魔王候補(わたし)と愛姫(わたし)・9
「ジェイクさん!」
思わず叫んでしまったのは、彼が現れた事に対する驚きでも喜びでもない。彼の体のいたるところに傷があったせいだ。
頬からは血が流れ、右手の先からも、左手に持った剣の先からも、赤い水滴が白い地面に色をつけていく。それは、返り血ではなくてジェイクさん自身から血が流れている事を示唆するものだった。
上下とも黒い服を着ているせいと若干怒っているような表情のせいで、どれほどの怪我を負っているのか、どれほどの痛みを受けているのか推し量る事が出来ないけれど、それでも今まで一緒にいてこれほど酷い怪我を負っている姿は見た事がなかった。
「ここに愛姫以外が来るなんて、無作法にも程があるね」
傍に立っていたゼロさんから、ぞっとするほど無感情な声がこぼれた。
見上げると、微笑んでいるのに全く目が笑っていない彼がいて、その顔を見た事に激しく後悔した。こんな表情が出来ると知ってしまっては、彼と今までの様に話す事さえ怖くなってしまう。そんな顔だった。
「無礼は詫びよう」
ゼロさんに白亜様が話しかけた。
いつも片側にひとまとめにしている銀色の髪はほどけ、皺ひとつ見受けられない服もだいぶ乱れてしまっている。けれど、魔法で癒したのか、服に血や破れた跡はあるものの怪我は見受けられなくなっていた。
そんな白亜様をじっと見つめた後、ゼロさんは少し首をかしげた。
「君は、愛姫と少し似ている匂いがするね。血縁者かな?」
はい?
何言いだすの、この人。そんな風に思っていると、白亜様はわたしをちらりと一瞥してから口を開いた。
「兄だ」
「…………は、い?」
「彼女の兄だ。半分しか血は繋がっていないが」
え、ええ―――!? どど、どういうこと?
目を白黒させているわたしを置いて、ゼロさんはなるほどね、と平然とした声で頷いた。
「匂いが似ているのはそのせいか。でも、どうしてここに来られたんだ? 愛姫の血は流れていないんだろう?」
「父が魔王だったからな。ここの管理者としての血は継いでいる」
いやいやいや、ちょっと待って。ゼロさんもなるほどじゃない。
え、つまり。わたしの両親って、愛姫と魔王ってこと? 白亜様は魔王様のご子息様で、血が半分繋がったお兄さん? 魔王が管理者? どうしよう。情報量が多すぎてついていけない。
完全に混乱しているわたしに気付いたのか、白亜様は眉をひそめた。うわ、その顔懐かしい。覚えの悪いわたしに勉強教えてた時の顔だ。
「まあ、君がここに来れたのは分かったけど」
ゼロさんの言葉に、意識が戻ってくる。ゼロさんの視線はジェイクさんに向けていた。
「そっちのお前はどうしてここに来られたんだろうね」
「知るか。俺は持ち物を取りに来ただけだ」
いやいや、ジェイクさん! そのぞんざいな物言いちょっと! それにその持ち物ってわたしですか!? ゼロさんが白亜様以上に敵意むき出しなの感じてます? 白亜様は君なのにジェイクさんはお前ですよ!?
心の中で突っ込んでいると、急にゼロさんが笑い出した。え? 何? 怖い。
「知るか、ね。僕は分かるよ。お前がここに来られた理由」
急に空気が凍った気がした。
ゼロさんがジェイクさんに向けている視線が、自分に向けられているわけでもないのに心臓が凍りそうなほど冷たくて鋭い。
「僕の物に手を出したからだ」
次の瞬間、物凄い勢いで黒い刃が視界を遮った。
この場所のいたるところから現れた刃は、確実にジェイクさんを狙っている。襲ってきた数個の刃からジェイクさんが跳び退った瞬間、その一つが脛を掠めて血が飛び散った。
「ジェイクさん!」
思わず駆け寄ろうとすると、足元から数本の黒い影が伸びて行く手を遮る。あっという間に鳥かごの様な形に変わり閉じ込められた。
「ゼロさん!」
「ごめんね、今は安全なところにいて。大丈夫。ここは僕の住処。ここなら僕の力が思うように発揮できるから」
「いやそうじゃなくて!」
大丈夫でも何でもないし! っていうか、出して!
鳥かごみたいになった影は、いくら押しても引っ張ってもびくともしない。そうこうしている間にも、二人の戦いは激しさを増していく。ゼロさんが言っていたことは間違いないようで、現れた刃は軌道を変えて的確にジェイクさんを追い詰めている。刃の狙いはジェイクさんだけれど、容赦の無い追撃から白亜様も避けなければいけないようだった。
「やめて! ゼロさん!」
「なんで?」
「なんでって! なんでもです! そんなことする人、わたしは嫌いです!」
叫ぶと、急に刃の動きが止まった。
静かに刃が消えていき、わたしを捉えていた影も消えていく。残されたのは膝をつくジェイクさんと、片翼を傷つけた白亜様。そしてわたしをじっと見つめるゼロさんだった。
「僕を好きになってくれる? ずっと一緒にいてくれる?」
「それは――……」
「おい」
言いかけた言葉を、少しかすれた、でも酷く心を揺さぶられる声が遮った。
頭を切ったのか、左側の額から流れる血で片目を閉ざされていたけれど、残された冷たい青い目が真っすぐにこっちを見ている。
「余計なことは言うなよ、所有物」
酷い言い草だ。
でも、その所有物の為にここまでしてくれた彼だから、わたしはここまで心を動かされるんだろう。
「うるさい。お前は黙ってろよ」
イラついた声をジェイクさんに向けたゼロさんの腕に必死でしがみつく。これ以上、ジェイクさんが傷付くのは見ていられなかった。
「――できません」
わたしの声に、ゼロさんの動きが止まる。
「無理です。例えわたしがあなたを好きになったとしても、母の賭けには勝てません。だって、あなたがわたしを好きじゃないから」
「え?」
顔を上げると、凄く驚いたゼロさんの顔が見えた。
「だって、あなたが好きなのは、愛しているのは、別の人でしょう?」
ゼロさんが首を傾げる。
ああ、彼は何も分かっていないんだ。ここまで言っても分からないなんて。
「ゼロさんが自分の話をしてくれた時の事、覚えていますか? 愛姫について話すことで、不思議に思っていた事があるんです。最初の愛姫の話をしてくれましたよね?」
「セラフィーナの事?」
「はい。沢山の愛姫について話をしてくれましたけど、ゼロさんが名前を覚えているのはセラフィーナさんだけでした」
「それは……」
「セラフィーナさんの妹さんの名前も、わたしの母の名前も覚えていませんでした。それは、あなたにとって彼女たちはみんな、わたしも含めて「愛姫」だったからですよね? あなたは一人の人として認めて、求めていたのはセラフィーナさんだったんじゃないですか?」
「…………」
「ゼロさんは、愛しいという感情を味わってみたいと言ってたけど、本当はもう知っていたんですよ。自分が気付いてなかっただけで」
話しているうちにゼロさんは額に手を当ててうつむいた。肩が震えて――笑い出す。
「あははははっ! なるほど! ちゃっかりしてるなとは思っていたけど、とんだ策士だったんだな、あの愛姫は!」
「えっと、あの、なんか……ごめんなさい」
「いや、面白かったよ。あの何か含んだ笑顔の理由に、やっと合点がいったよ! そりゃそうか。僕が乗ってしまえば、彼女の思惑通りに事は進むって寸法だったんだからね」
座り込んだゼロさんは、妙にすっきりとした顔をしていた。
「彼女の勝ちだ。約束通り、彼女で愛姫の制度はおしまいにしよう」
バイバイ、と手を振る。
そのゼロさんの姿が歪んで、周囲も歪んで、立っていらてないほど気分が悪くなった。思わず目をつぶり、なんとか倒れないように堪えていると周囲の空気が変わった気がした。
気持ち悪さが消え、ゆっくりと目を開ける。
そこは、魔王城の最上階。王座の間だった。きらびやかでごっつい椅子がどんと背後においてあり、わたしと白亜様とジェイクさんは赤いじゅうたんの上にいた。
膝をついているジェイクさんの姿が目に入った瞬間、無意識に彼に駆け寄っていた。そのままの勢いで抱き着く。戻ってきた安堵感と、血の臭いの中に感じる温かさに自然と涙が出る。
「……俺にここまでさせたんだ。覚悟は出来てるんだろうな?」
耳元で響いた不穏な言葉に不吉な予感が――何故かしなかった。




