学生編 04
斜陽に赤く染まる校舎を歩きながら、イツカは満足感に浸っていた。生徒会などという仕事に誘われた時は、面倒ごとはゴメンだと一度は断った彼だったが、今は少しだけ誘ってくれた響士郎に感謝している。
彼もまた人並みに苦悩する若者だ。思春期には反抗したしエロにも反応した。子供染みたワガママも口にしたし、自分のことを凄い才能を持った人間だと思ったことだってある。だが、何かをしたいと漠然と思いつつも、それを具体的な形にすることは今までなかった。
いつも、いつだって優秀な友人を横で見ながら羨ましいと思っていたのだ。自分にもこれだけの才覚があればと。
「もう帰るの?」
階段を下りようと足を踏み出しかけた瞬間、背後から声をかけられる。この遠慮のない口ぶりは確認するまでもない。聞き覚えのある生意気な下級生のものだ。
「あぁ、家族が待ってるんでね」
そう言いつつ振り替えると、小学生が高校の制服を着ている。
ちなみに昼間羽織っていた魔女のローブは脱いだようだ。
「ふーん、てっきり会長と一緒に最後まで残るものだと思ってたけど」
「そっちは残るみたいだな。それ、望遠鏡か?」
肩に担いだ円筒状の物体を見て、彼女――音差志麻華が天文部に所属していたことを思い出す。直径三十センチを越える大きな筒は見た目には重そうだが、彼女の表情を見る限りではそうでもないように映る。
「そ。屋上で後際イベントやるから」
「ずいぶん熱心じゃないか。星、本当に好きなんだな」
「昔からね。いつもは持ちビルに設置した望遠鏡で見てるけど」
「持ちビルてお前……」
普段の生徒会で顔を合わせる彼女は、やや反抗的である以外には普通の女子高生である。家が金持ちらしいと噂に聞いたことはあるが、そんな素振りを垣間見た記憶は、少なくともイツカにはない。
もっとも、そういうことをあまり気にせず付き合いを持つことが彼らしくもあるので、気付いていなかっただけという可能性も多分にあり得るが。
「大きくて高性能だから良く見えるんだけど、ネットを介してしか見てないから、直接レンズを覗くのって久しぶり」
「そうか。それは楽しみだな」
「うん」
彼女が素直に頷くのは、かなりレアだ。課金しないと無理なレベルである。
「そういや、天文部の出し物って占いだったけど、やっぱり関係あるのか?」
「なくもないけど、星座とかは関係ないよ。ここから見える星空は地球と全く違うし」
「あ、そっか。そうだよな」
「まぁ、単なる趣味かな」
「普段の音差を見てると、占いなんて信じなさそうにも見えるが」
理知的理論的な思考を好むという意味では、彼女は響士郎に似ている。それ故に次期会長などという噂も立っているワケだ。本人はサラリと否定しているが、彼女が有能であるということは自他共に認める事実である。
彼も、そんな彼女の才覚を認める一人だ。
「……結局、私のことは名前で呼んでくれないんですね、イツカ先輩」
「そう言われてもなぁ」
出会って間もなく、彼女は自分の苗字があまり好きではないという理由から名前で呼ぶことを求めてきた。だが彼は、未だに苗字の呼び捨てがせいぜいだ。
「まぁいいですけど」
「いいなら許せよ……」
「そうですねぇ、なら――」
言いつつ志麻華は、その華奢な身体を一歩寄せる。
「手相、見せてください」
「手相? 見られるの?」
「えぇ、少しだけ」
「いよいよ天文は関係ないな」
「いいから」
空いた左手でイツカの右手を強引に取り、ぐいと引き寄せる。身長だけでなく、手も小さい。その柔らかい感触に、イツカの鼓動が跳ね上がる。
普段見慣れているとはいえ、志麻華の顔立ちはかなり整っている方である。小さいとはいえ女性に迫られるというのは、悪い気はしないながらも緊張を強いられるものだ。
「……近々、大きな転機があるかも」
「転機? どんなっ?」
「さぁそこまでは……例えばそう、新しい家族ができるとか?」
「いや、結婚の予定とかありませんけど」
「新しいお母さんができたりとか」
「勝手にウチの家庭を崩壊させないでくれるかなっ!」
「なら新しい弟か妹ね」
「うそっ、あの歳でか!」
「体外出産ならそう驚くほどでもないでしょ」
「……そういえば、今日はどうしても家族揃ってパーティするんだとかって、妹どころか父さんや母さんまで張り切ってたけど、アレってまさか」
大事な報告がありますフラグ建設中。
「そう、今日はパーティなんだ」
「あぁ、うん。だから早く帰って来いってうるさくてさ」
「なら、そうしてあげないとね。きっと待ってる」
「ん? あぁ、そうだな」
何かに納得しているように何度も頷く志麻華に少しばかり奇妙な違和感を覚えながら、イツカは彼女と別れて階段を下り始めた。
「先輩!」
踊り場に到達したところで、彼女にしては珍しい大きな声が飛んでくる。
「何だ?」
「また明日」
「お、おう」
一方的に投げつけるような挨拶をして、志麻華は屋上へと向かうのだろう。階段を駆け足で上っていった。今日が文化祭ということが関係しているのか、その足取りはやけに浮かれているようにも見える。
「音差でも、祭は楽しいんだな」
普段の彼女は、努めて冷静さを取り繕っているようなところがある。見た目が少々幼く見えることを気にしていることもあって、意識して大人を演じているような印象だ。それが背伸びをしているようにも思えて、逆方向の人気に繋がっていたりするのが愛嬌ではあるが、実務的な実力に関しては言うだけのものを持っている。
運動はあまり得意ではないようだが、成績は優秀かつ品行も模範的で教師からの信任も厚い。特に記憶力に関しては、あの響士郎が『さすが』と褒め称えるレベルである。彼女に言わせれば、忘れることの方が信じられないというから驚きである。少なくとも彼のような一般人とは持って生まれた何かが決定的に違うのだろうと、思わずにはいられない。
「よっと」
だが、階段を下り切った彼の表情は晴れやかだ。
少し前の彼であったなら、きっと彼女や響士郎の才覚を羨ましいと思ったに違いない。それが自分にもあればと、そんな妄想に耽り、現実との乖離に落ち込んでいたかもしれない。
だが、今は違う。
今の彼は、できないことをやりたがらなければ、できることがたくさんあるということを知っている。
皆の話を聞くこと、皆の喜びを知ること、それが自分の喜びに繋がっていること、全て生徒会が教えてくれたことだ。イヤイヤやっていた時には、何も見えなかった。ただ損をしているだけだと思ったこともある。
「いや、損な性分だよな、確かに」
靴を履き替えた彼は、夕闇に染まり始めた空へと歩き出す。
先の見えない、その道を。