2020年正月、伊丹駐屯地
帰ってきたつるかめ戦闘団のメンバーは行く前より介護度が下がってる?
ようやく、陸上自衛隊 統合介護団 第36施設介護中隊「伊丹荘」は落ち着きを取り戻した。
なんせ、施設オープンしてまもなく、お客様が大挙して韓国に「外泊」されたのだから。
でも、恐ろしいもので、帰ってきた人、ほとんど介護度が下がる結果になってるのである。
ほどよい緊張感、ほどほどの体力的負担、何よりも自分たちの積み上げてきた「経験」「知恵」を活用して、人によってはさらに「伝授」してきたことがプラスに働いているようだ。
パンターG型のところで触れた「日独混成」の戦車クルーでこれまた、多国籍な民間人を「たったの1発」で救った例等、そんな1例かも知れない。彼らの功績は今もボービントン博物館の展示物となったパンターの前に示されている。
その時の我がクルーは、介護保険非該当に判定、今では施設中隊で働く身である。以下にこの事例を詳しく紹介しよう。
そもそもは、陸上自衛隊が韓国でパンターを活用のニュースからである。
これをみた駐日ドイツ大使館の駐在武官は我が目を疑った。確かにパンターの稼働車両は他にもある。また、パンターもあちこちに保存されてる。
ただ、現役としてはあり得ないのだ。
それをヘーゼンと使う自衛隊に彼が関心を持つのは彼の家系が、ドイツ戦車の歴史そのものだからだ。
捕獲したイギリス戦車を運用した曾祖父、戦時中パンターに乗った祖父、レオパルトに乗ってた父、レオパルト2に関わってた自分、なかでも唯一本格的対戦車戦闘を生き抜いた祖父のことは、ガキの頃から耳にタコができる位聞いてきた。
確かに祖父の話は時により飛躍しまくるが(M26をやっつけた?とかとある特殊作戦に関わってたとか)、生き残りの戦車兵である祖父に是非ともパンターを見せてやりたいと思ったのだ。
彼はちょうど夏期の休暇を利用し、ドイツに戻り、日本経由で韓国に入ったのである。当然のように祖父を連れて。
いきなりのドイツ軍将校と、元将校の来訪には、つるかめ戦闘団の面々も驚いたが、元戦車乗りのじい様方はたちどころにに打ち解けたのである。
宿営中の天幕内で行われた「歓迎会」はたちまちモータープールでのパンターを囲んでの大宴会に発展、いつものように「次はイタ公抜きで」のセリフで盛り上がり、せっかくだから「パンターに乗ってけー」になり、
翌朝にはかって愛用していたパンツァージャケットに身を包んだじい様が、つるかめ戦闘団に1人、非公式に「配置」されたのである。
翌朝からドイツのじい様は久しぶりのパンターを動かす訓練から入ったが、恐ろしいことに「体が覚えていた」のでたちまち操縦は右に出るものなく、砲手席についても、見事な見越し射撃を見せてくれるのである。
さすがに新型の情報端末がついた通信席や、重い弾を扱う装填手は無理なので(これには孫が本人の意向を無視したじい様方に「任命」された)車長は自衛隊、砲手と装填手がドイツ、操縦と 通信がこれまた自衛隊というクルーで、使われることになったのである。
韓国でパンターを駆って活躍したじい様達の話が続きます




