鎧と蝶
「どういうことなんだ……? 今、吸血鬼、ビビってなかったか?」
「……それは……まあ……」
「ホーさん、言い難いなら別に良いよ。お前が言いたくないことまで訊く気はないからさ」
「お前、お前って言うなよ」
興味がないわけじゃないが、この子が話したくないと思ってるならそれで良い。俺は俺のできることをやるだけだし、多分、知ろうが知るまいが、結果に関係ないだろうから。
そのとき、俺の身体は“できること”を反射的に行い、衝撃が身体を貫いた、貫きかけた。背中が吹き飛んで、前は残ったから未遂? けどこ、意識が飛ん―――
……。
……。
――俺の意識が戻ったのは数秒後、だったと思う。
「芳香ちゃん! 修繕霊具! 飛燕!」
「使ってる! 使ってるけど……背中が、肺と心臓がないの! 術式の治癒範囲を超えてるんだ! 幸希! 幸希!」
ナァさんが地面に転がる生首を踏みつぶしたのが見えた。
ああ、そうか。さっきの吸血鬼がまだ生きてたんだ。ホーさんを何か攻撃をしてきて……身体が動いてたんだ。
もしかしたらホーさんはくらっても大丈夫だったかもしれないけど、考えるより先に動いちまってたから、仕方ない。
……やべぇな。痛みがない。多分、痛みを感じられないくらい傷が酷いんだ。
どこがどうなっているのか分からない。痛いのか熱いのか寒いのか、脳が処理する余裕がないくらい血液が足りてないらしい。
――そうか、死ぬのか。俺。
妹が、神夜がいなくなってから、いつ死んでもいいと思っていたけれど、まさかやることが見付かってから、すぐに死ぬとは。劇的過ぎて
神夜を探さないといけないが、それよりも目の前のホーさんを守らなきゃいけないと、俺の中の何かが思ったのだろう。
不思議と満足していた。きっとホーさんがなんとかしてくれるだろう。
「死ぬな! 幸希! 許さん! 起きろ!」
モノローグに遠退いた意識が、ホーさんの声で向こう側に少し戻った。死ぬ準備がかなり進んでいるらしい。
血にぼやけた視界には、可愛らしい女の子がいた。はじめて見る顔だが、俺にはその顔が誰か理解できた。理解できないはずがなかった。
「かぐ……や……?」
なんでここにいるんだ? 幻覚? ホーさんはどこに行ったんだ? わからないことしかない。
だが、良かった。元気そうだ。
この樹海から帰れるか……?
ホーさんと一緒に、神夜も担ぐくらい……あ、おぶる背中がねえわ。俺。
どこか心地よい心配。仲良くやってくれよな……。
俺は夢を見て、まどろみの中にいた。
私は目を覚まそうと、まどろみの中にいた。
俺の名は、蝶谷幸希。
私の名は、鎧野幸希。
これは夢だ。俺、蝶谷幸希が死にかけている中で見ている夢だ。
私、牙上幸希@は、まどろみから目を覚ました。これから仕事だ。
俺の見ている夢は、私の現実だった。
「どうしたの? 幸希?」
「どうもしないさ、芳香」
私の妻、鎧野芳香……旧姓・美月芳香は、心配そうに俺を覗き込んだ。
――ホーさんじゃない、同じ名前だが、違う。全然違う人だ。
子供っぽいホーさんより頭ひとつふたつ背が高く、余裕の無い喋り方をしていたホーさんに比べると、穏やかな声。
顔も大人っぽい美女で、って、ホーさんの顔とか知らんわ俺。
私は無意識に……俺は意識的に……見慣れた妻の顔を誰かと見比べつつ、私は朝だからと洗面所に向かう。
「……同じ顔だけど、違う顔だな」
パーツはそれぞれ俺と私は同じものだが、完成した顔は全く別物。歩いてきた人生が違う。
表情に、体つきに、そしていくつかの古傷が、俺が生きる理由も知らなかった頃、私が戦い続けてきた証として刻まれている。
俺は蝶谷幸希、この前までフリーターをしていた男。
私は鎧野幸希、吸血鬼ハンターとして戦い続けて“教団”や“一家”と戦い続けている男。
鏡に映る見飽きた姿に違和感を感じる自分に違和感を抱きつつ、俺の背後に映るこの部屋に、想起する私の記憶に、揺れた俺は廊下を駆けた。
そこに居たのは……有ったのは……仏壇。
古臭いものを好まないあいつのためにと、妻と選んだ派手過ぎない仏壇。入っているのはただひとり、鎧谷神夜。私の妹だ。吸血鬼との戦いで守り切れなかった、守らなければならなかった妹。
叫んでいた。
心と肉体と魂が、軋み、重なり、嗚咽が灰の中の空気を燃やしながら絶叫となった。
妻がなにか言いながら肩を抱いているのは感じるが、感情が形を喪失していた。夢なのか現実なのか、わからなくなった。
死んだのは私の妹だ。俺の妹じゃない。
「君が泣く必要はない。これは私の世界で……妹を守り切れなかったのは私だ」
「俺がこの世界にいても、きっと……同じだった。お前が神夜を想う気持ちは……俺と同じだ。これは夢なのか、現実なのか」
「それは猫派か犬派かみたいな質問だな。両極のようで両立しうる。犬も猫も好きなヤツもいる」
「夢であり現実……お前は虚構なのか?」
「……幻に、“私は実在しています”と言われても納得しないだろう? 実在しているものに“私は幻です”と言われれば納得するのか?」
いつの間にか、鎧野の家ではなくなっていた。映画の場面転換のように。夢そのものだ。理屈に合わないご都合主義の瞬間移動。
これは俺の夢で、俺は鎧野と別れて対峙していた。俺の中にはあいつの記憶が、あいつの魂が感じた妹を喪った絶望が、まだ残渣として残っている。
――俺にとっては一時の夢でも、あんたにとっては、一生の現実。わかるよ。一生死ぬまで守らなきゃいけなかったんだよな。
それが兄の仕事で、妹の仕事はそんな兄より一日でも長く生きることだった。
「この夢はなんだ?」
「それは私が聞きたい。君の能力だろう? 私は生まれながらの幾魔学的特異性……特殊能力を持てなかった。君の世界の神夜は……君の世界の妹は鏡を通れた。君は夢を通じる能力を持つらしいな」
「何か意味のある能力なのか。」
「“妹を守るために”ということだな。愚問だろう。活かすべきだ」
「神夜を探すことの方が先だけどな」
「……私も君の記憶は見せてもらったが、本当に気付いていないんだな。妹さんの居場所……違うな。無意識には気付いているが、無意識が“神夜が望むなら気付かない”ことを選択しているだけだな」
「何の話か、一個もわからん」
「だろうな。羨ましい限りだ。私にはもうない感情だ。妹を守り続ける意思だ」
違うだろ。無くなってなんかいないだろ。
お前は、いつまでもお前の神夜の心を背負いながら、生き続けて戦い続けるんだろ。
「私は、私の世界の神夜を守れなかったが、お前に渡せるものは渡す」
「良いのか?」
「“これ”は後天的なもので、私の世界ではもう一度手に入れられる。むしろそっちの世界で使う余地があるかがわからんが、使えたら使え」
「きっと使えるさ……助かる」
「君のためではないからな」
「わかってる。あんたは、“鎧野神夜によく似た女の子である蝶谷神夜”を守りたいだけなんだろ」
「そういうことだな。例には及ばん、ということだ」
ただの夢だ。
悲しく、辛く、強い、ただの夢だ。
俺は吸血鬼に背中を粉砕され、生死をさまよっている。
鎧野と分かれ、俺は戻る。
神夜を探さないといけない。俺は俺の妹を守る。死ぬわけにはいかない。
どこでもない場所を歩く俺の前に、誰かがいた。
見覚えがあるのかないのか、俺は頭が覚醒していないことに気付く程度には覚醒してきていた。寝惚けている。さっきからずっと。
寝惚けている俺には、そいつのことなんて知らない。妹の所に帰る以外は大して重要じゃない。
なびく金の長髪、金属製のジャケットを羽織った男か女かもわからない、華奢なヤツだった。
「やあ。幸希。久しぶりだね」
「誰だお前。邪魔をするな。俺は俺の世界に帰る。帰って妹を探す」
「幸希はいつもそうだね。嬉しいけど、辛いね」
別にこいつに興味はない。
やることも変わらない。俺は前に進む。進んでいると信じる。こっちが俺の世界だ。
俺は帰る。ホーさんのいる世界に、帰るんだ。
「そっちの世界で待っていて。今度こそ僕から会いに行くから」
うるせぇ。
誰だお前。俺は神夜に会いに行くんだよ。
息苦しさを覚えると、自分が呼吸していることを思い出す。
目が、覚めた。