学生編 09
台風一過、今の皇居はまさしくそんな様相だった。
「静かになりましたね」
「あぁ、お祭り騒ぎだったな。もう少し慎み深さを養わないとこれから大変そうだ」
皇后の言葉に答えて、国皇はニヤリと笑う。
サプライズの舞台となった応接室に響いた笑い声や悲鳴は、もうない。料理の残骸が散らばってはいるものの、それらが片付けば普段の姿を簡単に取り戻してくれるだろう。まるで何事もなかったかのように。
「無理でしょう。あなたの子ですから」
「そうだな。お前の子だしな」
二人は顔を見合わせて笑う。出会ったばかりの頃のように。
「……いよいよ、始まったんですね」
「あぁ、これから大変だぞ」
「経験者は語る、ですか」
「私の経験などアテにはならんさ。未来は常に新しいことで満ちている。あの子達の行く道に、誰かの足跡なんてないんだから」
「そうですね」
二人の歩んできた道だって、決して平坦だったワケではない。大変だと思う断崖絶壁も、乗り越えてみれば大切な思い出だ。
「あの子達がこの国にどんな華を咲かせるのか、楽しみだよ」
「もう傍観者気取りですか? まだ早いですよ」
「そんなことないさ。三年なんてあっという間さ。特にあの子達にとってはね」
そう言って眺める窓の外には、整えられた庭園が広がっている。室内に残る喧騒の跡とは対照的な美しさだ。国皇にとっても自慢の景色ではあったが、今は散らかった菓子の残骸の方が愛おしい。
「陛下、そろそろお時間です」
静かに開かれたドアから顔を覗かせた美形の中年紳士が、低くそう告げる。
「茨木か。わかった。今行くよ」
「どうでしたか? 彼らは」
「なかなか楽しみな連中だ。期待していいと思うね」
「それはそれは。是非直接会いたかったものです」
「それは駄目だ」
振り返り、国皇は即座に言い放つ。
「何故です?」
「お前、ウチの娘をナンパするだろう」
「はっはっは、さすがに国皇の前ではやりませんよ」
裏ではやるらしい。
「相変わらずだな、お前は」
「三つ子の魂百まで、という諺をご存知ですか?」
「あぁ、よく知ってるよ。その軽さに見合わない有能さも含めてな」
「お褒めいただきまして恐縮です」
「はいはい、よし仕事に戻るか」
笑顔の三人は、こうして喧騒の跡に背を向けた。
その肩にたくさんの想いを担ぎ直し、そして子供達への期待を胸に秘めて。
「いやー、さすがにビックリしたよ」
高月家の夕食は一家揃ってから始めるのがルールである。父親の帰宅時間によって多少の前後はあるものの、午後八時を過ぎて食卓に揃わないことは稀だった。
この日、最後に食卓に並んだのは、現実離れした誕生日会から帰ったイツカだ。ケーキや菓子を飽きるほどに食べた彼だったが、その日の夕飯は母親の特製ハンバーグである。どんなに腹が一杯でも残すことのない一品だった。
フォークとナイフでいつも通りに切り分けてから、箸でつまんで口に放り込む。ふんわりと仕上がった食感と濃厚なデミグラスソースが絡み合い、口の中で解けていく。その至福の味わいに自然と頬が緩んだ。
「まさか誕生日だからって、あんなビックリイベントを用意しているとはねー。冗談にしても大掛かり過ぎて笑えなかったなー」
イツカの発言に父母と妹の手が止まる。
彼らは互いに顔を見合わせてから、やや不安そうな視線を長男へと集中させる。その表情は、明らかに何か問いたそうなものだ。
「何? どったの?」
一方のイツカは安心しきったような顔でもぐもぐと現実を噛み締めている。
「まさかとは思うが……イツカ、今日のことを冗談だと思っていないよな?」
父親が代表して尋ねてみる。
「え、冗談だよね。僕が皇太子とか、そんな馬鹿な話があるワケないじゃない。大体、それだと僕が父さんや母さんの子供じゃないってことになるんだよ。そんなワケないって」
「イツカ」
声色を整えて箸を置き、父親は姿勢を正してイツカに向き直った。
「なに?」
「それは本当のことだ」
「またまたぁ、どうせ響士郎が悪巧みしたんでしょ。アイツのそういう悪乗りって巧妙過ぎて、どこからがホントなのかわからないから性質が悪いんだよなぁ」
「個人の悪戯のために国皇陛下が協力してくださると思うか?」
「それは……たとえばメディアの企画とか? ホラ、素人を騙してドッキリ映像を流すみたいなの結構あるし」
「響士郎くんからドッキリだと言われたのかい?」
「いや、それは言われてない、けど」
「そもそも、仮にメディアの企画であっても陛下がそれにお出になることなどあり得ないよ」
「そっくりさん、とか?」
「皇居を借りてか?」
いかにも不自然な理屈である。もっとも、あの国皇なら嬉々として参加したいと言い出した挙句に周りから止められそうではある。
「でも、だったら――」
「もうわかっているだろう。響士郎くんは冗談でこんなことはしない。仮に冗談であったとしたら、冗談だとキチンと告げるハズだ。そもそも、それが冗談でないことを私達も知っている」
「え、じゃあ……」
顔面から血の気が引いて、手から箸が零れ落ちる。
彼は今、現実の重みに気付いた。
やっと、である。
「おいおい、本当に冗談だと思っていたのか」
「だだだだって!」
「お前は紛れもなく国皇陛下の息子、皇太子だよ」
「いやいや、僕なんかにそんな大役務まらないよっ。響士郎ならともかく、そんないきなり言われても困るからっ」
「帰ってきた時は妙に落ち着いてると思ったら、なるほどねぇ」
母親が溜め息混じりに納得する。
「だって、こんなの誰だって冗談だって思うよ! 誕生日に連れられて行った先に本当の父親と母親が待ってて、しかもそれが国皇と皇后で、そればかりか新しい妹まで紹介されてさ。どこから生えたんだよこの設定って思わない方がおかしいよっ!」
「響士郎くんが説明してくれただろう?」
「説明は聞いたけど、到底信じられるような話じゃなかったし……」
「陛下の言葉も冗談だと思っていたワケか」
あの国皇なら仕方がない。
「そんなこと言われても……あ、そういえば国皇が父さんに感謝しているって言ってたよ」
「そうか」
応じる父親は小さな、しかしとても満足そうな笑顔を浮かべる。その表情を見て、その言葉だけでも単なる冗談ではなかったことをイツカは思い知る。
「冗談じゃ、なかったんだ」
「重ねて言うが、イツカは間違いなく陛下の子供だ。それを私達夫婦が預かり、自分の子供として育てた。だから――」
一拍おいてから、父親は続ける。
「お前は間違いなく、私達の子供であり家族だ」
「父さん……」
肩から力が抜けるのが、イツカ自身にもわかった。と同時に、自分が気付かない内に緊張していたことを知る。彼が怖がっていたのは未来に立ち塞がるであろう困難や苦労ではなく、培ってきた絆が失われてしまうと思ったことだ。
それが今、否定された。
「母さんと相談してお前へのプレゼントを考えていたんだが、なかなか良いものが思いつかなくてね。何を渡しても別れの記念品みたいになる気がしたから」
彼が今悩んでいることなど、父母の悩んできた大きさと時間に比べれば微々たるものだとイツカは知る。
「だからイツカ」
「はい」
姿勢を正し、彼は正面から言葉を受け止める。
「今使っているあの部屋をお前にやろう。お前が皇太子として、あるいは国皇としてこの家を出て行った後も、あの部屋はお前のものだ。家族として、お前の帰りを待っているよ。嫌になったら――嫌にならなくても、いつだって帰ってきなさい。ここがお前の家なんだから」
「うん……」
彼は重く、そして深く頷いた。
「ほらほら、ハンバーグが冷めちゃうでしょ。早く食べなさい」
母親の急かす言葉が、いつにもまして温かい。
このハンバーグの味を一生忘れることはないだろう、イツカはそう思った。