夏華
鉄仮面をかぶっているのでどこからかは分からないが、少なくとも小田原を過ぎるころには後部座席で寝息を立てていた。
思えば、俺はなんで自動車免許なんて取っていたんだろうか。
もし妹が見付かったとき、そこに早く行けるようにと漠然と取っていた。
まあ、無駄にならずに良かった。
「……行きたいところに乗せてってさ。こういうカワイイ車も……神夜、好きだろうし」
「ねえ、次の道の駅で止まって」
何気なしに呟いた言葉に、ホーさんの明確な意識の伴った口調が重なった。
俺はカーナビに尋ねると、五キロ走って静岡県に入ってからになることを確かめた。
「コンビニとかじゃなくて道の駅じゃないと、ダメ?」
「ダメだからそう言ってるに決まってるじゃん」
「ほいほい」
その理由は想像に難くない。何かの恐怖症に由来するのだろう。
ホーさんはプライドも高そうだし、自分の病状を喋りたいわけでもないだろう。
ルートを変更して道の駅に入ってから、ホーさんはトイレまで付いてこいと猫の入ったバッグを抱きかかえながらそう言った。
駐車場を歩いているときも、トイレに入っていくときも、すれ違う人々にも緊張しているようだった。
そして、多目的トイレの前でホーさんは、いつもの強い声で言った。
「中を覗け。よく見ろ。腐った饅頭が落ちてたり、大きな虫はいないな?」
コンビニだと不都合なトイレしかなかったりするし、プライドの高いホーさんだ。愉快なことではないだろう。
何に対しても疲れている子であるとは思っていた。人よりも頭が良いし、思考が俺の倍速で動いているのだろう。
その分、疲れるのが早いようだった。考えなくて良いようなことも考えてしまっているのだ。
警戒してしまう。恐れてしまう。俺は便座の裏や手洗い場の後ろになにもないことを確認した。
入念に、それでいてトイレを我慢しているホーさんのために手早く。
そして入れ替わるようにどうぞ、とエスコートしてみせたが、中を覗いたホーさんは露骨にため息を吐いた。
「幸希お前、役に立たなすぎだろ。よく見ろよ」
蝉かゴキブリでもいたかと振り向き、ホーさんの鉄仮面の光沢の向かう先、視線を追った。
ぼんやりとした気体のような存在が立ち昇りつつあった。
透明の存在から色がにじむように少しずつ可視化しようとしつつある。名前はわからないがそれをカテゴライズする方法はわかっていた。
“妖怪”。
【ヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁ……俺はぁ、ヴぁヴぁヴぁヴぁヴ】
突如として相対した非日常に、俺は言葉と行動を失ったが、ホーさんは俺と多目的トイレのドアを同じように端に寄せ、タイルを踏みしめた。
「はい、邪魔」
俺に言ったのかと思うような気安い言葉と共にホーさんが手を振ると、その妖怪は霧散した。
それが消滅したという実感は、俺はむしろ俺に妖怪の実在を体感させていた。
あっけなく。即座に。妖怪は消滅した。
「幸希。夏華ちゃんを持ってて。絶っっ対、トイレの床には置くなよ!」
妖怪を倒したときより切羽詰まった様子で、ホーさんはキャリーを渡してトイレを閉めた。
腕の中のキャリーのプラスチックと金属パーツの種類の違う冷たさが、俺の頭の中を冷やしていた。
「今の、幽霊だよな」
「そうだろうね」
「俺、あんなの初めて見たけど」
「芳香ちゃんやボクと一緒に居たからね。キミの幾魔源が活性したんだろうね。覚醒だね。目覚めだね。エボリューションだね」
「幾魔源? 霊能力ってこと?」
「うん。“なんらかの科学的に説明が不可能、あるいは難しいエネルギー源”ってこと。元々、キミの妹さんも鏡に入れる術者だったんだろう?」
「俺にはできなかったんだ。何度も試した。妹を追って何回も試したけどできなかったけどな……ところでさ」
「はいはい」
「今、俺、猫の……夏華……さんと喋ってるよね。これも俺の能力?」
「違うよ。僕が人間の言葉を喋ってる。キミは何もしていないよ」
それはまあ、俺の妹の神夜は鏡面に消えたし、ホーさんは素手で妖怪を倒したし、猫が喋ってもおかしくはないわな。
納得できたところで、今度は腕の中のキャリーが震えた。
後々に気付くことだが、このキャリーは見た目ではわからないが、内側から鍵が開いたり掛かったりするようになっている。
キャリーの戸が開き、そこからすらりと手が……白く長い、女の腕が出てきた。
重さや驚きを俺が感じるより早く、目の前には一人の女性が立っていた。
低めの背と大きな瞳に跳ねた前髪が少年を思わせたが、俺より年上に思えた。
「あんたが夏華さん?」
「お腹空いたから何か買ってくるよ。幸希くんと芳香ちゃんは先に車に戻ってて。ボクも戻るからね」
「良いの?」
「うん。芳香ちゃんもキミのことは気に入ってるようだし、ボクも任せられるよ。安心だね。頼れるね。ガーディアンだね」
「いや、そうじゃなくて」
「?」
「猫がひとりで出歩いて良いのかって方です。迷子ペット事案じゃんね」
アハっ、と夏華が顔をくしゃっと笑う姿を見て、俺は彼女が本当に猫なのだということを察した。
そしてベンツで合流した俺たちに夏華さんは焼きそば、タコヤキといったフードコートメニューを出してきた。
ただ、見慣れないものもあった。
「なにこれ? おでん?」
「静岡おでん。黒ハンペンとか角揚げとかが入ってる静岡名物」
「美味しいの? 夏華ちゃん」
「食べればわかるよ」
言いながら夏華さんは白黒猫の姿に戻り、串からいくつかオデンダネを選び、するりとキャリーの中へと戻った。
ベンツの中、串に恐怖症があるというホーさんに、俺が串から外し、食べたいというものを取り分けた。
取り分ける間、“汁をこぼすな”とか“一個丸ごとなんて食えないから半分にしろ”とか小言が多かったが、楽しい食事だった。
口の悪いホーさんの小言、モチャモチャと音を立てて食べる夏華さん、長時間の運転で疲れ切っている俺。
間違っても快適とは思えないが、楽しいかった。不思議と楽しかった。
妹の神夜がいなくなって以来、初めて誰かと食事をしている、そんな気がしていた。