湖の水鏡に映る人たちが口々に言う。
『俺の願いがまだ叶わないのだが……』
『最近女神様はケチになってきたよね』
『叶える人を選り好みしだしたのか?』
『そうなると信じられなくなってくるな』
俺はリンネの悪口を言われるたびに、相手を切り刻んでやりたくなるほどの怒りを感じた。
なのにリンネはいつもニコニコ笑っていた。
そして寂しげに俺に語る。
「……もう、私が手助けしなくても大丈夫かもしれない。神を信じなくなるってことは、自分たちで叶えていける力を持ったと言うことだから」
リンネの顔に諦めにも似た安らかな笑顔が浮かんでいた。
彼女は自分の最後が近いことを、この時から勘づいていたのかもしれない。
リンネがふと、湖の隣に生えている木を見上げた。
その木は今では立派な大木に成長しており、その枝に青い花の蕾をつけていた。
「……花が咲いたら、さぞ綺麗だろうなぁ」
リンネは嬉しそうに目を細め蕾を見ていた。
それからしばらくすると、大木の青い花が満開になった。
俺とリンネは大木の近くに立ち、見回すように眺めていた。
「すごく見事に咲いたね」
リンネが自分のことのように両手を合わせて喜んでいた。
顔を綻ばせて笑うリンネに、俺も嬉しくなって笑い返す。
そしてまた大木に視線を戻した時だった。
ドサリという音と共にリンネが倒れた。
彼女を受け止めた花の花びらが舞い上がり、ヒラヒラと落ちていく。
「ッリンネ!?」
俺は膝をついて急いで抱き起こした。
彼女が薄っすらと目を開ける。
そしてゆっくりと俺に視線を合わせると口を開いた。
「……器の寿命が来たみたい……」
「こんなに早く!?」
「巫女としての役目が終わったんだよ」
リンネが穏やかにニッコリと笑った。
それからゆるゆると手を上げて、俺の涙をぬぐってくれた。
それで初めて気付いた。
いつの間にか泣いていたことに。
俺はリンネを抱きしめる力を強めながら、言葉を絞り出す。
「せっかく大人になったのに……あの木だって、青い花を咲かせた所なのに……」
「……でも、青い花が一目でも見れて良かったよ。立派に成長したルフに見守られながら、最後を迎えられて良かった……」
「…………リンネが助かるように俺に祈れよ」
俺は目を閉じて俯いてしまった。
涙が地面へと滑り落ちていく。
そしてそのまま、リンネの頬に顔を寄せた。
「自分の願いは叶えられないんだよね」
リンネが弱々しく笑いながら続けた。
「けど……ルフにお願いがあるの」
そう言われた俺は、顔を上げて彼女を見た。
俺と目が合うと、リンネがゆっくりと伝えだす。
「私の代わりに……人の行く末を見守ってくれないかな? それだけが心残りなの。幸せな未来を築ける手助けをしてあげて欲しい」
「俺1人で? リンネが居ない世界にたった1人でか? 俺は心残りじゃないのか?」
すると今度は俺の頬にリンネの手が添えられた。
俺の目からは涙がとめどなく流れ、リンネの顔が滲んで見える。
俺の気持ちに呼応するように、木に咲いた青い花が散り出した。
花びらはヒラヒラと宙を舞いながら、リンネに寄り添うように彼女の腕や足に落ちる。
その様子はまるで木が泣いているみたいだった。
「私はいつもルフのそばにいるよ。この身が朽ち果てても、魂はここに留まるから」
リンネが笑いながら涙を流した。
そして囁くように告げてくれた。
「私も、ルフのそばにずっと一緒にいたい……」
「リンネッ!!」
俺は思わずリンネを抱きしめた。
大好きな彼女の匂いに包まれる。
「ごめんね。ルフ。ごめんね……」
いつもはあんなにニコニコしているリンネが、俺に縋りついて泣きじゃくった。
「1人にしてごめんなさい。誰も居ないこの場所に縛り付けてごめんなさい。私のわがままに振り回してしまってごめんなさい……」
「……そんなこと無い……」
「でも、楽しかった! 幸せだった! ルフと一緒の毎日は、かけがえのないものだった!」
「うん……うん、俺もだよ」
「……ありがとう、ルフ。大好きだよ」
リンネの俺を抱きしめている力が弱まった。
俺は目を見開いて体を離し、彼女の顔をのぞき込む。
「まだ行くなよ。ダメだ……リンネ!」
「……またね」
リンネの体が輝き出した。
すると徐々に彼女自体が薄くなっていく。
消える?
このまま居なくなってしまうのか?
リンネが死ぬと何も残らないということが分かって、一気に恐ろしくなってしまった。
「リンネ、リンネ! 俺も好きだ! 愛してる!!」
彼女にこの想いだけでも最後に伝えたくて、無我夢中で叫んだ。
リンネの体はどんどん薄く、軽くなっていき、最後には白く輝く光の粒子になって飛散してしまった。
抱きしめていた俺の手が宙をかく。
「……っううぅ……」
俺は地面に両手をついて泣き叫んだ。
最後に見た彼女の顔は、いつもの満面の笑みだった。
「……リンネ……」
泣き続けていた俺が夜空を仰ぐと、一陣の風が吹いた。
「え?」
驚いてピタリと涙が止まる。
この場所では風が吹くことなんて今まで無かった。
そのどこか優しくて甘い匂いのする風が、俺の髪を撫でるように吹く。
そして先程の光の粒子に似たキラキラした光をのせて、湖の方へと流れて行った。
するとキラキラした光が湖の端で斜めに吸い込まれるように消えた。
そこは丁度、あの大木に成長した木の根元だった。
『私はいつもルフのそばにいるよ』
リンネの声が聞こえた気がした。
**===========**
気が遠くなるような長い時の中、俺はリンネの最後の願いを守り続けていた。
遠い場所に住む人たちは、すっかりリンネのことを忘れ去っていた。
けれどリンネが血を分けたという人が成長し、子供をもうけ、またその子供が命を繋ぎ……と、少しづつリンネの能力を持った人が増えていった。
そんなリンネの子孫のような人たちから、願いをのせた祈りが届く。
俺は体が暖かくなるのを感じ〝いいよ〟と心の中で返事をしていた。
湖の隣の大木は、今では白い建物と同じぐらい大きく生い茂っていた。
気まぐれに青い花を咲かせては、リンネとの最後の瞬間を俺に思い出させる。
この場所を離れられない俺は、相変わらず1人だった。
湖に人たちを映して眺めたり、星空の星座を観察したり、礼拝堂で物思いにふけったり。
寂しくなると、決まって優しくて甘い匂いをのせた風が吹き、柔らかく俺を包んでくれた。
だから俺は、生まれてきた役目を果たす。
いつまでも。
俺の本体が朽ちるまで。
優しくて甘い風が今日も吹き抜ける。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
この物語が、あなたに届いたことを嬉しく思います。