菱実姉妹
道の駅から長すぎる一般道。
高速道路という概念に人生で初めて憧れを抱きだした頃、夕暮れの富士山という風情と時間の経過を感じさせる絶景を味わった頃。
待ち合わせまでの時間潰しとばかりに説明された資料と、病院に行くならとホーさんとペアルックで白衣を着せられた。
病室の前、その人は待っていた。
「私は菱実要恵と申します。妹の……菱実由真の姉です」
妹の姉だから姉、かなり疲れを感じさせる自己紹介だった。
かなりの美人だと気付くのが遅れるほどに、その人は疲れた顔をしていた。
待ち合わせまでのホーさんが暇潰し半分のような説明によれば、この人は意識不明になっている女子高生の菱実由真ちゃんの姉。
ことは三ヵ月前、正確には一〇二日前になるだろうか。姉の要恵さんが気付くと、ある朝、由真ちゃんがベッドから起きなかった。
それだけだった。ただ起きないだけで病状は何も見受けられない。ただ眠り続けるだけ。
――映画やマンガ、おとぎ話では延々眠るというのは漠然と深く考えたことはなかったが、そんなわけもない。
経鼻栄養といって胃に直接栄養を送るために鼻からチューブを入れられ、寝っぱなしなので多少なりとも浮腫むし、排泄のためにオムツも付ける。
生きるというのは、キレイなことだけじゃない。それは眠り続けているだけだとしても同じで、だったら起きて一緒に笑えた方が絶対に良い。
助けるためにホーさんたちはこの場に来たのだ。
「……」
「……」
「……」
一同の一拍置くような沈黙に続いて、ホーさんがこつこつと白衣の裾を引っ張る。
対人恐怖症と猫ってことは、俺が喋るのか!? なら最初に言っておけよ!
そう思いながらも、お姉さんを不安にはできない。俺は必死に表情を作った。
「えー、事前に連絡していたもの、由真さんのノートパソコンとスマートフォンは、お持ちいただけてますか?」
「はい、その、こちらに……例のメッセージも、そのままになっています」
言葉に詰まりながら、要恵さんは紙袋に入ったパソコンを差し出してきた。
由真さんが眠り出してから、ホーさんの前に調査に当たった幾魔科医が調査した資料には、そのメッセージの内容が記されていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
これは不幸のメールです。
受信した人は、これと同じメールを一週間以内に十人の人に送らなければなりません。
二年三組の菱実由真さんは、メールを受け取っていないけど不幸です。ずっと不幸です。両親も死にました。本人もその内死ぬでしょう。
無視すれば、あなたも菱実由真の次くらいに不幸になるでしょう。
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無神経で無礼極まるこの文面のメッセージが、由真さんのSNSの受信箱にはビッシリと入っていた。
中には罵声が追加されたものがあり、それらはことごとく由真さんを攻撃するものだった。
要恵さんは、これを知らなかった。由真さんはお姉さんに一言も伝えず、毎日高校に行っていたのだ。
ホーさんの前任の幾魔科医が調べたところでは、これが“一部”にすぎないような状態が、由真さんの学園生活の大部分を占めていたらしい。
五年前にご両親が亡くなり、それから菱実姉妹は二人で生きてきた。
大黒柱として働くお姉さんの要恵さんと、家事の大部分を担当する妹の由真さん。仲の良い姉妹だったと周囲の誰もが言っていた――攻撃していたクラスメイトまでも言っていたというのだから、腹立たしい。
資料に目を通し、いくつかの感情が俺の中に芽生えた。
医療用の非公開調査資料に実名で載っているクラスメイトたちにそれぞれにどうしたら報復できるかと思考を巡らせるエネルギーめいた感情。
だが、それよりも大きな感情が有った。要恵さんの疲れた顔を見て、その感情は一番大きくなっていた。
「任せてください。由真さんは……あなた方姉妹は、幸せにならなきゃいけない人だ」
俺は霊能力者でもなんでもないし、幾魔科医として医師免許を取得しているホーさんや、化け猫(?)の夏華さんのような特別なことはできないだろう。
それでも俺の口は大言壮語を吐き、要恵さんは膝を折り、涙を流した。
ありがとうございます、お願いします、そう言わせた以上、俺は覚悟を決めた。
「あれで良いよ。ネガティブな感情が多いと呪いは壊すのが面倒になるから。お姉さんが泣いた瞬間に幾魔源がクリアになった。ちょっぴりだけだけどね」
「お褒めに預かりましてありがとう。で、ホーさん、俺、なんかすることある?」
「はぁ? 有るわけないじゃん。見学してろよ素人」
「さいですか」
覚悟を決めた俺にあっさりと言い切ったのは、要恵さんを病室の外に待たせ、対人恐怖症から解き放たれて普段通りの横柄なホーさんだった。
病室でチューブに繋がれた由真さんは、写真よりもやつれて見えた。
ホーさんは、例のパソコンを床頭台に設置している。それを“見学”してた俺はコンセントを探し、ふたりでコンセントやケーブル類を組み立てた。
要恵さんから教えられたパスワードを入れる。
それは姉妹がふたりで見た映画に出てくるフランスのデザートの名前で、いつかふたりでお金を貯めて食べに行きたいと話していたものらしい。
要恵さんならばすぐに開けられるが他の人間は開けられない言葉を設定していたことに邪推しそうになる自分を押さえた。それがどういう意味かよりもその夢を叶えられるように、この瞬間にできることを探すべきだ。
ホーさんはそれに自分のノートパソコン三台を繋いでいく。それなりに重かった。もちろん俺が運んだ。
「幾魔源はこれに間違いないね。サーバーから呪いをロードしてるね」
「本当にそんなことがあるのか?」
「幸希さぁ。自分がバカだってアピールしないと生きていけない部族か何かなの。私が言っているんだからわかれよ」
「呪いって人の意志からできるらしいんだよね。人の意志って思いや心のことでさ。
感情の集約しやすい空間……場所ですらないネットの海では憎悪も空虚も愛が渦巻いて今も無数の呪いが産まれてる。
しんどいね。不愉快だね。ダークサイドだね」
またもや自分でキャリーから出てきた夏華さんが顔をゴシゴシと前足でとかしながら説明してくれた。
俺には磨かなくても良い毛並みに見えるけど、夏華さんは気に入らないらしくてもう一度こすった。
「ということは、こういう事件、よくあることなの?」
「“よくある”という言葉の解釈によるね。千年前よりはよくあるよ」
「それはまあ、千年前はネットないしな。もっとこう、ライトな感じの質問」
「少なくとも同じ症状は僕と芳香ちゃんは知らないね。確かにネットには呪いが溜まりやすいけど混沌としていてコントロールがしにくい。
呪いの特性が安定していないってことだね。だからこういう症状もあまり見られない……今回も、何か“スイッチ”があるはずだね」
「“スイッチ”って?」
「“スイッチ”って、って?」
「“スイッチ”ってっていう質問の意味が分からないっていう意味での質問返し?」
「“スイッチ”は呪いの起動装置という意味。そのスイッチの正体を聞いているなら、僕や芳香ちゃんにもわからない。これから調査するよ」
「ふたりとも喋ってないで集中。死ぬよ」
夏華さんとのよくわからない会話から意識を戻すと、ホーさんの手の中にはキーホルダーが現れている。
肝心のカギはどこにもない、キーホルダーだけだ。ジャラジャラと連なる五つのキーホルダー。それは何かのアニメグッズのようでもあるが、どれもキャラクターではない。道具だ。
なにを模しているかもよく分からない、デフォルメした道具のキーホルダーをストラップでまとめたアイテム。
ジャラジャラと連なるキーホルダー自体はベンツもデコっているホーさんらしいといえばそうだが、デザインが写実的というかモフモフコロコロしたイラストを好んでいたホーさんのイメージとは異なっている印象が有った。
そこからひとつの貝殻のような形のものを選び出した。
「追え。探索霊具・蓬莱」
“唱える”という言葉の意味を知った。目には見えないはずの声そのものが光っているような感覚。
枝のような形をしたキーホルダーから木の実のように生っていた玉がボロボロと落ちていく。先ほど道の駅のトイレで見たものに似ているが恐怖を感じない。
月並みな表現ではあるが光と闇というか、トイレの霊は光を遮ることで影として俺の目に見えていたが、今ホーさんが落としているそれは、それ自体が光ることで俺の心に認識できていた。
その光の玉は、膨大な数で跳ね、パソコンのモニターへと殺到し、画面に突き刺さっていったが、不思議とパソコンが壊れる気配はない。
それは、あの日、俺の妹の神夜が鏡の中に潜ったときのようだった。
モニターが固体から液体になったかのように通り抜けて画面の中に入っていたのだ。
光の玉たちは画面の中を四次元のビリヤードのようにバウンドを繰り返し、次々とパソコンの画面の中ではブラウザが開き、閉じていく。
「ど、どういう原理!?」
「バカが説明聞いてもわからんないでしょ」
ホーさんは繋がっている自分の三台のパソコンを駆使し、情報を精査しているように見えた、見えたが、正直、何をしているのかは全然わからない。
鉄仮面で表情は見えないが、どの画面をどういう風に見ればこの情報量を処理できるんだが? 俺には一瞬ごとにSNSの画面や通販ページ、ネットマンガの視聴履歴なんかが通り過ぎていくようにしか見えない。
だが、その流れの中に、例のフランスデザートを家で作る方法が出た瞬間、それが由真さんの視聴履歴を追跡しているのだということを察したとき、俺は視線を逸らした。
医者のホーさんが見るのと、見る必要のない俺が見るのでは、意味が違う。
目のやり場に困っているとき、夏華さんの視線が一点を見つめ、そしてホーさんが呟いた。
「これだ」
思わず見てしまったが、ブラウザには“【LIVE】富士樹海定点カメラ”と記載されていた。
黒い映像。それはそうだろう、既に日は落ちているし、本当に樹海にあるカメラなら光源もない以上、闇しか映らないはずだ。
だが、その闇が……“黒”が、うごめいた。
CGか何かのアニメーション? 由真ちゃんのモニターの中で跳ねまわり、いくつかの光の玉がそれに弾かれ、飲み込まれていくのが見えた。
トイレで見た妖怪と同じで、光を遮ることで輪郭が見える。闇そのものが実体化したような存在。そんな画面の中の“黒”が跳ねた。
それは画面との境界へ向け、腕や角に似ているがどちらでもない何かを伸ばしてくる。
画面から飛び出してくると確信できる存在感。しかしそれが画面に広がったところで、それを抑えつけるように画面に赤が広がった。炎のエフェクト。熱を感じないのがおかしいほどの炎が四つの画面を埋め尽くした。
「防衛霊具・焔鼠」
コンピューター上でハッカーからの攻撃を防ぐソフトのことをファイアウォールと呼ぶのは知っているが、これは規格外。
ホーさんの赤いマントのような形をしたキーホルダーが光ったかと思えば、攻撃していたはずの“黒”は、画面上の炎が収まる頃には、元の黒とは異なる焦げて茶色になっていた。
由真さんを眠らせ続けたそれは非現実的な尋常ならざる力を持っているはずだ。だが、それを遥かにしのぐのが、ホーさんの能力、ということか。
「排撃霊具・孤竜」
三つ目のキーホルダーが光る。曲った白い円錐……牙の形であると気付いたのは、画面に映った白い竜の口に生えた鋭利な牙を見たからだ。
その竜は頭部しか存在しなかったがとても大きかった。どれくらい大きいかと言えば、焦げた“黒”を一口で食べてしまえるほどであり、あっさりと、それは実行された。
「はい、終わり」
一仕事終わった、ただそれだけのように……いや、それだけのことなのだろう。
前任の幾魔科医は手の打ちようが無かったという妖怪をいともたやすく撃破し、人の人生を救う。
それが、美月芳香という人物だったのだ。