幸希と神夜
平成の終わる頃、吸血鬼は伝説として扱われていたが、それは妥当なまやかしだろう。
欺瞞や偽善であろうとも、自分が吸血鬼たちのエサ、放し飼いにされた家畜にすぎないという現実に耐えられない人は少なくないだろう。
命の消費者、生態系の頂点、暴虐な魔人たる者。
魔人は暗がりの中でその人ならざる姿を現し、俺を恐怖に晒していた。
今、その吸血鬼は、圧倒的な存在感を放ちながら、その表情は俺と同じだった。すなわち、恐怖していた。
「……まさか、そんなことがあるはずがない……キサマが……キサマが、あの、あの美月芳香だとでもいうのか!?」
「そう言ったでしょ。記憶力って言葉くらいは知ってるよね」
「確かにその姿、その魔力……なぜこんなところにいる!?」
「治療に決まってるでしょ。私、医者だから」
「キサマのような……キサマのような医者がいるか! 我ら魔人の天敵が……!」
そう、吸血鬼は恐れているのだ。
樹々の合間から差す月光を反射する銀色の鉄仮面を付けた少女。
俺の行方不明になっている妹と同い年、一七歳の小娘を吸血鬼は恐れていた。
この吸血鬼だけではないだろう。この世界の闇を統べることごとくの吸血鬼たちは一体の例外もなく、病的なまでに彼女の存在を恐れているだろうことが想像に難くない。
そう、まさに、吸血鬼たちは――少女恐怖症だったのだ!
俺こと蝶谷幸希が、こんな虫と草しかないような樹海で、知りたくもない世界の真実を知るに至ったか?
どこから説明すれば良いのか、俺はあまり説明が得意ではないが、あえて説明するならば――その日、俺は悪夢を見ていた。
そのとき、俺はそれがいつもの悪夢だとは気付いていた。
だからこそ目覚めるのが惜しかった。
俺の妹はとても賢かったが、自分が寂しがり屋であることは知らなかった。
遊びたいとき兄である俺にすらどう声を掛けて良いかわからないのだ。
それは夢の中でも変わらず、憎たらしく愛らしい。
「神夜、遊ぼ」
背中が嬉しそうになるが、振り向いたときには仕方ないなぁ、という顔をしている。
生意気なのが俺の妹の神夜なのだ。ただただ可愛い。
「子供っぽいのは付き合わないよ幸希。私はクリエイティブなヤツしかしない」
「なら、シナリオ造りだな。ふたりでこの世界にないオリジナルの物語を作るんだ。どうだ?」
「……まあまあかな」
うちの妹は、間違ってもお兄ちゃんとは呼ばない。
ふたりで物語を作り、それをぬいぐるみで演じる。それがシナリオ造りだ。
それはお人形さん遊びなどという子供っぽい遊びではない。シナリオ造りというとてもクリエイティブな遊びだ。
俺にとっては妹が楽しければそれでいい。おそらく世界中の兄という生物がそうであるように、十二歳で俺は、自らの存在意義が妹の笑顔と幸せを守ることであるという真実を確信していた。
人生のハイライト。兄が妹を笑顔にする。それ以上の幸せがあるだろうか。
ずっとこの時間だけを繰り返していたい。
しかし、この幸せは“あのとき”に終わった。
俺が“あのとき”のことを考えると同時に、この夢も“あのとき”を再現しだした。夢はいつもこうだ。
神夜は遊園地で遊ぶように鏡をすり抜けたのだ。
冷たい鏡を通り抜け、鏡の向こう側へと行ってしまう。
現実離れした現実の記憶が、スローモーションで虚像離れした虚像として夢を成している。
――このあと、神夜は、俺の妹は、戻ってこなかった。
人生最悪の瞬間はまだ終わらない。誰も信じてくれない悪夢。
俺の存在意義はハタチを過ぎても変わらず、この悪夢の中で妹の面影を追うことだけを待ち望む人生。
今回も、鏡をくぐる妹のちいちゃな唇が、こう動いた。
「起きろよ」
夢が消えてから、腹の痛みに蹴られたことに気付いた。そこはふかふかの絨毯の上。
――おかしい、ここはどこだ。愛しのボロアパートじゃない。
周囲を見渡せば、小奇麗なファイルとぬいぐるみが所狭しと並べられているアンバランスゾーン。
誘拐でもされたとしか思えないが、誘拐した人間をそんな部屋で監禁するのかは疑問だ。
そして目の前には“そいつ”がいた。俺を蹴っ飛ばしたヤツだ。
「確認。お前は蝶谷幸希だな」
「……いや、ちょっと待て。マジで待て」
「お前の質問は許していない」
「でも、さ……おたく、その顔、何?」
誘拐犯は確実に俺より年下だった。
ニット生地のベストにハーフパンツ。子供っぽくならないようにという背伸び具合が中高生のそれだ。
しかしながら、その顔は精工すぎた。黒い鏡面のような磨き上げられた鉄仮面で覆い、襟足から覗く刎ねた後ろ髪によって茶髪であることがわかるだけ。
鉄仮面少女。それが率直な感想だった。
「私は“醜形恐怖症”だ。ブスだと思われたくない恐怖症なんだ。見てわからないのか」
「見てわかるわけないだろ。てか、声からすれば、おたく、カワイイと思うけどね?」
「分かっているさ。ただ、それでも怖いものは怖い。情けないが、そういう病気だ」
「そりゃあ……なるほど」
「他にも私は、“酔っ払い恐怖症”だし、“金属アレルギー恐怖症”……。
二五以上の恐怖症を抱える人間を呼称するための便宜上の病名だが、“森羅恐怖症”という病気だ。
私は七〇以上の恐怖症がある。重病人、と言っても良い」
「つまり、アルコールや金属アレルギーってこと?」
「違う。金属のアレルギーを発症するんじゃないかという恐怖症なんだ。だから金属アレルギーの人間の近くにもいたくない。体質じゃあない。精神的なものなんだ」
「……その仮面は金属じゃないのかい?」
「お前はバカだということが分かったよ。私は金属を身に着けることを恐れているわけじゃない、赤の他人からアレルギーが伝播するんじゃないかという恐怖を持っているんだ。言われないとわからないのか? 飾りにすらなっていない格好な頭なんだ、せめて使ってやれ」
口が悪いとは思ったが、俺は苛立っても警戒すらできていなかったように思う。
考えなしの善人というのが俺の評価だし、それはそうだと俺も思う。
そういう性格なんだから仕方ないが、それにしても危機管理能力低すぎないか俺は。
「まあ、バカなわけだが、何か困ってるのか? 手伝えること、あるかい?」
「そのために拉致ったに決まってるでしょ。バカすぎるでしょ」
「誘拐しておいてなんでそんなに態度でかいの。おたく」
「人質に態度の小さい誘拐犯なんているわけないでしょ」
「……それは確かに……じゃあ、お前は俺に何をさせたいんだ?」
「人のことをお前って言うなよ。育ち悪すぎ。お前」
その口の悪すぎる自称美少女の開いたファイルは、かなりブッ飛んでいた。
丸いキャラクターが描かれているカラフルな付箋で装飾されているが、内容はかなり不釣り合い。
中に貼ってある写真は、口から黄金を吐いている中年女性、風船のように浮かびあがり紐でベッドに繋がっている子供、膝や腹部に顔のような傷ができていて、それぞれにプライバシー保護のための目線が入っている男性。
冗談やジョークとしてもハイセンスすぎるし、到底、それがニセモノだとは思えなかった。写真から実在が伝わってくる説得力がある。
「これは病気、なのか?」
「空を飛べても落ちたら怪我をするでしょ。病気と特技は個性の別の相でしかないよ。
優れた能力と見るか、欠点と見るかの違いはあれど、私の治療を必要としている患者がいる。
それが幾魔科医の仕事で……さあ幸希、お前の仕事がわかったな?」
「全然」
「わかれよ。私の付き添いが体調を崩したから、その代わりをするんだ」
わかるわけないだろ、と反射的にツッコミを入れようとしたが、それ以上にわかることがあり、思わず確認した。
「その人の体調不良の理由、ストレスと過労だったりするの?」
「おいおい幸希、どうして急にそんなに物分かりが良いんだ」
俺は育ちが悪いかもしれないが、こいつは態度と性格が悪い。
こいつの介添えなんてしてれば過労にもなるわ。
とはいえ、現実感がない状況で、現実的でない写真に俺に現実感が戻ってきていた。
そう、俺はずっと目が覚めていながら夢を見続けていたのだ。妹が行方不明になってからずっとだ。
非現実的な世界、それが俺にとっての現実だ。妹の気配を感じ、そしてそれが熱になっていくのがわかる。
どこかで誰かが困っている人間がいる。
そして目の前の小娘は、性格が悪いながらにそれを救おうとしているというのだ。
「協力するよ。お前も根は悪いヤツじゃなさそうだし」
「だーかーらー、お前って言うなよ。学習能力ないのかよ」
「いや、俺、お前の名前、聞いてないんだけど」
鉄仮面少女はコンコン、と弾くように指で鉄仮面を叩いてからそうだっけ? と小首をかしげる所作が、ちょっとだけカワイイ。
「私は美月芳香。覚えろ」
「覚えた。芳香ちゃんね」
「雇用主をナメてんのか。さん付けだろ常識で考えて」
「誘拐犯がいつから雇用主になってんだよ……じゃあ、ホーさんで良い?」
「……許可しよう。ところで妹を見つけ出したらどうする?」
お前は俺のことを呼び捨てにするのか、そうは思ったが思うだけにした。
なぜかはわからないが、呼び捨てにされても不思議と自然な気がしたし。
質問には、思ったことをそのまま言うことにした。誰かに聞いて欲しかった意味もある。
「抱きしめて愛してる、伝えるな」
「ウザっ……」
「兄貴なんだから仕方ないだろ。妹を愛してるのは」
「恥ずかしいヤツだな……じゃ、今は、いいか」
「なんの話?」
「バカは考えなくていいよ」
……?
手掛かりでも探してくれる気なのかな?
まあ確かに鏡の中に消えたとなれば、超能力の話だし、期待していないといえば嘘になる。
そういえば奇妙だ。俺はホーさんに神夜の捜索をもっと頼もうとしていないのはなんでだろう。
やっと見つけた手掛かりなのに、俺はホーさんの近くにいるだけで、神夜がそばにいるような安らぎがある。
「で、俺は何すればいいわけだ」
「運転手。私は突発的に恐怖症に襲われば動けなくなるしかない。そんな恐怖症への恐怖症もある。足になれ」
「アイアイサー」
その後、猫の毛が落ちている廊下や、やたらにぬいぐるみだらけの部屋を抜けた。
途中、ホーさんは鍵を閉めたか分からなくなる恐怖症や、スニーカーのヒモが解ける恐怖症からの確認で時間を使いつつ、たどり着いた車庫に有ったのは、室内で見た覚えのあるまん丸いキャラクターでデコられたイタリア製高級車。
社内までキャラクターがプリントされ、後部座席はピンクのファーでフカフカ。やべえ。
「あの、これ……」
「安全運転でな。私は酔いやすいんだ」
「いや、デザイン……」
「カワイイのは知ってるよ」
「……そっすね……ホーさん、何歳?」
「十七歳」
なら年相応か。いや普通は十七歳は自家用車なんて持ってないけど。
どこか浮ついた自分を落ち着けて運転するために俺は日常会話をすることにした。
「そういえば、ホーさん、俺の妹と同い年だわ」
「それはそうでしょ」
「なんで?」
「……幸希、お前、ほんと、バカね」
? 意味が分からないが、ホーさんがバカ呼ばわりするのは口癖なのはわかった。
それにしてもなぜかは知らないが初対面じゃない気がするというか、声を聞いているだけで嬉しくなっている自分がいる。
妹と同い年の子と会話できて嬉しいのか。鉄仮面越しでも声も似てるし。
「ところでホーさん、行先どこ?」
「静岡のF町だ。幸せの希薄な男」
「俺の名前は幸希だけど、希薄じゃなくて希望の希だよ。幸せと希望の幸希……今回の患者さんがどんな感じかって聞いても良い? 個人情報?」
「私の付き添いならお前も医療従事者だから開示はする。今回は医学的には意識喪失の患者。魔術的には呪い……不幸の手紙系だ」
「不幸の手紙って懐かしいな。本当に不幸になるのか、それ?」
「まさか。今回は通ったサーバーで妙な呪いを拾ったんだろうな」
「サーバー……?」
「紙の手紙じゃない。チェーンメール。今、一番呪いが多い場所はインターネット回線の中。常識」
「どこの世界の常識なんだそれは。とにかく緊急だな。高速の入り口は……」
「私は高速道路恐怖症だ。下を行け」
「……ここ、東京なんだけど?」
「だから?」
言いながらホーさんは一番大きな手荷物――更に大きいものは俺に持たせていたが、それだけは自分で持ってきていたもの――を開けた。
そこから猫が一匹ピョンと飛び出したことで、俺はそれがペット用のキャリーバッグであることを知った。
白い胴体に黒いマントを被り靴下を履いたような猫は、ルームミラー越しに俺の顔を見てくすくすと笑っているようだった。まるで俺の心を見透かすように。
アクセルを踏み込む足が妹が消えてから十年。はじめてワクワクしていたのだ。
「良いお兄ちゃんね、芳香ちゃん?」
「ただバカなだけでしょ」
今、後部座席でホーさんが思いっきり猫と会話してた気もするが、些細なことだろう。
そう、俺は良いお兄ちゃんにならなければならない。
神夜は世界一の妹で、そのお兄ちゃんなのだから。人助けくらいしてやらなければ嘘だろう。